未完成作品からの抜粋

広畝 K

第1話 剣道部、退部

 時は夕刻、場は学校。


 さらに言うなら、観音崎市立東部中学校の稽古場がその舞台だ。


 板敷きと畳敷きから成るその広い稽古場に、二人の剣士が睨み合っていた。


 どちらも面・小手・胴・垂れをしっかりと身に付け、手には竹刀をしっかり握っている。挙措動作は落ち着いており、纏う気配や足運び、いずれを見ても同程度の力量であろう。


 二人の試合を判ずるのは、二人よりも背が高く、纏う気配も剣呑で、目つきの鋭い女生徒だ。艶やかな黒の長髪をリングゴム一本で束ね、二人の行動を刺し貫くような視線で見つめている。


 彼女の名は、霧ヶ峰シノと言う。


 この観音崎東部中の三年で、剣道部の部長であり、団体戦の主将である。全国大会には常に出場するほどの腕前で、目に見えるほどの気迫と凄絶な裂帛を放つ戦い方から、『鬼斬り』という二つ名で呼ばれ、恐れられている美剣士だ。高校は既に推薦で決まっている。


 その霧ヶ峰が厳しい表情で試合の審判を務めているのは、それほど珍しいことでもない。


 ただこの二人の試合に限っては、東部中で一・二を争う実力者であり、剣道部の長でもある霧ヶ峰しか、見届けられる者がいないのだ。


 他の部員は怯えて下がり、壁際に座って震えている。否、三年生はいつでも飛び出せるように身構えているが、残る一・二年生のほとんどが完全に竦み、腰が引けている有様であった。


 ――無理もないわね。


 と思いながらも、この場を恐怖に包むこととなった二人の試合を、霧ヶ峰は止めはしない。


 なぜなら、この二人の試合は誰の試合よりも真剣極まりなく、鬼気迫るほどの緊張感が必ず試合に表出するためだ。命を賭しているのではないか、と疑うほどに、苛烈な勝負になるためでもある。その二人の気構えは、見習うべきところが大いにあると彼女は思っている。


 そう思っている間にも、二人は互いに僅かに腰を曲げて礼を見せ、竹刀を構えて蹲踞した。


 残る段取りは、開始の合図のみである。


 試合はまだ、始まっていない。だと言うのに、二人の間では既に勝負が始まっているらしい。視線による重圧と気合がぶつかりあって火花を散らし、拮抗による力場の歪みが周囲に影響を与えている。


 はっきりとした緊迫の張力が場内へと広がってゆき、言い知れぬ高揚と緊張を、見る者全ての精神に誘引せしめるのである。


 ――この空気、嫌いじゃないんだけどね。


 感傷を表に出すことなく、霧ヶ峰は薄く息を吐いた。個人の感情を表に出しては、剣を扱う武道の主将は務まらないのである。


 ゆえに霧ヶ峰は厳しい表情を微塵も崩さずに、場の流れに沿った行動を取る。


 二人の姿勢を確認し、互いに油断も隙も無く集中しているのを良しと見る。


 そして、


「始めッ!」


 裂帛の気合を放つかの如く、彼女は稽古場を震わせんばかりの覇気でもって、試合の開始を宣言した。


 言葉と同時に立ち上がったのは、左右どちらも同時であった。


 垂れに『刃桜姉』と縫われた方は正眼の構えを見せ、『刃桜妹』と縫われた方は上段の構えを見せた。どちらも互いの間合いを測り、削り取るような摺り足で、足の動きがほとんどない。相手に気圧されぬといった意思を示すかのように上体を動かさず、けれども静かに確実に、その間をゆっくりと詰めていく。


 フェイントも気合の声も無く、音を排除したかと錯覚するほどの静謐な空間に、刃桜姉妹の両者が放っている重圧のみが肌に突き刺さり、少しずつ張り詰めてゆく。場に居る者の心身を、この上もなく圧迫してゆく。


 怯えていた生徒たちはすっかりその重圧の作り出す圧迫の雰囲気に呑まれ、自身というものを完全にその場の流れに乗せ、呼吸を思わず止めるほど、姉妹の試合に魅入っている。


 身構えていた三年生も同様で、固唾を呑んで目を凝らし、二人の動きを一切見逃さんとして、ひたすら見ることに集中している。


 審判たる霧ヶ峰は流石に場の雰囲気に呑まれるといった風なことはなく、気配を細く、薄く切り、平静な心地で佇んでいる。けれどもその胸中の一端では、二人の放つ重圧の強さに舌を巻く思いを持っていた。


 ――このプレッシャーに呑まれたら、勝負にならないわね……!


