カルテ8 君の姿 星の記憶(後編)

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徐々に匂いの距離が近づいてきて、頬を冷たい何かがつたうのを感じた。目を開くと周囲は夜闇に包まれていて、後ろでチラチラ揺れる火が辛うじて体の周辺を橙色に染めている。頬に感じた冷たい物体は雨だったようだ。意識を広げると大粒の雨が地面に横たわった体幹を目掛けてシャワーのように降り注いでくる。さっきまで感じていたジャスミンの香りは消え、代わりにそれ以外の臭いがガソリンのような異臭と混じって周囲に立ち込めているように感じた。体を起こそうと手足を動かそうとしたが上手くいかない。手足の感覚がまるで無いのだ。ふと視界の正面に転がった丸太のようなものが目に入った。目を凝らしてみると、それは千切れたヒトの左足だった。暗がりにいるでよく見えないが、千切れた断面からは白い皮下脂肪や赤黒い血液がトロトロとこぼれていて、粗い断面からは大腿骨のような丸い棒が飛び出していた。目だけを下転させ自分の下半身を見ると、そこにあるはずの両足はどこにもない。腕も本来あるべき場所には見えなかった。水溜りに沈んでいると思っていた体も、実は大量の出血でできた血溜まりなのだと気づいた。


両手両足を失った誰かの体に憑依するように、その誰かの全感覚を私は今体験しているのだ、サキはそう気づいた。そう、これは誰かの記憶。おそらくその記憶のフィルムの最後の映像だ。


あまりにひどい外傷を受けるとヒトは自動的に痛覚を遮断するというのは本当なのだろう。両手両足をもがれた今、痛みはほとんど感じなかった。むしろ脳内麻薬が分泌されているのだろうか、致死的な怪我を負ってもなお感情は不思議な高揚感に支配され、そして眠るように意識がゆっくりと閉じ、死に近づいていく。

次第に視界にハレーションを起こし真っ白に染まっていった。そしてこの体の持ち主の誰かの記憶が走馬灯のように蘇り、ロールして雪崩れ込んできた。


***


私の名前・・・は・・・ミサキ・ユウホ。

フレンズたちに元気という幸せを与えたい。そんな気持ちで2047年にジャパリパークプロジェクトに参加した。それからの毎日はとても忙しくて、とても楽しかった。手探りで患者のフレンズとの関わり方を模索した1年目、大学の後輩のミライがプロジェクトに就職し職員みんなで歓迎会をした2年目。3年目にはついにパークが開園しお客さんと関わることも増えた。異変があってパークが大変なことになったり、それでも職員みんなで力を合わせて運営再開にまで復旧することができた。困難なことはいつもあったけれど、それを乗り越えるたびに人やフレンズと仲良くなり、お互いを大切にしあえるようになる。ヒトの社会から消えてしまった大事なことが、このジャパリパークには有る。だから私はずっとパークで働いている。

パークに来てからの私の人生は充実して幸せだった。外科の手腕もだいぶ上達したし、執筆したFCCSについての論文も一定の評価を得ることができたのは嬉しかった。謎だらけだったFCCSもいろんなエリアの先生たちの協力もあって、わかることが少しずつだけど増えていった。それだけに、今FCCSで苦しむフレンズを救えずにいることが本当に悔しかった。

でもあの子に会えてからは、色んなことが前に進んだし、色んなものを失った。


2057年、夏が間近に迫っていたある日のこと。ラッキービーストの救急システムがアラームを鳴らし、程なくして高熱と意識障害を起こした患者が運び込まれてきた。患者はハブのフレンズは推定3歳。その子は痩せた身体つきの白皮症(アルビノ)で、まるで幽霊のように見えた。ハブは黄色ブドウ球菌による重症な急性中耳炎を発症していたため一通りの処置を施したのだが、私には少し引っかかることがあった。中耳炎にしては症状が異常に重い、それに両下肢の廃用性萎縮。疑念をぬぐいきれなかった私は港にある第1病院の血液内科医にこの患者をコンサルした。1週間後、その医師は大層驚いた顔で私に結果を報告してくれた。その時の内科医の表情は今でもよく覚えている。


「いやあ、いまだに信じられませんよ。よくこの希少な病気を見抜きましたね、岬先生。」



チェディアック=ヒガシ症候群(CHS)、それがあの子の原疾患名だ。



CHSはある遺伝子の変異が原因となって発症する非常に稀な先天性遺伝子疾患である。白血球の機能に関わる遺伝子に変異が起きて、免疫機能が正常に働かなくなる病気だ。このため中耳炎が通常以上に増悪してしまったと考えられた。またCHSのその他の症状の一つとして白皮症が報告されている。つまりこのハブは普通のアルビノでは無い。CHSによって引き起こされた白皮症個体だったのだ。

