第6話

「なら、君の思うように生きればいい」


 その男は突然、ヒカルの頬を撫でてきた。


(は?)


 そのようなことをされるのは勿論初めてなわけで、ヒカルの頭の中は真白になった。咄嗟に、その男の手を払った。初対面の女子に対してとる行動ではない、ということは流石のヒカルにもわかった。この男は、「デリカシー」というものを持ち合わせていないのだろう。それを理解したのか、その男が言った。


「あぁ、ごめん。急に触られたら、ビックリするよね……。そういや、自己紹介まだだったね。俺は結城ゆうき崇大たかひろ、よろしく。で、君の名前は?」

「あ……、真宮ヒカルです」


 ヒカルが答えると、崇大はヒカルのことを笑顔で見つめてくる。何を考えているのか、さっぱりわからない。女子ならばこんな時、どう考えるのだろう。ヒカルは考えていると、崇大が急に自分の手を差し延べてきた。握手しようということだろうか。ヒカルは少し抵抗があったが、その手を軽く握った。


「よろしく。ねぇ、今度からはヒカルちゃんって呼んでもいいかな」

「はぁっ?」


 驚きのあまり、ヒカルはあからさまに「嫌です」というような声を出した。しかし崇大は笑っている。


「ごめんね。俺いつもこうだから。初対面の人に対して、少し馴れ馴れしくしすぎるんだ」


(馴れ馴れしすぎるにも程があるわ!)


 そうしていると、向こうから誰かの呼ぶ声が聞こえてくる。


「お〜い、結城〜」


 それは、サークルの先輩でもある中原耕太だった。中原が走ってくるのを見て崇大が、


「あぁ、こんにちは」


 と、挨拶をした。すると、中原が不思議そうにヒカルを見た。


「あれ、真宮。なんでこんなとこにいんだ?部活に顔出さねえから、心配してたんだよ」

「これから行くところです、失礼します」


 中原が介入してきたことにより、少し気まずい雰囲気なっていた。多分、中原は崇大に用があったのだろう。ヒカルは頭を下げると、部室へ行こうとした。そうすると、誰かに後ろから声をかけられた。


「ちょっと!」


 崇大だ。崇大は笑いながら、ヒカルにこう言った。


「良かったら、これから俺たちとお茶しようよ」

「いえ、結構です」

「いや、ちょっと話がしたいんだ。ダメかな?」


 仕方ない、断るのも面倒になってきたヒカルは、この日は二人と一緒に行動することにした。部活に行っても、特にすることがない。またいつものように良からくだらない話を聞かされるだけだ。


 三人は、キャンパス近くのカフェに入った。ヒカルはそこで、崇大と中原の関係を知ることになる。二人は高校が同じで、部活の先輩と後輩だったのだという。崇大は中原より一学年下で、ヒカルとは一つ年上ということになる。

 一方、崇大はヒカルに興味津々な様子。ヒカルは人から見つめられることに慣れていないため、地獄のような空間を味わうことになった。しばらくして、崇大がヒカルに質問をしてきた。


「ねぇ、ヒカルって漢字で何て書くの?」

「希望って書きます」

「ひやぁ、凝ってるね~」


 ヒカルが答えると、崇大は感心したような声を上げる。しかし、崇大の好奇心は留まるところを知らず、ましてそれによって更に好奇心に火が点いたようだ。


「君って、普段はどんなことしてるの? 何かスポーツとかしたことある?」

「スポーツは、ないです。第一、運動できないんで」


 二人の会話を聞いていた中原が、


「俺らのサークルにアウトドア系はいないよ」


 と、話に何気に割り込んだ。ヒカルは、サークルに入るまでは高校の時と同様、授業が終われば家まで直行していた。そして、只管コンピューターゲームに没頭した。だから、それらの知識の量についてはオタクともいえる。


「じゃあさ、君は何故あのサークルに入ろうと思ったの?」


 ヒカルにとって、一番痛いところを突かれてしまった。ヒカルは何も答えられなかった。本当のことを話してしまうと、悲しい奴だなと哀れみの目で見られてしまうかもしれないと思ったからだ。中原はそれを見て、空気を読んでくれたのか、呼鈴を押して店員を呼んだ。そして、二人にそれぞれメニュー表を渡した。ヒカルは適当にコーヒーを頼み、崇大はレモンティーを頼んだ。中原もヒカルと同じくコーヒーを注文すると、店員は下がっていった。すると、崇大はヒカルに言った。


「君もコーヒー派なんだ」

「はい」

「紅茶は?」

「紅茶は……、あまり飲まないです」

「コーヒーは苦いからなぁ、あまり好きじゃないなぁ」

「おいしいですよ」

「うん。それよりさ、最近ハマってることとかないの?」


 このネタに飽きたのか、崇大がまたヒカルのプライベートについて尋ねてくる。


「……特にないです」


 ヒカルは面倒そうに答え、窓から外を眺めていた。自分が興味なさそうにしていれば、相手もそのうち諦めるだろうという作戦に出たのだ。実を言えば、ヒカルはあまり他人に自分の話をするのが好きではない。まして、人のプライベートについて、ぐいぐい迫ってくるような人間の神経が、到底理解できなかった。