 そう思わざるを得ないほど、この稽古場の空間は異様な、独特の雰囲気に包まれている。


 それは実力者の放つ重圧が干渉し合って作り出す、一種の異空間だ。


 その空間では、実際の時間の進みと体感速度が一致しないという、時間感覚の狂いが生じることが多い。特に武道の大会などでもこうした異空間は生じやすく、場合によっては、相手の考えや意思が流れ込み、読み取れることすらあるという。


 そうした異空間が生じる要因は、実力者同士の放つ重圧のみ、というわけでもない。互いに相手を打倒せんとする強い意思が、その意思によって鍛えられた実力が、両者の間で理解されることにより、ある種の拮抗状態を作り上げるのだ。


 その拮抗は互いの間でしか通ずる筈のないものだが、不思議と周囲にもそれが伝播することがある。その拮抗における緊張が、実際の時の流れと体感の時の流れに差をもたらしてしまうのである。


 しかし、中にはその緊張が伝播しない者もいる。そういう者は、幸運だ。


 不運にも緊張が伝播してしまった場合、両者の動向から目を離すことができなくなるのだから。


 それは一種の狂気的な魔力でもって、実力者を誘う闘争の領域なのだ。


 この現象は現代に限られたことではなく、かつて古代のローマ帝国において執り行われていたコロッセウムにおける決闘でもしばしば生じていたとされているから、人類の闘争に対する因縁の深さは底知れないということが窺えるだろう。


 閑話休題。


 二人の試合の流れであるが、互いが間合いの直近まで進んだ後、膠着の時がしばし続いた。


 しかし先にも述べたとおり、時間の感覚がちぐはぐで、狂いの起きている空間であるから、どれだけの時が経っているのか、誰にも分からない。


 一分か、十分か、或いは数秒にすぎないのか、長くも短くも感じられる緊迫の時間を経て、張りに耐え切れなくなった緊張が、破られる兆候が誰の耳目にもはっきりと感じられた。


 緊張の帳を破ったのは、上段に構えた刃桜妹であった。


 ぬるりと形容できるようにゆっくりと、されど滑らかに動いたその左足は、誰の視界と意識にも、違和を与えぬ鮮やかな初動であったと言って良い。


 次いで僅かに遅れ出て、姉もすかさず始動する。だが、その僅かコンマ何秒という小さな差が、実力の拮抗した者同士の試合では勝敗の分かれ目となりうるのだ。


 その点から観るに、先手は妹が取ったと思って間違いない。


 間合いに一歩、先に踏み込んだ妹は緩やかに見えるほどの動きでもって、その両手に握った竹刀を振るう。その振るいから放たれたのは、目にも映らぬ一撃であった。


 すなわちそれは、上段からの面打ちである。


 最短距離を最速で打ち下ろし、敵の頭蓋を割断せんとする必殺の一刀だ。たとえそれを読んでいて、頭部を動かして避けられたとしても、肩を打つのは間違いない。肩を打てれば相手の挙動は鈍くならざるを得ず、自然、自身がより有利になる。


 さらに相手の初動は自身よりも一歩遅く、体捌きで避けようにも避けられる態勢ではない。十中八九、面への攻撃は命中するだろう。


 ――獲った!


