8th NUMBER『無邪気な夏を見せてあげたい』


 雪那が食堂を訪れたのは時間にして約三十分後のことだ。


 ルッコラとチーズが挟まったカンパーニュはオリーブオイルでしっとりと濡れ、耐熱ガラスのコップに注がれたジンジャーティーの中では輪切りのレモンが泳いでいる。ほのかな湯気と香りを漂わす昼食が銀のトレーの上へ並べられた。


 それを受け取った雪那は適当な席を探して歩き出す。ちょうど窓際に差し掛かったところで陽の光が細い筋となって彼を照らした。


 細長い指先でトレーを持ち、一つに束ねた長髪を揺らしながら憂いを帯びた視線を斜め下へ。泣き黒子を意味ありげに煌めかせるのは、太陽の恵みか、あるいはロザリオの慈悲か。何気ない仕草までもが実に優雅で、その場に居る多くの者の手を止めてしまう。



 そんな中で一際大きく目を見開いた者が居た。雪那と目が合うなりあっ、と小さく声まで上げて。


「やぁ、せ……イヴェールくん。一緒にどうだい?」


 振り向いたクー・シーは危うく口を滑らせそうになるもしれっとそれを正し手招きをした。向かいに座る金髪の女性、小さな叫びの主はこれでもかというくらい背筋を伸ばし顔を限界まで紅潮させている。


 ありがとうございますと礼を言い、クー・シーの向かいへ進む雪那。隣が何やらガタガタ椅子を鳴らすものだから雪那は申し訳なさそうに会釈をするのだった。



「紹介するよ。僕の部下、ミモザっていうんだ」


「初めまして。イヴェールです」


「はっ……!? はは、初めましてぇぇッ!!」



 見事に裏返ったミモザの声にクー・シーは堪え切れない笑みを漏らす。ぎこちなく向かい合う二人を優しい目で見つめながら、更にこんな提案を。



「ふふ、彼女は君の大ファンだからね、緊張しているみたいだよ。良かったら握手してやってくれないかい?」



 促された雪那はそっと手を伸ばした。その指先はわずかばかり震えていた。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 何やら不思議な事態が起こっていると僕はすぐに感じ取った。たった今、クー・シーさんから紹介されたミモザという女性と対面したとき……


 いや、正確に言うと、遠くから目が合ったときにはもう僕の霊力が反応していたように思える。


 こうして目の前にしてみると、澄んだエメラルドグリーンの瞳の奥に何か違う色を感じる、ような。もしや、もしやとは思うけど……過去に何処かで会った、人……?


 握手の為に差し伸べた手もぎこちない動きになってしまう。しかもあろうことかミモザさんは、僕の手に触れるなりポロポロと涙を零し始めたのだ。僕は驚きを隠せない。



「お会い……出来て、光栄です」


「そんな」



 この現象に僕は恐れさえ感じた。そんな風に感激されるような人間じゃないよ、僕は。その美しい涙を僕なんかの為に流さないでおくれ。言いたいことは幾つかあったけれど実際は言葉にも出来なくて。


「おいおい、ミモザ大丈夫かい? そんなに嬉しいなんてよほど憧れているんだね」


 クー・シーさんも驚きながら彼女をなだめているんだけど……



 憧れ。


 そうなのだろうか?



 それは自然と重なってくる。前世かつての僕の経験に。




――かな……た……?――



――ユキ……!――



 まるであのときの僕らみたいな反応だよ? 初対面というよりかは、そう……



 “再会”



「…………っ」



「あっ、すっ、すみません! 私……」


「い、いえ。僕の方こそ……」



 ミモザさんの少し傷付いたような顔を見てようやく気付いた。自分が恐れをなして手を引っ込めたことに。




 昼食を終える頃、僕は激しい後悔の波に飲まれていた。僕なんかのファンだと言ってくれた人にあんな酷い態度を取るなんてどうかしてる。


 仮にミモザさんが前世関わっていた人だとして、今さっき顔を合わせたばかりの僕の過去に気付くだろうか。春日雪之丞の頃の縁だとしたら尚更気付かない可能性が高い。僕の霊力が並外れているだけなんだ。



「気にしているのかい? さっきのこと」


 ミモザさんと別れた後、自室に向かう途中でクー・シーさんが尋ねてきた。彼は言う。有名な芸能人だって必ずしも人に慣れている訳ではない、むしろプライベートで人と接するのが苦手な人も少なくない。トレンドの俳優からセレブリティまで護衛してきたことがあるからわかるんだそうだ。先程の僕の反応も単なる人見知りに見えたのだろう。


「君ほどの人ともなると熱烈なファンも多いだろうけど、そんなに気張らなくていいと思うよ。ミモザも立場や場をわきまえてる子だから安心してね」


「……はい、すみません」


 小さく詫びる頃にちょうど自室に辿り着き、僕らは再び中へ入った。クー・シーさんの手には二つの瓶。共に腰を下ろしたところで一本を僕に差し出してくれた。


 蓋を開けると少し吹きこぼれそうになって僕は慌てて口をつける。上目で伺うとクー・シーさんもおんなじような反応をしていた。中身はレモネードのソーダ割りでしゅわしゅわ泡立つ爽快感を喉に与えてくれる。