 やがて、コーヒーと紅茶が運ばれてくると、


「やっぱり冷たい方にすれば良かったかなぁ」


 と、崇大は後悔の呟きを漏らしつつ、それを飲み始めるのだった。

 そしてしばらくの間、沈黙が流れた。ヒカルは、自分が話したかったわけでもないから、このままでもいいと思った。すると、中原が突然ヒカルにきいてきた。


「そういえばさ、お前メイド喫茶でバイト始めるんだって?」


 ヒカルは思わず、噎せそうになった。誰から聞いたのか、少し考えればすぐにわかった。良しかいない。ヒカルはあの日、良と共に面接を受けに行ったのだから。それだけなら、まだ良い方だった。何もこんな時に言ってこなくても……、とヒカルは思った。それ聞いて、崇大が興味を持たないわけがないじゃないか。どうも、ヒカルは崇大が苦手である。何を考えているのかわからず、やけに自分に突っかかってくる。


「へぇ、メイド喫茶か〜」


 崇大は、紅茶を飲みながら呟いた。よりによって、崇大の前で話さなくても良かったのにという視線を、ヒカルは中原に送るが無視された。


「ねぇねぇ、今度行ってみてもいい?」

「来ないでください」

「なんで〜」


 崇大は言うと、次にこう呟いた。


「恥ずかしがり屋さんなのかな」


(コイツなんなんだよ、ほんとに)


 ヒカルはそう思いながらも、苦笑いをした。黒岩や良以外からは、ヒカルは間違いなく女として見られている。まずはそのことを自覚しなくてはならない。気をつけていないと、必ずボロが出てしまうだろう。そうなれば、いつ元の世界に帰されるかわかったものではない。


「そうだ、ヒカルちゃんって彼氏いるの?」


 またくだらない質問である。


(いないから、あのサークル入ってんだろーが!)


 そう思いつつも、ヒカルは一応答えておいた。


「いないです。いたこともありません」


 崇大は、本当にこんな話をするために自分を誘ったのだろうか。ヒカルはそう考えると、段々と不安になってくるのだった。ヒカルはもう一度、今の質問について考えてみた。いないといっても、相手が欲しくないわけではない。この世界で女心を学習したのち、その経験を元の世界に持ち帰り、他の女子と付き合うことが最終目的だ。それだけのために、あの薬を飲んで女になったのだから。


「でも、結構モテそうだけどなぁ。ヒカルちゃんって、めっちゃ可愛いし」


(だから、その呼び方やめろや)


 ヒカルはこの先、このように我慢できるか不安だった。段々と、崇大に言われたことを真に受けた自分が恥ずかしく思えた。あの時、崇大は人にどう見られていようが気にしなくていいと言ってくれた。その言葉のおかげで一瞬だが、一生分救われた気がした自分がバカらしく思えた。


「おい、お前ら。そんな話してるんなら、そろそろ帰ろうぜ」


 中原が、また空気を読んでくれたのかそう言った。崇大も、それを聞いて納得したようだった。そして、崇大が立ち上がろうとした。そこで、何かを思い出したようにヒカルにこう言った。


「そうだ。今日、話があって誘ったの忘れてた」


(今頃本題かよ!)


 と、ヒカルは内心思ったが、その話を聞くことにした。そうすると崇大は、こんな話をし始めるのだった。


「俺、君はもっと自分に自信を持つべきだと思うんだ。一緒に話しててわかったんだよ。君には自信がない。だから、周りのことばかりを気にしてしまう。人の幸せを奪っているだけじゃ、幸せにはなれない。幸せになりたいなら、自分の殻をぶち破ることだ。今までの自分を壊すつもりで、やってみるといいよ」


 自分ではわかっているつもりだが、人から言われたのは初めてだった。自覚があった分、そう言われて腹が立った。ヒカルは、崇大と目を合わせることなく立ち上がった。


「言われなくても、わかっていますよ。一応、ご忠告ありがとうございます」


 そして、自分の頼んだコーヒー代だけテーブルの上に置くと、急いでカフェを後にした。自分で気づいていたからこそ、内心とても悔しかったのだ。それにしても、黒岩は自分のこの性格を知っていて、敢えて被験者に選んだのだろうか。何故自分なのだろうと、その疑問だけが、根強く自分の中にあった。


 歩いていると、次第に汗をかいてくる。夏が近いようだ。ただ、ヒカルはそんなことは気にせず、歩く速度を緩めなかった。絶対に幸せになる、リア充になる。そのことだけが、ヒカルの脳内で激しく渦を巻いていた。

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