カルテ7−1 ここにある今が道しるべ

夜は明けてゆき、東に聳える山の際が次第に白んでいく時間になっていた。サキはたった一人で屋上に寝転がり微睡ながら、白くかすんで馴染むように消えていく星たちを眺めていた。満天の星空の下でサーバルと向き合った真夜中のあと、とりあえずサーバルを病室に連れて帰り、それから宿直室でヒイラギと横になっていたが目を瞑っても一向に眠くならなかった。サキは眠るのを諦めて宿直室を抜け出して、コーヒーを片手に医員室に戻り、昨晩博士から託された手帳や論文の書類などにじっと目を通していた。それにも疲れて今はふらりと屋上に上がって寝転び、ユウホの遺失物についてぼんやりと考えを浮かべていた。


手帳にはスケジュールが書き込まれたカレンダーがあったが、その書き込みは2058年の5月16日を境にぷっつりと途絶え、5月17日以降はほんの少し脳神経外科学会や定例会議の予定が書き込まれているだけになっていた。手帳の後ろ半分はメモ用紙になっており、そこにはユウホが走り書きした文章の数々が残されていた。そしてその文章の多くに“FCCS”という単語が含まれているのが目についた。

博士の話に出てきたFCCSという病気、その詳細は2056年にユウホが執筆した論文の中に記載されていた。題は「新生物種“フレンズ”において特発する突発性脳圧亢進症候8例の検討」


“ヒトの中年以降に相当する年齢のフレンズにおいて突然の呼吸麻痺や意識消失により死亡する例が近年相次いで報告されている。報告を受けた我々キョウシュウエリアの研究チームはそれらの診断書や検査結果を分析することで、当該の原因不明疾患の機序及び病態を明らかにし、早急に治療方針を立案しようと考えた。

・・・(中略)・・・

統計により、当該疾患には以下の症候が高率に含まれていると分かった

・直接的な死因となる致死的な脳圧の亢進

・虚血による脳幹部障害

・脳浮腫

・頭痛、めまい

・神経性の嘔吐

・排泄障害

・脳脊髄液のカルシウム濃度、その他カリウム、リン、ケイ素が比較的高値。CRPは低値。

・・・・・

加えて80%の患者本人や介添人の訴えから、患者は持続的に悪化する下肢の脱力を自覚していることがわかっている。MRI検査において腰部脊柱管内に結晶様の病変らしきものが、確認できた症例全てに認められる。これが坐骨神経や大腿神経を障害しているのではないかと考えられる。この腰部の結晶様の病変は当該疾患となんらかの関係があるのではないかと我々は考えている。

我々は当該症候をFCCS、フレンズ脳脊髄晶質化症候群と呼称し、今後さらなる病態の解析、及び治療法の確立を進めていく。“


フレンズにのみ現れる疾患というものはいくつか知られているが、FCCSもそのひとつであるらしい。サキもFCCSについてはどこかで読んだような記憶があった。


「たしか・・・それまで普通に生活していたフレンズが前触れもなくいきなり卒倒して運ばれてくるという噂の、ひどく恐ろしい病気だった。」


そう考えると、フレンズの命を脅かすFCCSに対し、フレンズを大切に思っていたであろうユウホが立ち向かっていたという話は納得がいく話だった。ユウホはこの疾患の研究に携わって1年ほどでこの論文を書き上げたようである。


「この論文を2056年に発表した後も研究を続けたのなら、続きの論文も書いたはずなんだけどなあ。」


サキはため息をついた。それは博士から渡された論文は2056年のこれが最も新しく、それ以降論文は一つも無かったからだ。その他に入っていたのは2056年以前のユウホの論文と、雑誌の切り抜き、それにマツリカという患者の血液や尿等の詳細な検査データだけ。しかもマツリカという患者の検査結果のデータの記録は大量にあったが、肝心のマツリカのカルテの類は一切なかった。正直これらの論文の束はサキの興味をあまり引かなかった。それよりもサキが興味をもってじっと見いったのは何らかの結晶が入った小瓶の方と、ケースに入れられた特注のモノポーラの方であった。


中の結晶は黒く少し透けた宝石の様な形体をしていた。1cmにも満たない結晶はホルマリンらしき液体に浸けられ瓶の底に沈み、液の動きに合わせてフラフラ揺れていた。ビンの側面に貼り付けられた薄汚れたラベルには“14, Jan. 2058 crystalloid tissue MATSURIKA No.1”の文字がある。これがマツリカという患者から採取された病理切片であることがサキにはすぐに分かった。ガンなどの腫瘍性病変を外科的に切除した場合、診断を確定させるために切除した腫瘍の一部をこの様に標本にすることがよくあるのだ。