ヒトにおいてさえ希少な遺伝性疾患がフレンズに発生したのだ。セントラルの面々はこの子を格好の研究対象だと思ったのだろう。CHSのフレンズ患者が出たと聞いたセントラルは私にこの希少疾患の患者の研究治療をせよと言ってきた。

こうして私は人生最後の患者のハブのフレンズ、マツリカと出会ったのだ。


小児科病棟に入院して間もない頃のマツリカはまるで何も知らない乳幼児のようだった。病室に頻繁に出入りする私や他のスタッフたちを大きな赤い瞳でキョロキョロ追い、こちらが問いか毛にはキョトンとするか、頷くだけだった。一体マツリカとどのように関わっていけば良いのか、私もスタッフもかなり苦慮した。

そんな日々が変わったのはマツリカが入院して2週間経った日の午後。午前中非番だった私は趣味でやっている病院の裏庭のガーデニングをして、午後から出勤しマツリカの病室に行った。私がマツリカに気分はどうかと尋ねようとしたところ、マツリカは小さな声で私に喋りかけてくれた。


「・・・いい香りがする。」

「香り?どんな匂いかしら。」


マツリカは周囲を嗅ぐような仕草をした。


「お花の、匂いかな。」

「お花。ああ多分ジャスミンかも。さっき庭でお花のお世話していたから。先生ね、お花を育てるのが趣味なの。ハブさんはどうかな。」

「私もこの香り好きだよ。でも、私お花って見たことないんだ。どんな形や色をしているのか、知らないんだ。」


現実の花を知らないと告げるマツリカ、これほどまでに無色透明な子がこれまでどう生きてきたのか私には皆目見当がつかなかった。ならばこちらから彼女のことを知ろうと行動すべきだと思ったのだ。信頼関係は相互の理解から始まるものだから。少しずつでいい、マツリカの話を引き出していこうと思った。


「そうだ、ちょっと待っていてね。」


私は裏庭に再び出て、ジャスミンの花がついた枝を一本採ってきた。


「ハブさん。あなたがいい香りねって言っていた花はこれよ。」


私はマツリカの手の上に花のついた枝を乗せた。マツリカは枝をくるくる回したり、食い入るように花を見つめたりして、それから尋ねた。


「うん。そう、この香り。これが、なんだっけ?」

「これがジャスミン、またの名をマツリカっていう花なの。真っ白で可愛らしい花。ふふっ、よく見たらあなたにそっくりね。」

「そうかも。ジャスミン、マツリカ。小さくて可愛いね。」


マツリカは初めて微笑んでくれた。


それ以降私はその子を“マツリカ”と呼んでいる。


***


私がマツリカと呼ぶようになってから、彼女は私に気を許してくれたのか、私が病室に顔を出すたびに笑顔で迎えてくれようになった。そしてここに来るまでのことを話してくれるようになった。生まれつき歩くことができなかったこと。日光が苦手なこと。これまでずっと平原の洞窟にとじこもり、暗い穴の中を這って過ごしていたこと。だから、他のフレンズと全く交流がなかったこと。夜に突然頭が痛くなって助けを求めたが誰にも助けてもらえず、意識が朦朧とし始めたところをラッキービーストに発見されてここに来たのだということ。マツリカが抱えるCHSという疾患が、いかにマツリカを社会から孤立させ、苦しめてきたのかは想像に有り余る。

けれど過去を私に話してくれている時のマツリカの表情は不思議なことにどこか和やかさを含んでいた。どうしてかと聞いてみると、マツリカは少し口籠もって、それから顔を赤くした。

「嬉しい、から。他の誰かがこんな私に構ってくれるんだもん。それに、ユウホ先生だってこうして話しかけてくれるから。穴の中にいた今までよりずっと楽しいし幸せなんだ。」

ジャパリパークの医師になって10年以上が経つが、病院にいる方が幸せだと言う患者を見たのは初めてのことだった。裏を返せばそれはこれまでマツリカが辿ってきた運命があまりに過酷だったことの証拠でもあった。可哀そう、と感じたかどうかは覚えていないが、とにかくこの子を救ってあげたいと強く思ったのは確かだった。


