9th NUMBER『今すぐに見つけたい』
――もう……終わりにしよう――
――それからまた始めよう?――
あの日、僕があんなことを切り出したのは、何度も熟考した末の決意があったからだ。本気だった。もう本気にならざるを得ない、もう自分を誤魔化せないと思ってのことだった。
僕は言った。泣きながら言った。
例え弟と同じことになっても、必ず君を迎えに行く。ここで一度身体の関係を絶って、だけど心は繋がったままでいてほしい。君が卒業して僕が迎えに行くまで待っていてほしい。君がそれでいいならどうか……そうしてほしい。
力強く抱きすくめると張りのある彼女の身体が若さを知らしめる。そう、これほど若い子相手に恋をしたんだからと僕もある程度の覚悟は出来ていた。
僕がもたもたしている間に気が変わったんならそれでもいいと思った。悲しいに違いないけど、僕はこの一世一代の恋の記憶を心の支えにして生きていこうと思った。
だけどもし彼女が変わらずにいてくれたなら、その時は両親への説得を試みる。きっと了承はしてもらえないだろう。そしたら現在の職も辞して彼女と共に逃げるんだ。春樹と同じように。
厳格な実家を敵に回した上に三十代半ばでの転職だなんて、大きなリスクが付いてくることはわかってる。僕だってこんな大胆な選択を思い付くとは夢にも思わなかったよ。
だけど、だけど……譲れない。もう出逢ってしまったから。
さすがに残酷すぎただろうかと思ったこれにも彼女は実に素直に頷いた。実に素直すぎる願望まで乗せて僕に身を委ねる。
「今日は……いいですよね?」
「ナツメ……」
「しばらく触れられない、なんて、寂しいです。お願い、最後に……抱いて」
了承していながら何故“最後”なんて言うの。だけど彼女にとってはそれほど長い苦痛になるんだろうと思ったらここで断ち切る気にもなれなかった。
白昼なのに天の川に見守られているような幻想を見た。いいや、この罪を咎められているようにさえ感じた。
「本当にいけないことばかりしてるね、僕たち」
「それでも好きなんです、冬樹さん」
「僕だって」
たかが外れて加速していく
彼女がもっと強くと言った。もっと深く残してるほしいと願った。だから僕も彼女の鎖骨の下にへ口を寄せ、歯を立てて、そこに鮮やかな痕を刻んだ。
――――っ!
「ナツ、メ……!」
痛みに耐える彼女が僕の小指に噛り付く。痛みを共有した僕らは互いの哀しい味を余韻にして意識を薄れさせていった。
こういう行為が嫌なことを忘れさせるなんて一体何処の誰が言ったんだろう。少なくとも僕は共感できなかった。体感してしまったから。
どれだけ肉欲に溺れても切なさはそう簡単に消えるものじゃない。胸が抉られるようなこの痛みがいつしか快感へ変わっていく……そういういけない感情ならなんとなくわかるけどね。
事を終えた僕らは束の間の安らぎを堪能していた。今までよりも疲れたからなのか少し眠かったけど、彼女が確かに僕の腕の中に居たことを、勿忘草の話をしたことも……
「“真実の愛”……驚きましたよ、あんな意味があったなんて。男の人にしては随分マニアックだなぁって」
彼女がそう言って微笑んだことも……
僕はしかと覚えているんだ。
「…………あれ……僕、何を……」
ベッドの上で再び目を覚ましたとき、下着の一つも身に付けていない自分の姿に驚いた。枕元の目覚まし時計を見ると時刻は十四時ちょっと前。昼寝をしていたと考えるのが自然なんだろうけど。
(いつの間に眠ったんだろう……)
いくらなんでも状況が不自然だ。だって僕は眠るときに着衣を脱ぐなんていう習慣は無い。
ちょっと頭が重い。ということは、お酒を飲み過ぎて記憶が飛んだ?
いやいや、でもこの時間だよ? 例えそれが昨夜の話だとしても、僕の体質からしてもうちょっと早く目覚めてもいいはず……
――――!?
軽く顔を洗った後に下着に脚を通したばかりの僕は思わず振り向いた。
「良かった……いない」
僕は長い安堵の息を吐き出した。その直後、自身の言葉の矛盾に気付く。
いない?
居ない、って……
「おかしいじゃないか」
そう、この瞬間に僕ははっきりと思い出した。
酒の勢いなんかじゃなかったけど僕は確かに一人じゃなかった。多分ついさっきまで。
僕は“君”を抱いていたはずなのに。
――ナツ……メ……?
「……どう、したの、ナツメ。居ないの? 帰ったの……?」
僕はおぼつかない足取りで室内を彷徨った。言い知れぬ不安に駆られていた。帰ったなら帰ったで別に構わないはずなのに、今すぐに彼女を見つけねばという焦燥が満ちていた。
「ナツメ!?」
布団の中、浴室の中、トイレは蓋まで開けた。馬鹿かも知れないけど。更にはベッドの下を覗き込んだ。こんなの狂気じみてる、そうわかってはいても……
僕の嗅覚は確かに感じ取っていた。
ここに彼女の匂いの一つも無いことを。
そしてある一ヶ所で足を止めて呆然とする。
「この……栞」
窓際の壁。空っぽのハンガーの下にそれは落ちていた。僕が彼女にあげたものだ。うっかり落として帰ってしまった。そう考えることも出来たはずなのに。
――――っ!!