 と、妹は頭の中で冷静に状況を見て判断しつつ、けれども胸中、勝利の確信に酔っていたのだろう。


 だからこそ彼女は、自身の竹刀が確かに相手の面を打ったのを視認したと同時、不意に受けた衝撃に驚いたのだ。意識が飛びそうになるほどの重い一撃を、まともに受けるとは思わなかったのである。


 一方の姉は、妹の構える上段から放たれる面打ちには勝てないと、冷静に判断していた。


 ――あれは……速すぎる。


 その軌跡は目にも映らず、腕や肩の動きを見ても、自身の動きが意識についていけないのだ。


 不可避と言っても過言ではない。


 であるがゆえに、受けに回らざるを得ない。しかし受けに回ったところで、連撃に次ぐ連撃を凌がなければならなくなる。そしてその一撃の連なりの隙たる一瞬の合間を見切り、或いは一撃を受け流して連なりを途切らせ、反撃を行わなければ勝機は無い。


 妹の苛烈な攻撃を知る姉にとって、いや、同学年の剣道部員であってもその連撃を耐え凌いで反撃に出られる者はない。ただ一人、部長の霧ヶ峰を除いては。


 連撃に入られたら終わる、であるなら、どうするか。


 姉の出した答えは、正眼からの迎え突きによる一点突破であった。


 防御も読みも全て投げ打ち、相手が動き出すよりも速く、疾く、面に竹刀を突き出して動揺を誘う戦法しかない。そう考えていたのだが。実際に試合が始まると、その考えは甘いと判断せざるを得なかった。


 突きで動揺を誘うだけでは、呑まれて終わる。


 ――決めなければ、負ける……!


 そう判断を改めざるを得ないほどに、稽古場を包んだ緊迫は凄まじい。自身と相手によって作られた重圧に加え、部員たちの期待や不安の感情をも干渉させた、今までとはさらに異なる時空の歪みができている。


 自他の動きが見た目以上に遅く感じられる集中の極みが、体感時間と実時間における相対の歪みが、稽古場に発生していると姉は感じ取っていた。自身がそうと感じるのであれば、妹もそう感じているだろうと、そのように想定するのは自然であろう。


 ゆえに、動揺だけでは決定力に欠けると断じ、突きの一撃で仕留めると、姉は決したのだ。


 そしてその判断は、


 ――正解だった。


 本来反応できぬほどの速さである妹の初動を、視認させるに至ったのである。視認後の対応を、足の踏み出しを、可能とさせるに至ったのだ。


 ――これは……!


 これは、快挙と言って良い。


 先の先を取った妹の上段からなる剣撃に、対応できるほどの速さを得たのだ。体感と実時間における感覚の矛盾が、想定外の速さを姉の意識に与えたのである。この速さであれば、剣撃を受けることも、回避することも可能であろう。


 しかし、速さを最大限に活かし、勝機に注ぐとするのであれば、受身という選択は無い。


 ――攻撃だ。


 それも一撃を狙うより他にない。一撃とはいえ、それほど難解なことでもない。


 ただ一歩、正眼の構えを崩さずに、相手に向かって踏み込むだけで良い。


 ただのそれだけで、後は相手が自分から突きに飛び込んでくるという理だ。


 しかしその一歩を踏むのに、大きな勇気が要る。決断も要る。同等以上の技術も要るのである。


 幸いにして、姉には妹に劣らぬ技術があった。勇気もあった。無かったのは、決断だけだ。そしてこの場において、決断させる状況を得た。


 ゆえに、踏み込んだ。


 姉の決断と妹の速さが生み出したのは、相撃ちという結果であった。


 しかしその瞬間を確かに視認したのは当事者と、


 ――見事!


 審判である霧ヶ峰のみであったと言って良い。


 他の者は両者の激突における空白を認識することができなかったのである。


 稽古場の全員が今見ているのは、強かに脳天を打たれて僅かにふらつき、けれどもゆっくりと揺れを収めつつある刃桜姉と、攻撃に合わせた迎え突きにより全体重が反転して返ってきた衝撃をまともに食らって飛ばされた刃桜妹の姿である。


 特に妹の方はダメージが大きかったらしく、三歩も四歩も後退した後しゃがみ込み、俯いて膝を着いていた。被っていた面は頭から外れて落ちており、少々歪に曲がっている。どれだけの衝撃が面に与えられたか察せられるというものだろう。


 一見しただけならば、妹の負けであると誰もが思うに違いない。 しかし審判は判じることなく、両者の挙動を見守っている。


 なぜ、と部員たちが疑問に思う中、足のふらつきを収めた刃桜姉が、それに対する答えを見せたのだ。微かにまだ上体に震えがあるものの、竹刀を再び正眼に構え、妹の方に向けたのである。


 それを見て部員たちは驚愕した。


 ――まだ、試合を続けると……!


