カルテ8 君の姿 星の記憶(前編)

サーバルとともに歩んだ数ヶ月は、サキとヒイラギの記憶に消えない爪痕を残し、風のように何処かへ去っていった。あれから患者は一人もやって来ず久方ぶりに何もない日々を送っていたサキとヒイラギは、毎日欠かさずサーバルを埋めた塚の前にお参りをしていた。


「サーバル、今の時期はお盆っていうの。生きている人たちの世界に死んだ人の霊が帰ってくるんだよ。あなたも帰ってきてくれているかしら。」

「これはお盆の時のお供物なんだって。本当はきゅうりとかで作るみたいなんだけど、無いからジャパリまんで作ったんだ。はいどうぞ。」


ヒイラギが割り箸の刺さったジャパリまんを塚の前に供えると、少し風が吹いてヒマワリの群れが揺れた気がした。


「来てくれたかもね。」

「そうね。今の私を見たらサーバルは何て言うかな。亡くなってから数日はショックで食事が喉を通らなかったよ。今は多少マシにはなったけれど、それでも心の

どこかに拭きれない悔しさが残っている気がする。」


サキは傘を閉じて塚の前にしゃがみ込んだ。


「私たち二人は、あなたのことは絶対に忘れたりしない。あなたとの記憶を抱え、生きていく。あなたが私たちに見せてくれたように、生きて自分たちなりの幸せを掴んでみせるから。」


そう言ってサキは静かに黙祷を捧げた。ヒイラギもサキの見様見真似で礼をした。黙祷の後、サキは立ち上がってヒイラギに尋ねた。


「ヒイラギ、あなたが望む幸せって何かしら。そういえばちゃんと聞いたことなかった。」


聞かれたヒイラギは恥ずかしそうにちょっと頬を染めた。


「僕は…もっとサキさんの役に立てるようになりたいんだ。できないことの方が全然多いから、勉強したいし経験したい。」

「・・・ありがとう。」


ヒイラギの頭を撫でてやると、照れ臭そうに顔をサキの腕に擦り付けた。


「私の幸せは。サーバル、あなたに教えてもらった。私はみんなと同じように友達を作りたい。そう、みんなと同じ様に・・・こんな体だけど、私のわがままに医者っていう職業を使っていいのかは分からないけれど、でもそれが私の本当の望みだから。だから、前向いて頑張る。」


目の前にいたサーバルはいつもと変わらない笑顔で頷いてくれる、そんな幻想をサキは目の前で風に揺れるヒマワリ畑の光景の上に浮かべていた。



塚の前に佇んで半刻、そろそろ病院に戻ろうかと思った矢先、突然近くでグシャンと何かが壊れる様な大きな破壊音が飛んできた。


「あっちから聞こえたよ!!」


ヒイラギが音のした方を指差し、二人はその方向へ大急ぎで走った。朦々と漂う土煙をかき分けて突き当たった場所には壁一面に蔦が這った廃屋が建っていた。


「こんな建物あったっけ?」


ヒイラギが首を傾げた。


「ゲホッ・・・そういえば病院の裏にボロボロの倉庫みたいなのがあったわ。それがこれかしら。でも入ったことはない。」


ひどい埃でサキは咳をした。ふと建物の上の方を見上げると、土煙の中から何者かの影が二つヌッと生えてきた。びっくりして腰を抜かすサキに対し、二つの影は聞き覚えのある声を発して呼びかけた。


「もう少し丁寧にやれなかったのですか。」

「文句言わないでください、このシャッターはなかなか頑丈だったのですよ。まあこの音でサキたちを呼ぶ手間が省けたので結果オーライなのです。」


影の二人、博士と助手は羽ばたいて建物の上からサキの前に飛び降りた。助手の方は大きなリュックサックを背負っていた。博士と助手はびっくりして見ている二人の顔を見て少し安心したのか微笑んだ。