しかし運命というものはなんと容赦ないのだろうか。

入院して2ヶ月経ったある日の夜、突然マツリカが大量の嘔吐をして意識を失った。特徴的な嘔吐、眼底のうっ血乳頭、突然の呼吸停止・・・私は一見してFCCSの発作と診断した。大至急呼吸管理、投薬で脳脊髄圧を下げてから髄液のドレナージを施行したところ、すぐに意識は回復し、明け方には会話が可能なくらいにはなってくれた。その後の検査でマツリカの腰部脊柱管内に小さなFCCSの結節が形成されているとわかり、SPECTでもFCCSに特徴的なサンドスターの吸収と代謝が活発な腫瘍像が見とめられた。

医師は治療上重要な情報については患者に説明する義務がある。それが良いニュースでも悪いニュースであってもだ。私は心苦しさを感じながらも、マツリカにバッドニュースを伝えにいかねばならなかった。せめて少しだけでも落ち着いて聞いて欲しくて、私はマツリカを車椅子に乗せて裏庭に連れ出した。


「すごーい!お花ってこんなふうに咲いているんだ。これ全部ユウホ先生が植えたの?」


裏庭の色とりどりな花園を見てマツリカはとても驚いていた。


「まあ大体はね。あの辺で少し咲き出しているヒマワリは、サーバルキャットのフレンズとミライっていう私の友達が植えていったんだ。ああそうだ、あれがジャスミンの花よ。」


車椅子をジャスミンの木の側に寄せると、マツリカは顔近くに固まって咲いている花を摘んで香りを嗅いだ。


「やっぱり落ち着くよ。ふぅ。」

「本当?」

「うん。」

「そっか。・・・・・・マツリカ、ちょっと大事な話があるからよく聞いてね。」


私はマツリカにFCCSのこと、マツリカがFCCSを発症していること、現段階では有効な治療がないことを淡々と伝えた。そして最後にこう言った。


「私はあなたの主治医。もう一つの顔は、FCCSの患者さんを救うための研究をしている医者なの。もしマツリカさえ良ければなんだけど、私と一緒にFCCSと闘ってくれないかな?」


ずっと私の話を頷いて聞いてくれていたマツリカはここで初めて私に訊いた。


「闘うって、何をするの?」

「いろんな検査をするの。中には苦しい検査もあると思う。」

「私が検査を頑張ったら、その・・・FCCSが治るの?」

「治療する方法が完成したらマツリカも助かるかもしれない。ただしあくまで可能性で、完成しないかもしれない。」

「・・・そうだよね。わかんないよね。」

「ええ。でもマツリカが協力してくれたら、研究は一歩も二歩も前に進む。それは絶対よ。この一歩二歩が誰かを救う、もしかしたらマツリカ自身も救われる。」

「その・・・私が協力したら、先生は嬉しくなる?」

「それはもちろん。すごく嬉しい。」

「役に立つ?」

「役に立つ・・・か。そんな冷たいこと言わないよ。あなたは私のパートナーよ。今まで誰にも治せなかった運命を、私とあなた、そして病院にいるみんなで切り開くのよ。」


車椅子の上でマツリカはうずうずしたように体をくねらせ、それからとても嬉しそうに返事をしてくれた。


「パートナー・・・その言葉がすっごくうれしいよ。私、先生を助けたい。」


***


マツリカは本当に献身的に私たちの臨床研究に協力してくれた。殺風景と言わざるを得ない地下研究所の病室に移動することになっても、マツリカはいいよと言って笑ってくれた。そんな従順なマツリカを私たちはとても愛おしく、いじらしく思った。私たちからのせめてもの心遣いということで、マツリカの精神面に対するフォローは通常よりかなり綿密に行った。室内の清掃をあえてラッキービーストに任せず私たちがやるようにしたのも、ガラスケースに入れたジャスミンの木をマツリカの居室の隅に配置したのもその一環だ。マツリカに寂しい思いをして欲しくはなかったのだ。

マツリカの協力により、これまで掴み切れていなかったFCCSの正体がかなり詳細に分かるようになってきた。FCCSの本体は予想通り腰部脊柱管内にできた結晶様腫瘍。その腫瘍は脊髄軟膜から発生し、脊髄実質を圧排したり、髄腔を閉塞することがある。突然死の直接原因になるFCCSの脳ヘルニア様発作は、腫瘍から剥がれた組織片が脳幹周辺あるいは脳室に引っかかり、その場所で再凝集したり石灰化を起こして髄腔を物理的に閉塞。あるいは炎症による浮腫を誘導したりして起こるものである。現在この腫瘍に対し効果のある抗腫瘍薬や放射線は確認されず、外科的に切除することが最も現実的と考えられた。

2057年12月、この研究結果に基づいたFCCSの外科的根治療法を報告書にまとめ、病院内でのカンファレンスで発表した。他の先生方からの賛同は貰え、報告書を審査したセントラルからも手術許可がすんなり下りた。