 皆の心が刃桜姉による構えにて結論を得た際の、その一瞬の空白に、刃桜姉に向かって鋭く飛来する物体があった。


 それは、音を立てるほどに回転している竹刀である。


 空を裂き、猛烈な勢いで敵を打たんと向かってゆくそれは、刃桜姉の真正面へと飛んでゆく。


「――ッ!」


 未だに衝撃で朦朧としている意識の中、視界に入った異物を認めて、姉は妹の寄越したであろうその竹刀を、後方へと流すように打ち払う。


 竹刀はその回転と勢いを殺され、床を滑るようにして流れてゆく。そうして竹刀が自身の後ろを流れていくのを姉は見送ることはない。正確には、そんな余裕など無かったのだ。


 なぜなら彼女の視界には、再び飛来した異物が入ってきていたためだ。


 妹の被っていた歪んだ面が、縦回転を纏って不規則にブレながら、胸元へと迫ってきていたのである。恐らくは妹によって竹刀のすぐ後に、飛び道具として投擲されたのであろう。


 ――くっ!


 流石に不規則な軌道で向かってくる面を竹刀で弾くことは難しい。かといって余裕を持って避けられるほど自身の体調はまだ回復していないと姉は判じている。無理に避ければ、体勢も崩れることになるだろう。


 ゆえに竹刀を持った手はそのままに、もう片方の空いた右小手にて弾き落とすより他にない。


 そして、面を弾いたその隙を、

「もらったあッッ!」


 妹の強い踏み込みからなる飛び膝蹴りをまともに受けることとなった。


 紛うことなき、直撃である。


 姉の面は外れて吹き飛び、手拭いすらも解けて飛び、刃桜姉の黒く長い髪が宙に解けて舞うようにたなびいた。


 けれども姉は瞬間的に受身の態勢を取ったらしい。顎を蹴られながらも倒れることなく宙を後方に回転し、板敷きに叩きつけられることもなく、軟らかな着地を成功させた。左手には、しっかりと竹刀を握り、まだまだ意気軒昂といった風情である。


 顔に掛かった髪を後ろへと流し、ゆっくりと立ち上がる。その涼しげな表情は怜悧な知性を思わせるが、目に宿っている意思は燃え盛っているかの如くである。


 妹は妹で、飛び蹴りを見事に決めながらも、全身に弛緩や油断は無く、姉と同様に熱い意思をその瞳に宿している。頭に巻いた手拭いを投げ捨てて、黒く短い髪を晒し、拳で戦う構えを取った。


「カナメ、ここで決着をつけるんだったろ? その手に持った竹刀でかかってきな。ハンデとしては丁度良い」


「……言われなくてもそうするつもりよ。覚悟なさいな、カナミ」


 カナメは右手で強くこめかみを押しながら、左手の竹刀を強く握る。それは構えというには型がなく、しかし先よりも好戦的な刺々しい雰囲気を纏っている。それは剣としての竹刀ではなく、武器として扱うための持ち方であるに違いない。


 しかしカナミはそれを一向に構わぬ様子で笑みを見せ、まだ突きのダメージが残っているかのような揺れを見せながら、それでいて竹刀を持とうとしていない。で、ありながら、戦いを続ける構えを取っているのだから異常である。


 すなわち、最早これは試合ではなく、ただの闘争と成り果てたのだ。高尚な精神性など僅かもない、私闘以外の何物でもなくなった。


 姉妹が足に力を入れ、互いに決着をつけようと動きを見せた瞬間に、


「それまで!」


 霧ヶ峰の喝が、稽古場を大きく震わせた。と同時に、姉妹は背筋を貫くほどの冷えた感覚を得た。反射的にその場から退散し、己の武器を殺気の元へと、霧ヶ峰へと向けた。


 殺気を放った霧ヶ峰は、試合前の鋭い目つきなど無かったかのように、平静極まりない表情を湛えている。そして姉妹の睨みを穏やかに見つめ、交互に闘気を解かさせて、静かに言葉を告げた。


