いろどり団地

夕星 希

第1話

 「なに?その向こう三軒両隣って」

民宿辻井と書かれたマイクロバスは、スケートリンクのような磨かれた道を、空港に向け走っていた。

アイスバーン状の路面は車が通るたびにそこだけが削られて氷のくぼみができる。これが、いわゆる雪国に住む運転手泣かせの、わだちだ。

兄の亜羽羅あうらが煙草に火をつけようとして、ハンドルが変な方向に切られた途端、タイヤは轍から大きく外れた。その衝撃で私は思わず頭の上のグリップにつかまった。

「向こう三軒両隣。つまり、自分の部屋から見て向かいの三軒と、自分の部屋を挟んだ左と右の二軒のことよ」兄はそんなことも知らないのか、といいたそうな口ぶりだった。

「引越し挨拶は左と右の二軒だけでいいんでない。今度のところは、団地だし」そういう私の言葉を遮って

「母さんから預かってきた。乃絵痲のえまに持たせなさいって。引越し挨拶のだわ、たぶん」兄はルームミラー越しに後部座席をちらと見ていった。有名百貨店の大きな紙袋二つが行儀よく並んで置かれている。

「大げさだわ」

「お前さ、俺に何か隠してない?」

「なんも?」

「うちの連中、乃絵痲は東京に行ってから様子が変わったって」

「気のせい気のせい」

「嫁の恵理香なんて、お前に好きなおとこでも出来たんじゃないかって」

「まさか」

「じゃあ、何で急に」

「自活するのに理由なんているのかい」

「ふつうはいるべよ。どう考えたって。お前は本当に、お気楽でいいよなァ。だいたいお前は……」

兄は自分の発言を適当にあしらう者や見くびる者を嫌がった。彼はいつも自分の発言に注意を向けてもらいたがる人間だった。それが叶わないのが分かると、毒づき、必要とあらば無視もした。

宿泊客に対してもだ。わざわざ遠方から来てくれたのに、車中には誰もいないかのように黙りこくったり、物を運ぶように客を目的地まで運んだ。そんなことを知らない客らは、彼に当然気を遣った。彼らは会話の「たちつてと」を駆使して場を盛り上げようとしたし、彼らがすでに調べてあるはずの岩見沢の名所旧跡やグルメなどを教えてもらおうと、わざと機嫌をとったりした。兄が答えると、さすが運転手さんはよくご存知ですね、と褒めた。兄の反応が思わしくないのがわかると、客らは諦め、ガイドブックを広げたり、連れとの会話に旅の希望を見出そうとした。

私と母との対立、母とお嫁さんとの諍いの、争い二重奏にもなるべく関わりたくないため、見てみぬふりや、だんまりを決め込むこともある。私が「父を探しに行く」と伝えたところで、面倒ごとが嫌いな彼の返事は、知れたものだ。

どこまで行っても天と地の境が分からないような雪原。ドイツトウヒから雪の塊が落ちた後に残る永遠ともいえる静けさ。キタキツネの侘しい足あと。毎年同じ顔ぶれの雪祭り。

私と同様、少なくとも同じ思いを持ち、ここを去ったであろう父。書き置きひとつ残さず消えた父。自分の母である祖母の介護や、民宿の切り盛りをすべて自分の妻に押し付けて出て行った父。幼い子どもたちが路頭に迷おうと、困り果てようと一切の憐れみの感情を持ちえなかったであろう父。あらゆることを放棄し、あらゆることから逃げた父。彼を探し出して聞きたいことはただひとつだ。

「なぜ私たちを捨てたのか」

プロペラ機が滑走路を離れた。さようなら北海道。さようなら岩見沢。用意していた別れの言葉も、厚い雲の間に隠れた。ふるさとはいつの間にか見えなくなっていた。18年暮らしたこの大地は、私に何を残しただろう。私はこれから何を残せるのだろう。父とともに帰郷できる日は、来るのだろうか。

羽田空港からは、東海道新幹線、山陽新幹線に乗り換えた。直線距離にして6300キロを移動した。一日かかったその日の夜遅く、ようやくK市に到着した。

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