僕はたまらず外へ飛び出そう……と、したんだけど、パンツ一丁であることに気が付いて慌てて引き返した。危うく通報されるところだった。それくらい焦っていた。
とりあえずとばかりにくたびれたポロシャツとチノパンを身に付けた僕は街を目指して歩みを進める。早歩きだったそれはいつしか全力疾走になっていた。
「ナツメぇ……ッ!!」
海岸沿いの道まではそう呼んでいた。すっかり枯れて裏返った声で必死に叫んだ。
そして空がほんのり茜色に染まる頃に辿り着いた大学のキャンパス前。ここからはもうあの名前で呼ぶことも出来ない。
「おや、磐座くん。そんなに汗だくになってどうしたんだね? 今日は休みのはずじゃ……」
「柳沼教授」
そこで偶然鉢合わせた。ただでさえ驚いていた教授の肩を僕は迷わず掴んで更なる驚きへと
「な、なんだね!?」
「教授、ナツ……秋瀬、ナツメを……」
「あきせ?」
「秋瀬ナツメを知りませんか?」
途切れ途切れの息遣いでなんとか尋ねた。しかし怪訝に眉を潜めた柳沼教授は視線を斜め上へと彷徨わせた後、こう告げたのだ。
「あきせ……それは生徒のことか?」
「え……」
「すまんが、俺は覚えが無いな」
う、うそ、だ……
毎回どんな愚痴にも耐え、垂れ下がりの目を細めて、はい、はいと、従順な姿勢で聞いていたはずの僕が、初めて教授の前で感情を露わにした。自分の立場も忘れ、憤りにも似たそれをぶちまける。
「何故嘘をつくんですか。貴方が怒っていた生徒ですよ!?」
「なっ……!?」
当然ながら柳沼教授は狼狽えた。顔を真っ赤にしながら僕に反論する。
「ちょ、ちょっと忘れていただけだ! これだけ多くの生徒を相手にしているんだ、仕方ないだろう! あきせ、だな。ああ、居たような気がするぞ。大体なぁ、俺は自分本意で生徒に怒ったりなど……」
って、おい、磐座くん!?
呼び止める声が聞こえる頃にはもう背を向けていた。この人じゃ駄目だと確信したからだ。
(居たような気がする? おかしい、おかしいよ。それどころじゃないはずだよ。講義を乗っ取った生徒だぞ。プライドの高い貴方がそう易々と忘れるものか……!)
もつれる足取りでキャンパス内に駆け込むと今度は一人の生徒と肩がぶつかりそうになって振り返る。
「ごめ……あっ、荻原くん!」
「ユキちゃん先生? どうしたんですか、そんなに慌てて」
駆け寄った僕を見下ろす彼の目は、先日保健室近くで鉢合わせたときのような冷たいものじゃない。至って自然な驚き。それが却って僕の不安を煽る。
「秋瀬ナツメさん、ここに来てない!?」
僕はさっき教授にしたのと同じように彼へ縋り付いた。しかしその動揺も自然なもの。突如掴みかかられたが故の自然な反応。
嘘だ、お願い、嘘だと言ってくれ。
「あきせ……さん? 女子ですか?」
「…………っ」
「すみません、俺の知ってる子じゃないです」
――お願い、最後に……抱いて――
嘘だ……
――
嘘だって……
――冬樹さん――
誰か、言って。
ふと自分の手に視線を落とした僕の目から涙がとめどなく零れ落ちる。
確かに残っている痛み。うっすらと歯型まで。彼女が刻んでくれた。どんな困難があろうとも心はずっと一緒にいようと誓ってくれた、彼女が……
「ユ、ユキちゃん先生? だ……大丈夫、ですか?」
「……ごめん」
生徒の前でこんな失態を晒した僕は、結局この夜、自宅に一度寄ったもののすぐに外へ繰り出して。
“次は〜”
“名古屋〜、名古屋〜”
なんとその足で愛知まで向かった。大学時代から縁のあるあいつが居る場所だからだ。
――相澤。
「おう、久しぶりじゃの、磐座。急にこっちに来るなんて言いよるけぇ、一体何があったんかと……」
「一度手は洗っちゃったけど、もしかしたら傷跡に残っているかも知れない。DNA鑑定、出来る?」
相澤と落ち合った駅前で僕は実に狂気じみたことを言った。小指に歯型の残した自分の手を突き出しながら。
「……おめぇ、一体何をした」
相澤もまた、唐突な事態に対する自然な反応をした。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
お願い お願い
幻にしないで
僕は君を抱いていた
君のぬくもりを覚えてる
痛みを分かち合い 罪に溺れた
決して綺麗な関係じゃないけど
罪に染まってでも手放したくなかった
唯一の存在
愛しさの象徴
それこそが君だよ
お願い お願い
無かったことにしないで
何処にも行かないで
だって悪いのは僕でしょう?
僕が
清らかな君を
瑞々しい花園を欲望で掻き乱した
君が恥じることじゃない
君が背負うことじゃない
罰ならばどうか僕だけに
お願い お願い
君よ再びこの胸に
お願い お願い
神様
僕の最愛を幻にしないで
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