入浴剤彼女
物
第1話
僕は、一体どうしてしまったのだろう。
僕、あるいは『彼女』こそ、どうしてしまったのだろうかという方が、より打算的な感想ではあるだろうか。
つい一時間ほど前。彼女はいつものように僕のアパートの呼び鈴を鳴らし
いつものように律儀にかかとの高い靴を揃え
いつものように上着を僕に押し付けると
いつものようにさっさとリビングのソファに深く腰をおろした。
今日来たお客は〜だの、今期のノルマが〜だのと、やはり常の通り、テンプレートな内容の会話に、しかし充足感のある程度には花が咲いた。
そんな彼女が浴室へ向かったのがつい十分ほど前。 悪戯心から僕が浴室へ来たのはついさっき。
シャワーの音が立つバスルームの扉を開けると、入浴剤の香りがふわりと鼻に抜けた。
シャワーが出しっ放しの浴室には誰もいない。
とりあえずシャワーを止めた。
脱衣所を振り返ると、たしかに彼女のものである衣服が脱衣カゴに入っている。
浴室を向き直るが、やはり人の姿はない。
ああ、浴槽に身を隠しているのだな。
白濁した色の入浴剤により、浴槽の中はうかがえない。
それ捕まえたぞ、とばかりに腕を浴槽の中に投げ込むが、腕は湯を掻くばかりだった。
おかしい。
ならば、浴室の上の天板から裏へ?
天板には外すどころか触れた痕跡すらない。
相変わらず鼻に触れる芳香。
その香りに覚えのあった僕は、記憶を手繰り寄せる。
ああ、『彼女の香水の香り』だ。
脱衣所には衣服。
出しっ放しのシャワー。
天板は動いておらず。
脱衣所から出る音は無い。
そして浴槽には彼女の香りのする肌色の湯。
なんてことは無い。
彼女は溶けてしまったのだ。
なんと馬鹿げた結論だろう。
なんと突拍子も無い理屈だろう。
今の僕の心情を誰そかが伺うことがあれば、
十人が十人、あざけるなり心配するなりするに違いない。
しかし僕自身、この妙な結論にこそ、ひどく納得をしてしまっている。
彼女は溶けている。 目の前に横たわる、この浴槽に。
ぐい、と腕をまくり、そっと手先で湯を攪拌してみる。
さらさらとした感触と、そしてわずかに滑らかな感触とが共存している。
湯温は風呂にしてはややぬるい気がする。
追い炊きの操作をしようと思い指を向けるが、なんだかこの温度こそが正解のような感覚がして、やめた。
脱衣所へ戻り、衣服を脱ぐと、彼女の服の上に放り投げ、浴室へ戻った。
シャワーを出す。 湯温は四十一度だ。
頭に、顔に、体にシャワーをまわしかけ
湯でもって髪をしっかりと濡らすと
シャンプーを手に取り
髪になじませ泡立てる。
地肌は爪を立てず、指の腹で指圧するように洗うんだよ、と彼女にはよくよく言われたものだ。
シャワーで泡を流す。 洗髪はすすぎこそきちんとやれ、というのはやはり彼女の言葉だ。
コンディショナーは短髪の人間には必要ない、という言葉は……もう、誰の言葉であるかを説明する必要はないだろう。
体はなんとかという名前の、柄のついたスポンジで洗っていく。
やわらかいのだが、昔から手で体を洗っていた僕としては、未だに慣れない道具だ。
横目で湯船を見遣る。 相変わらず鼻腔には彼女が普段纏った香りが感じられる。
溶けてしまった彼女は、自我などあるのだろうか。 目は? 口は? 鼻は? 感覚などはどうなっているのだろうか。
ちゃぷちゃぷ、と手で浴槽を掻く。
これから君と生活して行くのに、意思の疎通ができないのは困るな。
一体どうしてくれようか。
君に浸かれば、あるいは何かわかるだろうかと思い、足先から浴槽に浸かる。
あたたかい。
温度計は三十七度を示している。
この入浴剤の性質なのか、温度が湯に逃げないようで、不思議と体の冷える感覚はない。
むしろ、入浴剤と僕との間で新たに熱が芽生えてさえいるようだ。
何か言って聞かせてくれよ。
触れていたって、そばにいたって、口に出してくれなきゃわかりやしないよ。
息を吸い、湯船に潜る。
湯船の中で目を開けてみると、塩水のように目にしみた。 あわてて顔を出し、シャワーで顔を流す。 それはそうだ、入浴剤なんてしみるにきまっている。
一息をついて、一度頭を平静に戻す。
入浴剤として風呂に溶けてしまった彼女と、どうやってこの先過ごせば良いのかという不安も、もちろん無いことには無い。
が、君との付き合いは長く、その間にも障害はあったし、しかしそれらも二人ならなんとかなった。
きっと今回だって、なんとかなるだろう。
僕の気持ちに呼応するように、やわらかな湯気は一層と浴室を満たした。
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