第39話 見えない約束と因果

 ある朝、聖歌が終わってから、渚沙はナータの寺院の構内にある大きな破壊神の像の前で手を合わせて二つのことを願った。渚沙は普段、何かをお願いしたり、祈るということをしないのだが、その時は何気なく二つのことをお願いしていた。

 次の瞬間、「シュクフクします。シュクフクします」と日本語が聞こえてきた。ナータの声だ。目を開けふと顔を上げると、神殿の上階のバルコニーでナータが手をあげて渚沙のほうに笑顔を向けているではないか。他の参拝者たちも見上げて手を合わせている。

 朝、ナータが姿を見せることは滅多にない。他に日本人はおらず、特別に渚沙のためにわざわざ出て来てくれたらしい。ナータはすぐに中に入ってしまった。


 このように祝福されたということは、願いを叶えることをナータが約束したという意味だ。だが、少し遠かったこともあり、ナータが右手だけか両手を上げていたかは全く覚えていない。重要ポイントなのに――右手だけなら自らの努力も求められる。で実現するはずなのだ。

 ナータははっきりと「シュクフクします」と二回繰り返した。ナータは人に対する祝福の言葉は一度しか口にしないので、これは二つの願いを叶えるといことだろう。一つはナータとの結婚だったが、もう一つまで叶うのだろうか? それは無茶に思える。しかし、そちらはどうでもいい。渚沙にとって一番大事なのはナータとの結婚だ。これで婚約成立だ!


 ……だが、世の中そんなに甘くなかった。

 渚沙は生き神を甘く見過ぎていた。ナータは渚沙には父親のように特別に厳しく、立場が立場だからだろう、シャンタムと同様に渚沙のように若い女性をそばに寄せ付けないように細心の注意を払っていたし、本気なのか冗談なのか寺院にやってくる他の男性と結婚しろとよくいうので、渚沙は度々深く傷ついた。そのうち慣れてしまい、笑っていられるようになったが最初は辛かった。

 渚沙はナータがそうする理由を十分承知していた。昔、自分が男たちを傷つけてきた代償を払っているのだ。罪のない達也や、職場の取引先の純粋な彼は渚沙との結婚を望んでいたのに、渚沙は二人を同じように傷つけてしまったことが容易に想像できた。

 もしかしたら、他にも自分には記憶のない大昔、過去の人生で何人も同様に傷つけていた可能性がある。やりかねない。自分なら間違いなくそうしていた気がする。渚沙は途方にくれた。


「この世は100パーセント、因果応報で成り立っている」とナータがいう。

 どんなに理不尽に見えることも、原因があってのこと。シャンタムや他の聖者たちも同じことを教えているし、トラタ共和国の人々は、因果応報を一般常識として心得ている。不幸を他人のせいにしないという潔さは見習いたい。そういう意識を持つだけで、世の中は何倍も平和になるに違いない。トラタ共和国の人を見ていてよくわかった。

 だが、明らかに現在自分が何も悪くないのに誰かから嫌なことをされたら、自分に覚えがなくても過去の自分自身の行いのせいだと理屈ではわかっていても、なかなか受け入れられなくて渚沙はよく苦労した。

 ナータとのことは別だ。短い人生の間でも身に覚えがあるのでわかりやすく、なかなか結婚できないのは自分に原因があると思えた。そんな自分に腹を立てたり、ナータに対して腹を立てたりした。

 

 ナータと結婚できないなら死のう。ここから飛び降りたい……。

 最初の三年間、渚沙はニール川ではなく、宿泊施設の屋上から毎日泣きながら地面を見下ろして飛び降りようかと悩んでいた。飛び降りれば間違いなく死ねる高さだ。怖くてできなかった。一縷いちるの望みも捨て切れなかった。


 三年経つと死ぬことは諦め、ナータとの結婚について考えないように過ごし始めた。たまに結婚の約束を思い出しては泣くこともあった。

 ナータは渚沙と距離を置き、英語が話せないのでおとなしい渚沙は新たに加わったしゅうとのような永住者のおばさんたちからうるさく邪魔されたり、ただ若いというだけで嫉妬されたりしてとうとう引きこもり、地獄のような日々が七年続いた。七年には最初の自殺ばかり考えていた三年間も含まれる。その後も、独身のまま無慈悲に長い時が経過していくのである。

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