「突然大きな音が聞こえたから何事かと思ったよ。」

「脅かして済まなかったのです、ヒイラギ。これも我々の調査のためなのです。」

「ええ。ここが謎の中核とも言える場所なのですよ。」


謎。博士はそう言ったが一体何の話なのだろうか。サキが尋ねると博士は待ってましたとばかりに食いついた。


「お前たちがICUでサーバルの治療に専念している間、我々は交代でこの病院のことを調べていたのです。その結果この場所に行き着いたのですよ。」

「はぁ…それで一体ここは何の場所なんですか。ボロボロの小さな倉庫にしか見えませんが。」

「病院併設の研究施設なのです。」


思わずサキとヒイラギは顔を見合わせた。ヒイラギもサキもしばらくこの病院に居ついているが、そんな施設があることなど全く知らなかった。


「蔵書庫の書類を綿密に探した結果、研究施設の存在に行き着いたのです。パークにある研究施設は、大抵この様に目立たない様カムフラージュされてはいるのです。お前が前に言っていた“L“の部屋。あれはLaboratoryのことなのですよ。我々はラッキービーストの救急システム、岬医師の残した品々、それから岬医師の研究内容について考察を深めてきたのです。その道程もどうやら今日をもって結実しそうなのですよ。この研究施設が岬医師がFCCSの研究をしていた施設なのです。」

「はあ、そうなんですか。」

「博士、どうやらサキはあまり興味がなさそうに見えるのです。」


助手がそうぼやいたのでサキは慌てて弁解した。


「いえ、そういうわけでは決してなくて。ただちょっと突拍子も無さすぎるというか…」


なるほどと博士は頷き、コホンと咳払いをした。

「それなら・・・もう少しお前に近い話をしましょうか。あくまで推測ですが、ここにはお前のルーツが眠っている。お前が誰の血を引いているのか、その手がかりがある。」

「私のルーツというと、ハブとセルリアンですが。」

「いえ、事象はもっと複雑極まるのです。平原からやって来たお前と初めて会った時、お前はフレンズとセルリアンのハーフだと私は伝えました。ですが断定はできなかった。セルリアンの手足はさておきお前にはアルビノのハブっぽい特徴があった。フードがあって、尻尾があって、外見はハブだったのです。けれどあれから考える度に私の中には違和感が積もっていったのです。」

「何に対して?」

「お前の持つ能力がフレンズにできるレベルを逸脱していたからなのです。つまりお前はただのフレンズではなさそうなのです。なぜお前は初めから文字が読み書きできたのですか。なぜ英語が読めたのですか。なぜあれほど膨大な科学や医学の知識をたった6年で会得できたのですか。なぜ精密な医療機器を使いこなし、繊細な手術を難なく行えるのですか。答えなくてもいいのです、とにかく私はそんなお前に違和感を持った。そして興味を抱いた。

それが私がお前のことをずっと気にかけていた理由の一つなのです。あとは、困難に立ち向かおうと懸命なお前を応援したかったから、支えが必要だと思ったから。そういうことなのです。」

「そうだったんですか、博士。本当にいつもありがとうございます…」

「いいのです。お前のためでもあり、私のためでもあったのですから。ともかく、お前にはたくさんの謎が眠っている。お前さえ良ければ我々がその謎を解く手伝いをしてやるのです。」


知的好奇心が生きる糧である博士は期待に目を輝かせサキを見た。自分さえ知らない過去を知ることについて、サキは一抹の不安や恐怖を感じはした。しかし萌出してきた冒険心と、博士の押しの強い視線に耐えきれず、結局サキは博士に同行することにした。ヒイラギもついて来たいと言ってくれた。


「この先は実際に研究施設の部屋に入って確認していくのです。助手、二人を建物に入れるのです。」

そう言って博士は静かに上に舞い上がった。続いて助手が後ろから音なく飛びかかりサキとヒイラギを抱え上げ、そしてそのまま廃屋の屋根の穴にダイブした。


屋根に設置されていた鋼鉄製のシャッターの穴を潜り抜けると、アイボリー色の壁に囲まれた小さな部屋に出た。屋根に開けた穴から差し込む日光が部屋の唯一の光源で、光に照らされたコンクリートの床にはさっき助手が破壊したシャッターのねじ切れた鉄板と飛び散ったガラス片がいくつも転がっていた。