こうして私たちのチームは、マツリカに対して“フレンズ脳脊髄晶質化症候群に対する脊髄内視鏡的腰部脊柱管内腫瘍切除術“を施行することになった。手術日は翌2058年1月17日。


けれどマツリカは助けられなかった。切除する予定だった腫瘍が我々の想定よりもはるかに脆弱な形態を持っていたのだ。そのため予定通り一度の手術で腫瘍を一塊に切除することができなかった。そう、手術は失敗したのだ。

運命は我々が作ってしまった隙を見逃さなかった。

手術の翌日、腫瘍組織の生検結果を待ちながら再手術の計画を練っていた時だった。マツリカはFCCSの発作を起こし、呼吸麻痺を起こして意識を失った。そしてそれから意識を取り戻すことなく、1月24日に死亡が確認された。


***


「嘘をついてしまった。ごめんマツリカ。助けられなかった。」

「いいの、気にしないで。」

「でも私の考えが甘かったから・・・あなたは死んでしまった。」

「ユウホ先生のせいじゃないよ。私が偶々そういう運命だっただけ。先生のこと、これっぽっちも恨んではいないから。それに、私が死んだ後、先生がものすごく頑張ってくれたの知ってる。約束、果たしてくれてありがとう。」


***


マツリカの死が確認された後、私はマツリカの遺体から病理標本を採取した。腫瘍のあった腰部脊髄はもちろん、大脳、小脳、髄膜、髄液・・・血液や骨髄。マツリカのフレンズの体が残っているうちに出来る限り、FCCSの治療研究に関わると考えられる部位の切片を急いで取り出した。

そして私は寝る間も惜しんでマツリカが残してくれた標本とデータに徹底的に向き合った。それから2ヶ月後の3月、私は遂にこの性悪な疾患を打ち砕く方策を立てることができた。これは一重にマツリカの献身のおかげである。

マツリカの標本を作成したことについては、後日一部外部メディアから心ない批判を受けることになってしまったが、私は自分がやったことは正しいことだと考えている。なぜならそれはマツリカと交わした約束を果たすためだったから。


あれは手術間近の日の夜だった。いつもはすやすや眠っているマツリカが珍しく起きていた。私が部屋に入った時のマツリカは緊張した面持ちだった。私はマツリカの隣に腰を下ろし、いつものように「どうしたの」と尋ねた。


「眠れないの。そろそろ手術の日が来るって思うと少し怖い。」

「そうよね。私たちも初めての手術になるから気合入れないと。」


そう答えるとマツリカは私の顔を見てニヤッと笑った。


「ユウホ先生、あんまり寝てないでしょ。目の下がほら。」

「あはは、気づかれちゃったか。手術中に何があっても対応できるように、いっぱい調べ物しているからかな。」


照れ隠しに笑う私をマツリカはなぜかとても嬉しそうに見つめていた。


「どうしたの、そんなにやけた顔して。」

「うーん。あのね、先生が私のためにこんなに頑張ってくれているんだと思って、それがとても嬉しいの。」

「そりゃもちろん。大事なパートナーなんだから。」

「そうなんだけど・・・・・他の誰かの優しさや愛に触れずに生きてきちゃったから。だから先生の気遣いとか優しさ、お母さんみたいな温かさが本当に嬉しくって。不安だけどきっと大丈夫だって思わせてくれるから。」


泣きじゃくり出したマツリカの顔に、私は真っ直ぐな眼差しを向ける。


「先生がいてくれたから検査も頑張ってこれたし、手術だって怖いけど、先生がやってくれるから信じられる。手術さ・・・結果どうなるかは先生にもわからないって前に言っていたじゃない。もし手術が成功して私が助かったら、それはもちろん嬉しい。でも、もし私が助からなくても私は先生を恨んだりなんかしない。私を手術して、それで先生の研究が進むのなら私はそれでいい。先生の役に立てるのなら私はそれで十分幸せなんだ。」

「私のことなんていいのよ。もっと自分のことを愛してもいいんだよ。」


けれどマツリカは小さく首を横に振って言った。


「いいの、これが私が生きている意味なんだって思っているから。こんな体で生まれてきちゃった私、生きているだけで他人に迷惑かけちゃうような私。こんな私でも役に立てるんだ。それも、たくさんのフレンズから慕われているユウホ先生の役に立てる。それが嬉しいの。

それに、私が死んだ後も先生の手元には私のデータが残るでしょ。そのデータを使って出来上がった先生の治療法には私の命が宿るんだ。先生はその治療法を使って、これからたくさんの患者さんを助けるってわけ。それってすっごいことだと私思うの! だって、回り回って私がみんなの役に立てるんだから!

