第29話 群衆心理

 若き聖者が現われたのは、ホテルのひとつの部屋にみんなが集められ、今後の予定についてミーティングをしている最中だった。何故、カリルはここに来たのか? しかも、とんでもない速さで追いかけて来たのだ。渚沙は不自然さに戸惑いを感じていた。井上も最初は唖然あぜんとしていたが、カリルがその部屋で個人個人にインタビューを与えると言い出すと、興奮し始めた。

 聖者の真似事か。いや、カリルも一応ということになっている。他のマイナーな聖者も一人ずつにインタビューを与えていた。トラタ共和国の聖者たちは無料で人々と会い、個人の相談に乗り祝福を与える。その時、絶対に金はとらない。カリルも例外ではなかったが……。

 カリルのお付きと井上の現地人ガイドが、部屋の一角に青っぽい大きな布のようなものを張って手早く簡易な別室を作った。カリルが選んだ人間が、一人一人その青幕の別室に呼ばれていった。通訳のために井上が同伴していた。

 各人が、カリルから一言、二言、言葉をもらっているらしく、通訳の声も聞こえたが、内容は聞き取れない。


 ツアー参加者のほとんどがカリルから青幕の別室に呼ばれたが、渚沙は呼ばれなかった。そして、とうとう布の向こうから姿を現したカリルがみんなに向かって話し出した。社交辞令的な内容でよく覚えていないが、現地のガイドが日本語に訳していた。
 

 

 最後に、「何か質問はないか」とカリルが尋ねた。

 渚沙は突如あることを思いついた。半分はカリルを試したかったのだ。渚沙がトラタ共和国にやって来たもうひとつの理由に関する、可能ならばちょっと確かめたいことでもあったが、確かめなくてもよかった。
 

 渚沙が手を挙げると、渚沙が内容を話す前に、カリルは「そのことは心配する必要はない、大丈夫」と即座に告げた。適当に答えていたようにはとても思えなかった。適当であれば、質問の内容だっていろいろなことが想像できる。

 そういう場で人は質問とはいえないことを聖者に向かって発言するのをみてきた。「心配する必要はない」といって済まされる内容ばかりではない。だいたい、渚沙には悩み事などひとつもなかった。能天気な顔を見ればわかるだろう。だが、聞きたいことの内容の答えと、カリルの答えは合っていた。カリルは確かに渚沙のことを知っていると感じた。そして、それはこれからの渚沙の人生で真実となること、カリルとは今後無縁であることを強調していた。

 カリルはやはり只者ではない。しかし、関わってはいけない危険人物のにおいがしてならない。


 質問が終わると、なんとカリルはあからさまに皆の前で布施ふせを要求してきたのである。カリルはそのためにここにやって来たに違いない。さらに渚沙が驚いたことに、井上を含む日本人全員が、いや、渚沙以外の全員が、その場で腰につけていた安全ポーチや、旅行中常に持ち歩いているハンドバッグなどから日本円やトラタ共和国の紙幣しへいを出し始めたではないか。

 何故こんな不自然な流れと状況の中で、みんな安易に金を出してしまうのかまったく理解できない。ツアーの参加者は、トラタ共和国のことも聖者たちのことも知らずに、互いに初めて顔を合わせた人たちばかりである。十五人ほどの参加者の中で、若いと言えば渚沙の年齢に近い女が二人いて、あとは人生経験を積んできたであろういい大人ばかりだ。みんなが出すから自分も出すという子供みたいな人たちでも、洗脳されるような人たちにも見えなかった。みんなどうかしている。

 渚沙はたった独りでショックを受け、棒のように突っ立っていた。

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