第42話 正義の牛が一本足で立つ時代

 神の国として知られるトラタ共和国では、神の生まれ変わり、すなわち生き神が古代から存在する。数々の聖典や神話、歴史の記録にも残されている。

 渚沙が初めて参加したツアーで、井上潤次郎いのうえじゅんじろうが「神話は実話、本当にあったことなんだよ」といっていたが、トラタ共和国の人はそう信じていることは間違いないし、シャンタムやナータも認めている。間違って伝えられている部分は生き神たちが折々に訂正している点も面白い。


 トラタ共和国の聖典、聖者によれば、世界は生まれてから滅亡するまで四つの時代に分類され、各時代は正義の度合いで決まる。正義の象徴である「」は最初は四本足で立っている。二番目の時代は三本足、三番目の時代は二本足、そして最後の時代は、正義の牛はみじめに一本足で立つ状態になる。

 現代は人類始まって以来最も正義と道徳がすたれ、悪が蔓延まんえんする四つ目の時代、すなわち最後の「暗黒の時代」に当たるそうだ。世界の滅亡までどれくらい暗黒期が続くのか――ナータの話を思い出す限り、残り三千年である。その話はまた別の機会にするとしよう。


 聖典や神話によると、四つのどの時代にも、国や世界を支配しようと企み、聖地を荒らす者が現れ、悪が優位に立つ状況に遭遇する時期がある。その度に人々の願いに応えて生き神たちが降臨こうりんした。昔の生き神たちの使命は、邪悪な者たちを滅ぼすことだった。地上での生活をエンジョイするためにやって来るのではない。バッサバッサと無数の悪鬼たちを退治した。勧善懲悪かんぜんちょうあくをテーマとする日本の時代劇さながらの単純なストーリー展開ではないが、まあ似ているといえば似ている。


 ナータは、「現代の生き神は殺すことはせずに、愛で導く」と宣言している。シャンタムやナータが悪人や犯罪者たちを善導するために、彼らを受け入れているのはそのためだろう。彼らは殊更問題のある人物の相手をし、特別な時間を設けることが多い。


 にせグルのフミと前科者、小室比呂子のグループに頭を悩ませていた時、以前シャンタムのもとに長期滞在していたことのある、ナータの聖地の永住者が渚沙にいった。

「イタリアのマフィアもシャンタムを慕って会いに来てたからね。生き神は犯罪者も指導しなくちゃいけないだろ。だからナータもフミたちを受け入れるんだよ」

 マイケル・ジャクソンや日本の元首相がシャンタムのところへ来ていた話は知っているが、さすが世界のシャンタム。犯罪者たちの心も捕まえて離さないようだ。生き神なら彼らを指導できるだろう。


 
ナータは、フミのグループが来るとよく彼らに時間を割いていた。周囲の人間は、明らかにそれが精神治療であることを承知しているが、当の本人たちは、フミがVIP扱いされていると信じているのだ。


 ナータから呼ばれると、フミは英語が話せないので常に秘書付きである。その秘書というのは例の横領の前科者、小室比呂子だ。

 ナータは毎度「フミは私の話を何もわかっていない」というし、小室比呂子の英語力はゼロに近く、これでは相手には全く通じないだろうと思うほどハラハラする悲惨な日本人英語だ。一般的な日本人英語の場合、単語がはっきり聞こえてわかりやすいが、小室比呂子のそれは変な抑揚がついていて聞きづらく、聞いているこちらがえらく恥ずかしくなる。フミのグループには他に英語ができる者が一人もいないのだ。


 それでも小室比呂子は若い頃、なんと日本航空の国際線の客室乗務員だったという。フミと本人から聞いたのだが、渚沙は驚きを隠せなかった。いや実際には隠したが、心の中ははてなマークだらけだった。採用されたのはコネか、あるいは一流大学でも出て勉強だけはできたお陰としか思えない。


 地下鉄サリン事件に関わっていたカルト団体の犯人たちは高学歴の人間が多かった。

 学校ではただ教師から用意されたものをこなすだけでいい。受け身なことは得意でも、社会人になって世の中で歓迎され、賞賛されるような人間になれるか、賢明に生きられるかはわからない。

 社会で生き抜くには、「IQ」が必要だ。社会的IQは学校の成績とは無関係のようだ。むしろ少し勉強ができない人のほうが、他人の倍努力したり、工夫したりしてがむしゃらに生きるだろう。自力で人生を築き、賢く魅力的な人間になれる可能性がある。そういう人は、誰かに依存したり、やすやすと胡散臭うさんくさやからに洗脳されたりしないはずだ。


 偽グル、吉澤フミを誰よりも崇めている前科者の小室比呂子。英語力はほぼゼロ、しかもあの器量で……悪いけれど国際線でなくても、客室乗務員はありえない。まあ大昔の話だというし、若い時は初々しくもっと可愛げがあったのだろう。今の姿は漫画「笑ゥせぇるすまん」のせたバージョンの喪黒福造もぐろふくぞうだし、気遣いが下手で他人に対する失礼な言動と、信じ難いケアレスな失敗をこれでもかというほど連発する。ボスであるフミが嘆くほどなのだ。


 重症な天然ボケなのか、小室比呂子には憎めないところがある。フミに度々怒られている姿を見ると渚沙は同情する。しかしながら、ちょちょいと二千万円を横領し、とんでもないミスを犯してフミから怒られて苦虫を嚙みつぶしたような顔で謝ってはいるが、ただ叱責されることだけを気にしている様子だ。過ちに対する罪悪感はないらしく、なかなかの危険人物といえそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る