サキが部屋に入って真っ先に感じたのは、室内の漂う奇妙な匂いだった。微かに嗅ぎとれるその匂いは不快ではなかったが、どこか引っかかる匂いだった。


「気のせいなのかな・・・でも、形容し難いけれど、嗅いでいると落ち着かない。そんな匂い・・・」

「確かに何か臭うね。」


ヒイラギも周囲を嗅ぎ回って頷いた。


「草か花みたいな匂いかな。でもうっすらと香っているだけだよ。」

「そうかしら。」


サキが匂いのことに気を取られている間に、助手は部屋の隅にあったドアを見つけた。ドアには鍵が掛かっておらず、開くと向こうには下の階へ降りる階段が続いていた。


「この下に研究室などがあるのでしょうか。」

「おそらくは。我々の入手した情報ではこの下に地下1階と地下2階があると思うのです。」


博士と助手は懐の手帳のメモと照らし合わせて、きっとそうだと頷きあった。


「地下2階には事務室や職務室、休憩室がある。研究に必要な設備は地下1階に集約されているみたいなのです。岬医師の本当のデスクは地下2階でしょうか。」

「そうでしょうね。とりあえず助手は地下2階を。私は地下1階をざっと確認するのです。」


地下1階にはT字型の狭い廊下を挟んでいくつもの部屋があった。廃屋同然だった地上部分の外壁からは想像できないくらい手入れや掃除がなされているように見えた。博士の予想通り、ほとんどの部屋は“L-10 生化学分析室““L-08 培養室““L-5 遺伝子操作室“といった、研究目的の部屋であった。その中にはサキがかつて目にした“L-02 分析室“もあった。覗いてみると部屋の中には大きな機械が何台か鎮座していた。そのうちの一つには“結晶構造解析機“というラベルが貼られていた。

しかし例の気を引く匂いはずっと漂っていて、しかも地上階の時より少し濃くなっているように感じられた。ヒイラギはまたあたりを嗅ぎまわったが、匂いの正体が何なのかを言い当てるまでには至らなかった。

博士は廊下の途中で立ち止まり、ゴソゴソ何かをポケットから取り出して二人に見せた。それはキンシコウが博士に渡した、ラベルのついたガラス片だった。


「これは先日平原の崖付近で見つかったガラス片なのです。これを見て何か思い出しませんか? 手にとってよく見てみるのです。」


サキは博士の手の平の上のガラス片を摘んで観察した。汚れたガラス片と聞いてサキが思い浮かべた物は、生まれた時にもっていたラベルのついたガラス片である。“サキ“という名前はあのラベルに書いてあった文字から採られたものであった。今摘んでいる破片のラベルはサキのガラス片と同じように汚れていて“14....a...2058....cr..i....“という文字列しか読み取れない。臭いも嗅いでみると、血のような匂いがした。そしてもう一つ何か別の匂いがした。その匂いを感じ取った瞬間、今まで漂っていた妙な香りとそれらが溶け合い混ざり合い、一度にしてサキの嗅神経に襲いかかった。嗅覚からの刺激の大きさのあまりサキは失神しそうになり、たまらずその場に蹲み込んだ。


「ちょっと、サキさん?!」

「どうしたのですか!」


サキがあまりに突然倒れてしまったのでヒイラギと博士は酷く驚いて、大きな声で先に呼びかけたり背中を摩ったりした。二人が呼びかけてくれていることはサキも気付いていた。しかしあまりのめまいと気持ち悪さのせいで、呼びかけに対して反応できなかった。視点が定まらず、今自分がどういう姿勢でいるのかが分からない。手足の付け根が熱い。


・・

・・・

おかえり。


誰かの声。

そして幻覚が瞼の裏に浮き上がった。


『・・・先生。ねえユウホ先生?』

女の子の声が聞こえる。


誰の声?あなたは誰?