「はい、試合はお仕舞い」


 手を打って終わりを告げ、加えて二人に笑顔で言った。


「二人とも、部活が終わった後にちょっと残ってね」


   ***


 その後、部活は恙無く終了し、部員は残らず帰宅した。


 残ったのは、刃桜姉妹と霧ヶ峰のみである。一人と二人は互いに向かい合い、正座をもって対話の形をもっていた。茶の一つも飲むことなく、汗をかいてそのままの、冷め切らぬ熱気を保ったままの格好である。


「さて……」


 と話の切っ掛けを出したのは、姉妹を残した霧ヶ峰だ。


 姉妹は緊張も怯えも何もなく、静かに彼女を見つめている。


 しばらく霧ヶ峰はどう話を切り出そうかと悩む素振りではあったが、すぐに考えるのを諦めたのか、率直に二人に問いを放った。


「二人とも、剣道は好き?」


「好きです」


「そりゃそーよ」


 二人の返事は明快で、考える間もない肯定であった。


 ゆえに霧ヶ峰としては、悩ましいところである。剣道部の部長として、剣の道を歩む一人として、残酷な言葉を投げかけなければならないからだ。


 それは、


「二人には、剣道部を辞めてもらわなくてはならないの。ごめんなさい……」


 退部を告げる、言葉であった。


 頭を床につけるほどに下げた霧ヶ峰を見下ろしながら、姉妹二人はしばらく呆気に取られていた。霧ヶ峰が自分たちに謝ることもそうであるし、剣道を辞めてほしいと告げられたことも唐突で、理解が及ばなかったためだ。


 先に正気を取り戻したのは、姉のカナメの方であった。


 彼女はその黒い瞳に静謐な光を湛え、けれどもその光を微かに震わせながら、


「……何故です?」


 頭を地に着けたままの霧ヶ峰に疑問を呈した。


 カナメの胸中は冷静でない。それが証拠に瞳の光だけでなく、声にも僅かな震えがある。


 どうして自分たち姉妹が剣道部を辞めなければならないのか、という言葉に対して悲しみを感じているためだろう。そして部長が直々に申し述べてきたということは、それが撤回されることはなく、ほぼ決定事項であると考えられるからでもある。


 その率直な疑問に対し、霧ヶ峰はどうやって説明したものか、と頭を悩ませた。事の本質は単純なものではあるが、単純であるがゆえに、どのように説明すればいいのか悩むのだ。どう説明すれば相手の心をそれほど傷つけることなく伝えられるのか、部長として、先輩として、考えなければならなかった。


 しばしの沈黙を経た後、ぽつりと、カナミが呟いた。


「価値観の違いか、部長?」


 その的を射た確認に咄嗟の返答ができなかった霧ヶ峰であるが、やがて何かを諦めたように息を吐き、無言で肯定の意を表した。


「そうか……」


 カナミは静かに理解を得たが、


「どういうこと?」


 カナメは依然として理解を得られぬままであった。


 価値観の違いというが、何の価値観が違うというのか。また、その価値観がどうして剣道部を辞めることに繋がるのか、カナメには少しも分からなかった。


 狼狽を見せるカナメに対して、カナミが説明しようと口を開きかけ、


「カナメさん。貴女にとって、剣道とは何です?」


 それより先に、頭をゆっくりと上げた霧ヶ峰がカナメに対して問いを投げた。


 その問いは、聞く者によっては禅問答のように思えることだろう。単純な問いであるがゆえに、確固たる己がなければ答えられず、どこまでも迷い続けてしまう性質の問いである。


「それは剣の道でしょう」


 しかしカナメは中学二年の若さであるにも関わらず、その問いにあっさりと答えてみせた。先における剣道は好きか、という問いと同様に、明快な判断基準を持っていることを窺わせる堂々とした回答であった。


 しかしその回答を前提としているように、霧ヶ峰は問いを連ねた。


「では、剣の道とは?」


「人を殺す道です」


 カナメの思考としては、剣とは人を斬るものであり、殺すものである。ゆえに剣の道というのは、敵たる相手を殺してゆくことであると、そういうことに他ならない。


 剣道とはスポーツではなく、精神や道徳を修養するための作法でもなく、極めてシンプルな人を殺す技術であると、そういう答えであったのだ。


 技術である以上、そこに特別な意味など無い。ただただ人を殺すための手段であり、方法である。倫理も哲学も精神もなく、ただただ技術を鍛錬し、磨いてゆくという一点においてのみ、剣道に価値を見出していると言って良い。