「ごめんごめん、炭酸だからもっと気をつけて運べば良かった」


「いえ、大丈夫ですよ」


 僕は珍しく笑みを零した。凄く薄い表情だったろうけど、いつもよりリラックスした空間の中、ちょっとした懐かしさを覚えたせいかも知れない。


(屋台のラムネみたいだ)


 日本には明治からあの形で存在していたなかなか歴史の長いもの。あれもビー玉の栓を押した途端に溢れるんだよな……雪之丞も冬樹も知っている。一緒に夏祭りに行ったことのある夏南汰も知っている。



 だけどナツメ、君は……



 遠い昔の回想もやがては切なさに変わった。ありありと蘇ってきてしまったのだ。それは儚げながらも鮮烈に僕の胸へ焼き付いた。



 心と身体の関係を持つようになってから一週間程のある日、夕暮れ時。僕は帰り道でナツメの後ろ姿を見つけた。いつも一緒に居ては怪しまれてしまうだろうからと、たまにこうして別行動していたのだけど、このときの僕は時も場も忘れて見入った。


 りんご飴を分け合う浴衣姿の男女に祭囃子の音。すぐにわかった。彼女は羨ましかったのだ。


 そして僕は知っていた。この神社の奥へ進むと数々の屋台が所狭しと並んでいて、七色のヨーヨーや宝石みたいなカチワリや、可愛らしい金魚たちが見る者の目を楽しませてくれる。あと二時間もすれば花火が打ち上げられる。夏の夜空に大輪の花が幾つも咲くんだ。


 ここでは誰もが楽しむのことに全力を注いでいるから、難しい現実を考える必要も無い。カップルも友人同士も自由なものだ。



 連れて行ってあげたい。この煌めきの中へ。



「…………」



 それでも僕は声をかけることが出来なかった。わかっていたはずなのに胸の奥が軋んだ。鳴り響く祭囃子と人々の楽しそうな声を聴きながら。


 現実を忘れられる空間がそこに在っても足を踏み入れることは出来ない。禁じられた関係とはこういうことなんだと……今更。



 彼女とはあえて別方向へ向かった僕は小さなりんご飴を一つ買って帰った。寂しさに耐え切れなくなった彼女が今に僕の家を訪ねてくる、かも知れない。そのときは密なる空間でこの蜜の味を教えてあげる。そんな淡い期待をして待っていたのだけど、結局この日、彼女は来なかった。



 代わりに彼女はコンビニ袋を下げてやって来た。夏祭りからまた数日後。僕が休みだった日の昼間に。


 慌てて部屋着を整え、ボサボサの髪は手櫛で直した程度。出迎えるなり彼女はひんやりとしたアイスバーを突きつけてきた。やっぱり何か共有したかったんだ。そこに彼女のいじらしさを感じた。



 スイカに塩を振ると甘さが際立つあれに似ていた。冷えたはずの僕の身体に切ない熱が生まれていった。


 僕と並んでベッドに腰掛ける彼女の頰を涙が伝った。僕はもう耐え切れなくて……



「ナツ……」


「冬樹さん……!」



 それはどうやら彼女も同じだったらしく、僕の腰に縋り付く仕草でそのやるせなさを示した。僕らは激しく互いの唇を貪り、密なる時間に身を委ねようとしていた。


「ねぇ、ナツメ」


 だけど僕には言わなきゃいけないことがあった。着衣も乱れきった状態で今更とは思いつつも彼女へ切り出した。



「もう……終わりにしよう」



「…………っ」




「それからまた始めよう?」




 あのとき僕があんなことを言わなければ、ナツメは僕の傍に留まっていてくれたんだろうか。



 いや、違う。今ならもうわかる。



 あの頃の冬樹ぼくは知らなかったけど、そもそも別の世界の住人だったんだ。遅かれ早かれ彼女はフィジカルを去ることになっていた。


 だとしても、あと少し、もう少しだけ、傍に居たかったというのが本音だから。




「これがあの世界に於いて、ナツメとの最後の交わりになってしまいました」


「雪那くん……」



「そして三度目の春日雪之丞が目覚める引き金になった」



 クー・シーさんへこんなことを言って心の準備をしてもらったんだけど、実際はどうだろうか。


 彼女に対する異常な執着、理性の破綻した所業、少なくとも身体を重ねたときにはもう、雪之丞ぼくは本格的に目覚めていたんじゃないかとも思う。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 僕は君の過去を知らないけど

 それでも感じ取れることがあった


 出逢った頃の君の瞳

 その色の名は“漆黒”

 そして“孤独”


 私は何にも染まらないと

 頑なに示しているようだった



 僕は君の過去を知らないけど

 それでも確かに感じ取れる


 ずっと独りで生きてきたんだろう

 他者を羨む気持ちもあるくせに

 あれは私の世界じゃないと

 勝手に遠ざけてきたんじゃないのかい



 そんな頑なな君に

 心からの笑顔をもたらす存在

 それはきっと恋人であるべきだった


 そう

 何故 僕だったのだろう


 今の僕が与えられるのなんて

 切ない涙と甘い痛みと儚い快楽くらいのもの

 そこに君の望む自由は無い

 君に必要なものが無い



 だから僕が変わらなければと思ったんだ


 解き放ちたい

 いつの日か


 こんな狭い部屋に閉じ込められ

 愛欲に貪られるばかりの君を

 必ず 必ず

 僕の手で


 自由にしてあげなきゃ




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