『ね、そばにいて。お願い。』


さっきから感じていた匂いが強くなっていき、それとともに誰かの小さな姿が視えた。妖精のように小さな体がベッドのの上に伏している。被ったフードの中の横顔が少し覗き、長い尾をベッドの下に垂らしている。その子の肌は色素の薄い真っ白、髪は銀色。アルビノだ。


この女の子は私なのか・・・いや違う。私の尻尾はこんなに長くない。それに手足がセルリアンじゃない。白い肌だ。この子はフレンズだ。


その子に触れようと手を伸ばそうとする。


『手、あったかい。ありがとう、先生。』


アルビノの子が振り向いた。その子の目は私と同じ赤色をしていた。


「サキ!!!」


その声と同時に博士のビンタが頬を打った。頬に走る激しい痛みのおかげでサキは正気を取り戻すことができた。


「あれ、私。どうして・・・」

「いきなり倒れちゃったからびっくりしたよ。一体どうしたの?」


ヒイラギが手を差し伸べてくれたので、サキはその手をとってのそりと立ち上がった。手の平は冷たい汗で濡れており動悸も収まっていなかった。サキはゆっくりと息を続けることに集中し、どうにか平静を取り戻そうとした。


「肝を冷やしたのですよ。大丈夫なのですか。」

「ええ。もう大丈夫です。ちょっと、匂いのせいで少しフラッと来てしまって。」

「そんなにきつい匂いはついていないはずですが・・・ヒイラギはどうですか?」

「うーん。血と体液と、博士と助手とリカオンさんとヒグマさんの匂いがついていると思うけど。強烈な匂いってほどじゃないや。」


鋭敏な嗅覚を持つヒイラギにそう言われてしまって、サキはよくわからないまま黙るしかなかった。



博士はサキを休ませるため、いったん地下1階の休憩スペースで腰を落ち着けることにした。休憩スペースには椅子とテーブルがいくつか並べられた小さな部屋で、他の部屋よりも明るい照明がついていた。室内にあった2台の自販機は電源が落とされていて使えず博士は残念そうに舌打ちしていた。博士はサキを椅子に座らせ、サキの気分が落ち着いたのを見計らって、続きの話をした。


「この平原で見つかったガラスの欠片と、お前が持っていた欠片はもともと一つの瓶だったと推察されるのです。その瓶と同じものをお前は知っているはずなのですが。」

「瓶・・・瓶ですか。私と博士の両方が知っている物って・・・・・・もしかしてFCCSの患者の病理標本が入ったあの瓶ですか?」

「ご名答。あのラベルには何て書いてあったかというと・・・」


博士は手帳のメモを開いて一枚の写真を出した。瓶を写したインスタント写真のラベルのところを指差した。そこにはこう記されていた。


“14, Jan. 2058 crystalloid tissue MATSURIKA No.1”


「これって、前に博士から渡された瓶ですよね。FCCSの結石の標本入りの。」

「ええ。これはマツリカというFCCS患者から採られた結晶のような標本が入っていたのです。そしてこの瓶にはNo.1と記されている。ということはNo.2やNo.3が必ず存在していたということです。お前が生まれた時握っていたガラス片、そして平原で見つかったガラス片はもともとNo.2やNo.3の瓶であったと推測されるのです。思い返せば、お前のサキという名前。これはMATSURIKAというアルファベット列かの内、A、S、I、Kの4つのアルファベットだけが読めたのでしょう。だから私はその4文字を拾って並び替え、SAKI(サキ)という名をお前に与えたのです。」

「しかし、その標本の瓶と私の産まれがどのように関係するのですか?」

「知っての通り、フレンズという生物は動物の体、もしくはその遺残物にサンドスターが接触して発生するのです。セルリアンの発生については諸説あるのですが、基本的にはサンドスターが無機物に接触することがキッカケになると言われているのです。瓶はガラスですからセルリアンの素となり得る。その瓶に入っていたものはマツリカというフレンズの組織片なのでしょう。つまりフレンズの遺残物なのです。」

「するとつまり、フレンズの組織が入ったガラス瓶にサンドスターが同時に接触したから私のようなハーフが生まれたということですか。」

「そう考えているのです。そしてお前のハブ的要素はマツリカという患者から受け継いだものと考えられます。マツリカはハブのフレンズなのでしょう。」


そう聞いてサキは先ほど浮かんだ幻覚を思い返した。あの時視えた白い女の子、彼女がハブのフレンズ、マツリカなのだろうか。

「しかし博士。それだとやっぱり私はセルリアンとフレンズの血を引いているということになりますが。」


すると博士は大きく頷いて、キョウシュウエリアの地図をテーブル上に広げた。


「その通りなのです。ですが先程も言いましたがお前の能力はフレンズの次元ではない。そこに違和感があり、そして必ず理由が存在する。そこで私はガラス瓶が出て来た場所にも着目してみたのです。」


