第2話

引越しの翌日、ふたつみっつしかない家具と日用品の荷解きを終えるとその足で、越してきたばかりのK市の街を巡った。

K市は、古くから外国との交易が盛んで、日本有数の貿易港として栄えてきた街だ。

また、異人館やキリスト教会などの歴史ある建物も数多く、異国情緒を味わえるとあって観光客も多く訪れる。

高台から見える港の岩壁にはイギリスの大型客船が、その奥にはたった今飛び立ったばかりのジャンボジェット機が見える。

手入れのされた品のいい樹木が舗道の脇に植えられている。

住宅街のカーポートには高級外車が並ぶ。若く美しい母と車寄せで静かにお迎えが来るのを待つ子どもたち。

私の自転車はブレーキ音をきいきい言わせながら彼らの目の前を遠慮がちに走ってゆく。

この街は、あまりに大きくあまりに広い。反対に自分はとても小さい存在だ。どうやってお父さんを探すつもりなの?と、ヒバリが笑うように私の頭上を飛び去っていった。

私の住む、いろどり団地集会室脇の掲示板には、1号棟205号室に母親と二人で住む田嶋ハルコさんの詩が張り出されてあった。

ハルコさんは14歳。

中学に入学してすぐ不登校になり、以来学校には通えていない。

1号棟105号室に住む、元小学校の先生でこの棟の管理人をしている、森島ミドリさんが彼女の才能を見出し、それ以来詩のコーチをしている。

私は潮風でめくれそうになる詩が書かれた紙に手を添え、読む。


Singfully―春

鳥は頭上で天高く慶びうたう

春が来た、と

木々の緑はさやけし

あらゆる有機体は色を持って

生まれ変わる

生まれ変わる

光とともに


二羽のツグミのイラストが空を舞う。

皆が待ちに待ったプランタンがすぐそこまでやって来てるのがわかるかしら?生命の息吹、透き通るような空気感。さあ、あなたも感じてみて!とでもいいたげな能天気な内容だ。

残念ながら私には田嶋ハルさんの本音が、心の闇が、この詩からは見えては来ない。

私も一時期、登校拒否になった経験があるからわかるが、そんなときは負の感情しか湧きあがって来ないものなのだ。

自分を責め、相手を責め、全てを責める。自己評価は低く、何をやっても自分は駄目だと思い込む。いつも何かにおびえている。家は防波堤にはならず、暴風を避けるための避難所には決してならない。

海に面した集会室を横切ると、沖からの風が心地よい。外国では東風は災いをもたらす風といって恐れられているようだが、日本では幸福を運ぶ風であるとどこかで聞いた。

淡路島の島影がかすかに見える。海峡に掛けられた橋は蜃気楼のようにゆらゆらと浮かんでいる。海はどこまでも青黒く、どこまでも深い。

森島ミドリさんが鼻の頭に汗をかきかき畑作業をしている。黒縁の眼鏡をかけ、化粧っ気はないが、目じりの笑い皺に好感が持てる。すべての運命をあるがままに引き受けようとする純粋な性格は多少鼻につくが、嫌味は感じられない。

以前、団地の敷地に子猫が捨てられていたことがあった。ミドリさんは犯罪捜査課の女刑事のように「子猫を捨てた犯人はいつか現場に戻ってくる」と言って、雨の日も風の日も張り込んで、とうとう体調を崩し寝込んでしまったということがあった。

結局、子猫を捨てた犯人は現れず、近所の猫好きの女性が引き取る事になった。

彼女は毎年この時期になると、モクセイソウが香るこの庭に、ハーブ畑をこしらえる。生姜を育ててジンジャー・クッキーを作り、カモミールは紅茶に、マリーゴールドやローズマリーは石鹸や化粧水にする。

昨年から今年にかけての六甲颪(おろし)は例年以上に強く吹いた。彼女ご自慢の畑の土は硬く締まりすぎて、鍬を何度も振るわなければならなかった。しかしミドリさんは柳のようなしなやかな動きで土を耕してゆく。

「大胆かつ繊細に」ミドリさんはそう言いながら鍬を振り下ろす。

たまたまそこを通りかかった私は、雑草や石を取り除いてゆくお手伝いを引き受けることになった。カチカチだった土は、ひとつぶひとつぶが光の粒子のような艶をはなっていくのが分かった。

「ちょっと触ってみませんか?」と額の汗を拭いながらミドリさんはいう。

「温かいですね」私は土に触れいった。

「そうでしょう?耕すうちに畑は春の空気を含んで温かくなってゆくのです」

「そしてこれ」そういいながらミドリさんは堆肥を投入する。真っ黒くなって湯気が出ている堆肥からはフトミミズたちが顔を出す。

突然の彼らのお出ましで私はぎょっとした。

ミドリさんは笑う。

「この柔らかな土はこの子たちが頑張ってくれているお陰です。ミミズは土を食べて糞をしますが、その糞がこのようにやわらかく空気を含んだ土にします。それは水はけや日のあたり具合などにも影響します」彼女は愛おしそうに堆肥を混ぜ込む。

てんとう虫がどこからともなく飛んで来て、土の上を歩き回る。塀の上では数匹の猫が伸びをし、毛づくろいをする。

ミドリさんは身体を壊して地元H市で療養中に、たまたま県の広報誌でここの団地の管理人募集の案内を見て応募、採用が決まった。3年まえのことだ。

「なぜミドリさんはいろどり団地の管理人になろうと思ったんですか?」畑作業で得た解放感や達成感は私の、人との境界線を失わせた。

彼女の動きが一瞬止まった。

「す、すみません」

「……いいんですよ。ところで乃絵痲さんは、『いろどり団地』って誰がつけたかご存知ですか?」

「いえ……」

「この町の市立N小学校の3年2組の生徒たちなんですよ」

「……」

「震災の前の年にここは建てられました。3年2組の生徒は私の教え子たちでした」

「そうでしたか」

ミドリさんは、首から下げたお守りのような小さな袋の中から写真を取り出し、私に見せた。集合写真だ。はじける笑顔が愛らしい。

「菜の花畑の真ん中で子どもたち、お弁当を食べていますね。遠足の写真?」

「あ、はい。この先にある菜の花畑です。見えますか?写っているのは、あそこの畑です」ミドリさんは蒼く光る大阪湾の見える方向を指差す。手前に広がる台地には黄色い菜の花畑、深い緑色の六甲山の頂上付近からは白い雲が表れ、ゆっくりと西へ流れてゆく。

「いろどり団地……」私は思わずそう呟いた。ミドリさんは写真を撫でながら「教え子の何人かはこの光景を見ることなく、亡くなりました」静かに微笑んでいった。

私は天を見上げた。子どもたちの声が大空にこだましたような気がしたからだ。

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