 カナメの答えは身も蓋もない実戦技術としての剣道であり、そして霧ヶ峰も彼女がそう答えるだろうことを半ば予測していた。


 剣道に対してそのような価値観を持っていると感じたからこそ、そのままの価値観で剣道部にいてもらっては困ると判断したのである。


 ――けれど、惜しい……。


 と霧ヶ峰が思うのは、その判断の大元が学校側の要請であるためだ。学校側が余計な口出しをしなければ、彼女が姉妹を退部にさせるといった措置は取らなかったであろう。


 しかし、それはもう考えても仕方の無いことだ。現に教師から、そして生徒会長から要請を受けてしまった以上、部の長としてはそれに従うより他にない。


 そして霧ヶ峰は姉妹の価値観を変えられず、退部に追い込んでしまったことを自身の責任として負った。二人の退部を自身の判断であるとして、正面から姉妹に向き合ったのだ。場合によっては戦闘も已む無しと、その覚悟をも決めて望んだのである。


 カナミは下を向き、膝の上の拳を強く握り締めていることから、自分たちが部を辞めざるを得ない状況であることを完全に理解したのであろう。剣道部の価値観を知り、考え方を改めたと姉妹が宣言しても、学校側はもう彼女たちに稽古場の敷居を跨がせないに違いない。


 しかしカナメは前を向き、霧ヶ峰をしっかりと見つめ続けていることから、未だに剣道部と自身における価値観の相違を分かっていない様子であった。


 ゆえに霧ヶ峰は、単刀直入に切り出した。


「カナメさん、現代の剣道は人を殺す道ではなくなったの」


 霧ヶ峰はカナメに滔々と説いた。カナメのいう『剣道』は、現代における『剣道』とは大いにその考え方を異にしていると告げたのである。現代の剣道には、殺人技術としての意味など求められておらず、心身を稽古で鍛え、人間としての成長に大きな意味を付与することを求められているのだと説いた。


 しかしカナメは動じずに、


「それは大きな間違いです」


 と、静かな口調で切り捨てる。


 カナメは霧ヶ峰の説いた『剣道』を、現代に求められているその価値観を否定した。彼女が言うところ、それは剣の堕落であるという。


 剣とは元々、殺人のために作られたのが根本にあることを忘れてはならないと彼女はいう。剣に道と呼ばれる観念ができるようになったのも、敵を徹底して殺すために肉体を鍛え、隙を生ませぬ精神を培い、戦術の巧緻を極めたためだ。あらゆる手段を用いて敵を殺すという目的のため、棒きれを振るだけの技術にさえも、合理を窮めた体系が確立されるに至ったのである。


 それがどのように曲がったか、倫理や道徳といった概念が入り込み、卑怯や卑劣、正々堂々といった無用の感情が剣を鈍らせることとなったのが現代の『剣道』であると彼女は言うのである。


 剣の最終目的である敵を殺すということについて、人間の感情は余計な感傷を生むもので、死を忌避する考えすら齎す。死を忌避する考えは自己に留まらず、敵たる相手にも及ぶことは明確だ。それはすなわち、剣の道を汚すことに他ならない。


 長々と述べたが、


「つまりは、甘い、ということです」


 しかし、と続けてカナメは軽く息を吐き、


「もし、剣道部の掲げる『剣道』が、先に部長が言った通りのものであるなら、確かに私たちは部を辞めざるを得ませんね」


 その声に僅かな感傷すら乗せず、淡々と退部を受け入れたのである。


 姉の飄々とした態度を見て、妹のカナミは少し拗ね気味に、ぶっきらぼうに呟いた。


「……本当に良いのかよ、カナメ」


「良いも悪いも無いわよ」


 と、カナメもまた拗ねた風に言ってみせ、けれども、


「今まで結構好き勝手に暴れてきたしね。まあ、年貢の納め時が来たということよ」


 あっけらかんとした口調で、あっさりと話を締めたのだ。そんな姉の、あっさりとした態度にカナミは呆れ、霧ヶ峰は申し訳なさそうな顔をするばかりであった。

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未完成作品からの抜粋 広畝 K @vonnzinn

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