博士は地図上の平原の東端、崖のところを指差して言った。


「病理標本入りのガラス瓶はここの崖下から発見されたアタッシェケースの中に入っていたのです。さっきお前たちに見せたガラス片もここから見つかりました。同様にサキが生まれた時に握っていたガラス片はここにあった可能性が高いと言えます。」


つまり私はこの辺りで生まれたのだなとサキは思った。自分が何処から来たのかが分かって少し落ち着いた気持ちになった。その一方で博士は一層真剣な眼差しになった。


「この地点が問題なのですよ。」

「どういうことです?」

「この崖下は岬医師が事故死した現場だと私が考えている場所なのです。本当に事故があったかどうかはまだ定かではありませんが、同じような時期にこの場所での自動車の事故を目撃したフレンズがいるのです。そのフレンズの話によると、被害者のヒトのドライバーは積荷と一緒に自動車から放り出されて崖下へ転落し、即死したそうなのです。転落死ですから当然落下地点周辺には被害者の血液や組織片が飛散するでしょう。事故の地点にあった病理標本の瓶が車の積荷から溢れたものであるとすれば、その容器が被害者の組織や体液で汚染されていることは十分考えられます。

以上、私の推測をまとめるとこういうことになるのです。サキ、私はこれまでお前はセルリアンとフレンズの二つの要素があると言ってきましたが、実は三つ目の要素がある。お前のルーツはマツリカという患者の病理標本が入ったガラスの瓶。そしてその瓶には転落事故の犠牲者であるヒトの体液や組織が付着していた。フレンズ、セルリアン、そしてヒトの三つの遺伝子を受け継いで出来上がった生物がお前なのです。」

「私はヒトなのですか?」

「ええ。厳密にいえばヒトとハブの混血のフレンズということになりますが。」

「その・・・ヒトとは誰なのですか。ユウさんですか?」

「それはまだはっきり言えませんが、その可能性はあるでしょう。岬医師の遺伝子を受け継いだからこそ、お前は岬医師がいたこの病院に帰ってこれたのかもしれないのです。そして自ずと医師になったのかもしれません。もしかしたらお前の能力も岬医師譲りの部分があるのかもしれないのですよ。実に面白いのです。」


私が生まれた時に握っていたガラス片をよくよく思い出すと、ラベルには確かに汚れが付いていた。あの汚れは土や泥の汚れなどではなく、ユウホの血液だったのかもしれない。博士の言ったことが本当だとするならば、私は3種類の遺伝子が混ざり合ったキメラ生物ということになり、刻まれた遺伝子の記憶に導かれて今私は医師をやっているということになる。何と類稀な運命に生きているのだとろうと我ながら思った。しかし、だからといって自分に科せられた呪いの象徴であるセルリアンの手足は変わらず体幹にぶら下がっている。過去に潜んでいた事実を知ったことは私に何をもたらすのだろうか。他のフレンズが私に対して抱く印象は何も変わらないのではないだろうか。


「サキ、この予想を聞いてお前はどう思いましたか。」

「どうと言われても・・・実感が湧かなくて。そうだったのか、としか今は言えないです。」

「ふむ。まあそうでしょう。」


博士は一息をつくとテーブルに広げた品々を片付け始めた。


「フレンズにとって、自分が何の動物かということは本人の個性を形成する側面の一つに過ぎないのです。そして個性という一側面を重視するかしないかはフレンズによって様々であり、選択の余地があるのです。サキ、今お前は自分のルーツをようやく知った。これから先、知り得た情報をどう活かすかはお前の選択次第です。」

「個性。自分らしさということですか。」

「その通り。個性を形作る要素はルーツや生まれ育ちの他にもいくらでもあります。望んでいる幸せが何なのか、という事もその一つになるでしょうね。それら要素を組み合わせて出来上がるのが自己像であり、愛すべき個性となるのです。それが自信につながるのですよ。」


