第4章 聖域の侵入者たち

第40話 要注意人物

 井上潤次郎いのうえじゅんじろう頻繁ひんぱんにツアーを組んで、聖ナータの寺院を訪れた。最近、毎月来ている。助手の小島栄こじまさかえの他に、二、三人のツアー客の顔は度々見かける常連だが、他はトラタ共和国に初めてやって来る人ばかりのようだ。徐々に三十人、四十人、五十人と参加者数が増えていった。

 井上は、渚沙の顔を見ると笑いながら「日本語が下手くそになったね」などといい、渚沙が現地に馴染み、活躍している様子を見て兄のように喜んだ。始終トラタ共和国人や西洋人たちと共にいたので、同国人が来ると渚沙は嬉しくなった。



吉澤よしざわフミという人のことは、ここにはとても紹介できない人ですから気をつけてください」

 ある日、井上が寺院側に警告してきた。そのフミという女はで、井上のツアー参加中に自分の弟子たちと身勝手な行動をとって迷惑をかけるという。日本社会から受け入れられていない人物だと井上が付け加えると、そばにいた小島や常連たちも頭を縦に振り同意している。


 会社経営者であるフミは、当時六十代前半で二回の結婚歴があり、長いこと独り者だそうだ。

「私が寿司を食べたいといえば、あの人は遠い町から寿司を買って来てくれた」

 どちらの元夫かは不明だが、フミが渚沙に誇らしげにそう話したことがある。人を自分の思い通りに動かしたい女王タイプだと聞いていたが、夫までも奴隷扱いしてそれを他人に自慢するとは……。


 フミは、自分をやり手のビジネスウーマンのように見せたがった。実際には、新アイディアを出しても成功せず、思い切って投資しても赤字続きで、稀に黒字になっても利益はほとんどゼロに近いと弟子兼社員が嘆いていた。それにもかかわらず、フミは個人的には金に困らず便利で贅沢な暮らしをしているらしい。美容整形をしたのではないかと疑ったこともある。フミは実年齢よりも随分若く見え、顔が能面のように引きつっているのだ。


 異常な問題点は、どうにも心のほうが寂しいのか、いやらしい方法で人の関心を引こうとするところだ。

「私はトラタ共和国の生き神、シャンタム、ナータとしている」といった霊能者気取りの適当な話をして、人に説教する癖があるらしい。二十人くらいの主に女ばかりの親衛隊がくっついており、フミのことを、自分たちのことをと呼んでいた。

 最初はその程度で、自分たちの世界に浸り、部外者には迷惑をかけないをしていただけだった。


 しかし――ただ妄想に浸るだけの自称聖人、フミのスピリチュアル・グループは、無関係の他人を狡猾こうかつに利用し始めた。


 渚沙がトラタ共和国に渡って間もない頃、小笠原という日本人夫婦が聖ナータに会いにやって来た。夫のほうは中学の校長、妻は小学校教師だ。二人は渚沙の顔を見るなり、日本人がいてくれてよかったと喜んだ。なにしろ英語がまったくできないという。日本のような先進国の人間からすれば、便利で安全とはいえないトラタ共和国に、日本語以外の言葉が分からないままやって来るのだから頭が下がる。

 ある時、小笠原夫妻は北部の空港で降り立ってタクシーに乗った。暗い路地で下ろされ、数人の男に囲まれると金銭を要求された。幸い、小笠原氏には柔道の心得があり打ち負かしたという。

 夫妻は、時にはそんな危険な目や不快な目に遭いながらも、りずに繰り返しトラタ共和国を訪れているのだ。余程この国が魅力的に映るのだろうか。一度トラタ共和国を訪問したら取りかれてしまい何度もやってくるM気味な人と、二度とご免だという人に分かれる話は昔からよく聞く。渚沙の知人、特に旧友は、渚沙は留学したり海外青年協力隊に憧れたりしていたくらいだから、好きでトラタ共和国に住んでいると勝手に思い込んでいるが、たまたまトラタ共和国に縁があったというだけで完全に後者のほうだ。シャンタムとナータがいなければ、絶対に来なかっただろう。


 翌年、小笠原夫妻が再び寺院にやって来た。すると、夫のほうが渚沙の顔を見るなり興奮気味にこういった。


「吉澤フミさんたちと一緒に来たんだけれど、秘書の小室っていうのが、ここに着いたら『あなたのお役目は終わりました』って見下すようにいったんですよ。とんでもないやつらです」
 

 偶然にも夫妻と同じ札幌に住んでいるフミと出会い、一緒にトラタ共和国に行こうという話になったらしい。フミのグループは、井上のツアーにもぐりこんでいた時は人任せだったために、どうやって未知であるトラタ共和国の聖者のところへ来たらいいか分からず、小笠原夫婦を利用したのだろう。

 フミの、問題のボランティア秘書である小室比呂子こむろひろこは高校の非常勤講師をしている主婦で、海外出張の多い夫と二人の娘がいる。彼女は以前、勤めていた会社から二千万円を横領した前科者で、フミがその犯罪の後始末をしていた。小室比呂子はフミを神のごとく崇めていたが、それも理由のひとつなのかもしれない。善悪の区別がつかない小室比呂子は、常識ある他の弟子が嫌がるようなことも平気で引き受ける、フミの都合のいい手先のようだった。

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