ユウホ先生、だから約束。もし私がダメになって死んじゃったら私の体を好きなように役立てて。サンドスターが切れてフレンズの体を失う前に。そして、私の命が宿った治療法で、患者さんをいっぱい助けてあげて。これが、私なりの先生への愛のかたちだから。受け取って。」


「約束。絶対忘れないわ。でも私は諦めたりはしないわよ。あなたの命を救ってみせる。」

「そう言ってくれて、私、嬉しいよ。」

「一つだけ言わせて。私があなたから受け取るものはデータだけじゃない。そんな無味乾燥なものだけじゃないの。あなたと関わって生まれたいっぱいの記憶、思い出がある。半年間あなたと紡いできた記憶、大切な思い出がある。この瞬間だって私にとっては永遠になる。そんな瞬間を今までいっぱいもらってきたのよ。ありがとう。そして、今後もそんな瞬間を積み重ねていけたらいいなと、私は勝手に思ってる。」

「どういうこと?」

「うーん・・・あはは、理屈っぽく言ってもダメだね。私たち医者も、生き物なんだよ。誰かを助けたいって衝動に理由なんてないの。そしてそれが大切な誰かなら尚更助けたいって強く思う。それだけよ。」

「私、大切?」

「もちろん。患者さんとして、というのはもちろん。それ以上に、マツリカは私たちのフレンドなんだから。」

「フレンド・・・お友達・・・」



・・・ありがとう、嬉しい。

・・・生きていてよかった。そしてこれからも生きていけたらいいな。

・・・・・・先生と。


***


再び光景が大雨の中に切り替わった。さっきと違って、もう首も目も動かせないし、視界も一点に定まらない。ただ水と土と煙、それから血の臭いだけが微かながら感じられる。


どうして私はここに倒れているのだろう?

ぼんやりと思い返す。確か、運転中に突然崖が崩れて・・・車外に投げ出されたんだっけ。手足の切断面からの多量の出血、脾臓か膵臓も破裂してるかな・・・致命傷だ、絶対助からない。私はここで死ぬ。


「ごめんね、完成まで後ほんの少しだったのに。約束は守れなかった。」


匂いさえ遠ざかっていく。心臓が止まる。僅かに繋ぎとめていた意識さえも灰になって散っていく。最後に視えたのは、自分の両足で立ったマツリカのすっきりとした立ち姿だった。真っ白な肌と髪、白衣のような着物を着て現れたマツリカはまるで天使の様だった。


「先生、ユウホ先生。」


マツリカは目の前にしゃがみ込んで頬を撫でてくれた。


「先生はもう十分頑張ったんだよ。先生が切り開いた道は無駄になんかならないよ。先生の熱意と、私の愛を受け継いでくれる人は必ずいる。だから、サキに託そう。」


マツリカの唇の温かさを額に感じたのが最期の感覚だった。



******


***



・・・サキ・・・・

・・・・・・起きて・・・起きてほしいのです。

・・・・・・・・

起きるのです!!!


助手の怒鳴り声によって夢の幻から無理やり引き摺り出され、サキは寝ぼけたように辺りをキョロキョロ見回した。


「あれ、いつの間にか。寝ていたんですか・・・頭が割れるように痛い。それになんだか目の奥が熱い…」


今見た夢は一体なんだ、思い返そうとしても霞がかかったようにぼんやりしていて詳しいことは思い出せない。けれど今観たのは間違いなく私の遺伝子に刻まれた記憶なのだ。事故に遭い死ぬ間際ユウホが見た走馬灯が呼び起こされたのだ。

なかなか微睡みから抜けきらない様子のサキを見てさらに助手は苛立って怒鳴り、締め上げるように無理やりサキを引っ張り立たせた。


「いいから来るのです! お前が突然眠ってしまった後、博士が突然嘔吐して倒れたようなのです!頭から血を流して!」

「なんですって?!」


助手はサキの胸ぐらを掴んだまま廊下へと引きずりだし、伸びる廊下のすぐ先を指差した。

そこには息を荒げ博士の頭部の出血点を押さえるヒイラギ。そしてそのすぐ横には遅い呼吸で、手足をピンと引きつらせた博士が横たわっていた。ジャスミンの香りに混じって嘔吐物と尿の臭いが鼻を刺す。一瞬、ユウホとマツリカの姿が浮かんだ。


「あなたに託すよ。」


二人はサキに微笑みかけ、それからそっとサキの背中を押してくれた。



カルテ9に続く


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