片付けたものを揃えてリュックに仕舞い込むと、博士は頬杖をついてニンマリとした笑みをサキに投げかけた。


「今知ったことを一助に…するかは任せます、が自分への自信を持つことは運命を切り開く原動力となります。“みんなと同じように友達を作りたい“という幸せも、自分に自信を持つことが第一歩となる気がするのです。」



博士とサキが話している最中、ヒイラギは何かを嗅ぎつけたように周囲を見回し、それから椅子を立って休憩スペースをぐるぐる歩いた。程なくヒイラギはこれだと言って自販機の影にある何かを指差した。


「さっきから香ってた匂いはこれだよ。」


見るとそこには鉢植えの観葉植物が一つひっそりと隠れていた。鉢からは楕円形の葉をつけた低木がのびていて、真っ直ぐのびた茎の頂点には白い花がいくつか気品よく咲いていた。博士はその鉢植えの花を一目見て言った。


「これはジャスミンなのです。いろいろな種類がありますがこの品種は夏に咲くもののようですね。」


「うん。これと同じような花が病院の裏庭に咲いていたと思う。」

「そうなのですか。それにしてもなぜジャスミンがここにあるのですか。気になるのです。」

「博士、さっきから気になっているんだけど、このジャスミンの香りはあっちの方から流れてくる気がするんだ。」


ヒイラギはスペースを出て右にのびる廊下を指して言った。三人がその方向に歩いていくと、そこには他の部屋の倍くらい横幅のある大きな扉が聳え、その向かいには地下2階へと続く階段があった。


「ふむ、我々の嗅覚では分かりませんが、どちらから匂いが来ていますか。」

「この扉の向こうから。」


入り口には“MATSURIKA“と記された古い黄ばんだ紙が貼られている。


「そうですか。ふむ、電子ロックがかかっているのです。おそらく職員証で開錠できるでしょう。」


博士がリーダーにユウホの職員証をかざすとピーッというアラームが鳴って、続いてドアの内部で錠が引き込まれる音がした。引き戸になっていた大きな扉を開くと、ドアの正面には大きなベッドが一つ、その周囲にはICUに設置されているようなモニターや血液透析機、体外心肺補助装置などが並べられていた。教室くらいの大きさの部屋の床には片隅には大小様々なぬいぐるみや絵本が散らかり、長らく置き去りにされていたのか埃を被っていた。部屋の中にはジャスミンの強い香りが充満していたので、さすがに博士も鼻を覆った。


「ここはしばらく掃除されていなかったようなのです・・・見るのです、壁の側のプランターからジャスミンが伸び放題なのです。」

博士は不愉快そうに舌打ちしてツカツカと部屋の中に入っていった。

置いてある物から見てここは研究施設に入院していた患者、あるいは被験者が滞在していた病室だろう。しかしなぜ病室にジャスミンのような強い香りの植物が持ち込まれているのだろうか。プランターから生えているのを見ると、誰かが人為的に持ち込んだのは確かであろう。


サキはあれこれ想像したが、不意に部屋の匂いが鼻の奥に刺しこんで来てしまったため考えが止まってしまった。きつい匂いのあまり鼻を押さえ背を曲げるサキを見て、ヒイラギは驚いてサキの背をさする。心配しないでとサキが言った時、また強烈な目眩が襲って来た。慌てて呼吸を落ち着けようと肩でゆっくりと大きく息をして悪心をやり過ごそうとする。そうしていると、再び誰かの声が聞こえてきた。

