境界列車

アイオイ アクト

第1話 駆込乗車

 真夏の就職活動は禁止にしてよ。

 滅多に面接すら出来ない程の連敗街道を突き進む私がそう思ってしまう程、街の空気は煮えくりかえっていた。

 数少ない面接のチャンスをくれた先は、レンガ敷きの瀟洒な歩道をワンピースに日傘のマダム達が行き来する街だった。この街で働ける事になったら、私もあの巨大サングラスをかけて闊歩してやる。

 今の私がこの街には似合うはずもなかった。

 苦手なパンプスはトートに放り込んでスニーカー履き、そして一張羅の秋冬物のパンツスーツのジャケットも脱がずにしっかり着込む。万能避暑装置の日傘は電車に置き忘れてほぼノーガード状態。

 季節外れな馬鹿馬鹿しい出で立ちは私の体力をノミと金槌で削り取っていくのが分かるのだが、脇の下に華厳の滝を持つ女として、ジャケットを脱ぐ訳にはいかないのだ。手足の肌が酷く汚いというのも理由の一つだが。


「ねぇ、アレ見て!」

「あ、あぶない!」


 ふらふらと駅へと向かう道すがら、そこにいる全員が騒いでいた。


「なんだろ……あれ?」


 ああ、あれが幻だったら。

 まるで溶鉱炉に沈んだかのような暑さと、日傘を取り戻さねばという焦りと、思った以上に芳しかった面接の手応えに浮かれた心が見せた幻だったら、どんなに良かっただろう。

 踏切の真ん中に何かがあった。その正体は数歩近付くとすぐに判明した。

 ベビーカーだ。

 電車が近づいて来る。警笛が聞こえた。誰も助ける人はいない。

 気付けばトートを投げ捨てて走り出していた。


「え……?」


 ベビーカーを掴んだ瞬間、私はその場で凍り付いた。その一瞬が、私の命運を分けた。

 急行大井町ゆきという文字が見えた瞬間、体が弾け飛んだ。

 人間は大きな物にぶつかると、こんなに飛ぶものなのか。景色はまるで無数の線のように見えた。やがて体は地面に落ちた。まるで自分の頭が大きな卵だったかのように、ぐしゃっと割れた。そんな気がした。目の前はすでに真っ黒に染まっていた。

 何も怖くはなかった。これから自分がどうなるかなんて気にしなくても良いからだろう。

 ああ、命が抜けていく。人生の終末に誰しも一度は経験するのだろう。

 こんなところで私は終わってしまったのか。お洒落な街に似つかわしくない無骨な踏切で、空っぽのベビーカーを救い出したらぶっ飛ばされてしまった。

 別れを告げる家族もなければ友人もいない天涯孤独な私だ。特に困る事などない。

 今日の面接結果は知りたいけれど、知ったところで、頭が潰れてしまっている。奨学金を返せなかったのは申し訳ないところだ。

 重たくなったまぶたをゆっくり閉じる。先程と同じ真っ暗な空間のままだった。

 でも、すぐに明るさを感じて目を開けた。


「あ……れ……?」


 どこだろう、ここは。誰かが近寄ってきた。そうか、これがお迎えか。


「どうも、初めまして」

「え? うわ……え!?」


 羊がしゃべった。

 いや、正しくは羊頭の人間だった。羊は悪魔の象徴なんだっけ。それは山羊だったか。

 それはともかく、私はあの世という場所へたどり着いたようだ。黒いスーツに黒いネクタイ、顔はリアルな羊に話しかけられるなんて、あの世以外で起きるはずがない。

 そうか。私はたった今、死んだのだ。

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