・・

・・・

『・・・ハブさん。あなたがいい香りねって言っていた花はこれよ。』


大人の女性の声、この声色は知っている。ユウさんの声だ。


『うん。この香り大好き。これが、なんだっけ?』


女の子の声、マツリカの声だろうか。再びユウさんの声がした。


『これがジャスミン、またの名をマツリカっていう花なの。真っ白で可愛らしい花。ふふっ、よく見たらあなたにそっくりね。』

『そうかも。ジャスミン、マツリカ。小さくて可愛いね。』


マツリカの嬉しそうな声。


・・・・・・


『そうだユウホ先生。私のこと、マツリカって呼んでよ。』

『あら、どうしてかしら?』

『この花と、名前が好きになっちゃったから。あとね、ハブって名前があんまりね・・・好きじゃないの。ずっと一人ぼっちだったから。』


そうか、あなたも一人ぼっちだったんだ。


そこで声は聞こえなくなってしまった。伏せていた顔をゆっくりと上げたときには既に目眩も悪心も無くなっていた。


「今のは・・・?誰か居たのか・・・?」


側にいたヒイラギがきょとんとした顔で首を傾げる。


「いいや、多分私の遺伝子に刻まれた記憶がフラッシュバックしたのかもしれない。さっき見た映像も、今の声も。」

「どうしたの、さっきからなんかおかしいよ。匂いのせい?」

「・・・人間、失ったり忘れてしまった記憶を何かのきっかけで偶然思い出すことがあるの。デジャヴとかPTSDとかと関連があるんだけど、今のはそれなのかも。」

「一体何が見えたのさ。」

「私のルーツになっている2人だと思う。博士が言ったことが本当なら、その2人はマツリカというハブのフレンズと、女の先生ってことになる。」


吐き気の中で断片的に戻ってきた過去の記憶はサキ自身が経験した記憶ではない。マツリカか、もう1人の医師かがかつて見た光景が、自分の無意識に保存されていた。それがこの匂いをトリガーとしてフラッシュバックしたのだろうとサキは解釈した。ヒイラギが手を差し出してくれたので、サキは体を引き起こして立ち上がり、ふうと大きく息をついた。


「サキ、ちょっとこれを見るのです!!」


その時部屋の隅にいた博士が珍しく仰天した大きな声を上げた。駆け寄ると博士はゴミ箱から拾ったであろうクシャクシャになった書類を持ってサキに突き出した。電子メールを印刷しただけの簡素な書類の本文に目を通す。


******

2058年5月17日14時35分

Subject:【統括部】5月15日の平原での事故について


5月15日深夜に平原東部で発生しました自動車転落事故の被害者についての続報です。遺体を収容した第1病院で行なった死体検案の結果、第2病院研究所所属の岬侑帆医師と確認されました。詳細につきましては添付しました死体検案書をご確認下さい。尚警察への届け出は第1病院により既に完了しております。

手短ではありますがご連絡差し上げるとともに、心よりお悔やみ申し上げます。


キョウシュウエリア統括部 部長 ミライ

******


博士の予想は当たっていた。ということはサキのヒト的要素はユウホ由来である可能性がより大きくなる。匂いに誘発された幻聴や幻視とも矛盾しない。サキは書類をギュッと握って悟ったように呟いた。


「私は二つの人格を受け継いだんだ。ヒトとフレンズ、医師と患者、ユウさんとマツリカ。」


その時だった。急に腿から下の力が抜けてサキはばたりと床に倒れた。自分でも何が起きたかわからず慌てて手をついて起き上がろうとするが、腕に全く力が入らず立ち上がれない。そればかりか手足の付け根、ちょうどヒトの胴体とセルリアンの四肢の境界が燃えるように熱く、激しく痛む。サキは白目を剥いて床を転げ回った。ヒイラギと博士が駆け寄ってしきりに声をかけてくれているようだったが、なんて言っているのかがよくわからない。呼吸が引きつりだし、腹部や目の奥までが熱感を持った疼痛を発しだした。


「私は助手を呼んでくるのです! ヒイラギはサキを見ていてあげるのです。」

「わかったよ!」


博士とヒイラギは多分そう言っていた。全身の激しい痛みのせいで何も考えられず、反応もできないサキ。そんな痛みの渦の渦中でもはっきりと残っていた感覚が一つだけあった。それは嗅覚。最も原始的な感覚である嗅覚だけは変わらずに刺激を伝えてくれていた。施設に入ってからずっとまとわりついてくるジャスミンの香りはずっと感じていた。しかしそれ以外にも雨の匂い、土の匂い、血の匂い。それから、セルリアンのような臭いが感じられた。本物かなのか、それとも幻覚だろうか。痛みに支配されてゆくサキにそれを考える余裕はどこにもなかった。


「ただいま。」


うわ言ののような言葉を呟いた次の瞬間に、体が重力に引かれて深い海に落ちていくような感覚を覚えた。自分の体が溶けて消えていく。遂には意識さえも吸い込まれてしまった。


・・

・・・

・・


(後編へ続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る