「マツリカという患者はFCCSを患っていたと博士が言っていた。ということはこの結晶が論文に記載されていた病変の切片なのかしら? こんな水晶みたいなものが脊柱管の中に?」


このラベルによれば2058年1月14日にマツリカの手術が行われ、その際この標本が作成された。しかし術後1週間で患者、マツリカは死亡してしまった。この経過をみると、もしかしたら手術は失敗したのかもしれない。


「マツリカの死後、その遺体に過度の侵襲を加え標本を必要以上に作成していたのではないかと雑誌に批判されているけれど・・・きっとこれは仕方のないことだったのかもしれないわね。」


死亡が確認されたフレンズの遺体はサンドスターの代謝が停止するためフレンズの体を維持することができなくなる。死後1時間程度でフレンズ化が解除されて元の動物の体に戻ってしまうため、死後の剖検をして死因究明をするのは時間的に厳しいものがある。しかし研究者としては、是非とも遺体を剖検して患者が亡くなってしまった理由を知り、それから新たな研究の手がかりを得たいのである。その観点に立てばユウホたち研究チームがマツリカの遺体を迅速に解剖し、出来る限り標本として固定したのは理解ができる。


「けれど、それはなくなった患者本人の同意が必要だ。」


医師ユウホの人格を考えれば、事前に同意をとっていた可能性は高い。けれど何も知らない外野にはユウホの行為は倫理的に問題があるようにみえたのだろうか。サキは気の毒なことだなぁと思い、体を起こして電灯の柱にもたれた。


ケースに入ったモノポーラ、すなわち電気メスは非常に上等なものだった。サキが使っていた病院に備え付けのモノポーラとは比べ物にならないくらい持ちやすく、指先の操作がしやすい形状をしていた。しかも消毒をきちんとすればまだ十分使えるようだった。一点、サキが気になったのはモノポーラの方ではなく同梱されていたアタッチメントの方である。アタッチメントはとても細く鋭い針の様な形状をしており、通常使用する電気メス用のアタッチメントとは全く違うものであった。小さく印字してあった製造年は2058年3月、つまり本体であるモノポーラの購入後、別に買い足したパーツのようである。

一体このパーツは何に使用するものだったのだろうか、サキはいろいろ想像してみたが、見たことのないパーツだったため結局何にも思いつかなかった。


「いったいユウさんは2056年から2058年の間に何をしていたんだろうか。」


断片的にしか見えてこないユウホの足取りを想像し、サキはまた地面に寝転がってうつ伏せになった。そのまましばらく静かに記憶を整理しているうち、こんなに真面目にユウホの過去について考えている自分に気づき、それについてもどうしてだろうかと思った。


「自分の新たな目標を見つけるには過去の人物がどの様に生きたのかを知ることが大事だって、博士は言っていたけれど。むしろわからないことは増えるばっかり。

そもそも目標目標って言っているけれど本当はなんのことだろう。

人生の目標なのだろうか。

欲しいものを得る、幸せになることが人生の目標なのかな。愛を得る、富を得る、名声を得る、友を得る、感謝を得る・・・どれを幸せと呼ぶかなんて人それぞれだけど、みんな自分が望む幸せを手に入れるために目標を立てるのかな。」


心の中で呟いているうち、じゃあ私の幸せはなんなのだろうかという、哲学的な問いに突き当たった。私に足りなくて、手に入れたいと思っているものはなんなのだろうか。

「寂しさなのかな。」サキは昨晩の自分の感情のゆらぎを思い出した。

みんなが話している輪の中に入ってゆけなかった自分がいた。その輪の中に入っていく権利はあったはず、なのに私は逃げてしまった。そう、怖かったから、かつての様に拒絶されるのが恐ろしかった。7年前平原で生まれ、図書館でSAKIという名をもらったあと、この病院に来るまでの数ヶ月間、いくあてもない私は平原の岩陰や森林をうろついていた。この腕と足のせいで私に近寄ろうとするフレンズは誰一人としていなかった。恐る恐る話しかけてもみんなは私の腕を見るなり怖がって逃げてしまった。警戒して遠く物陰に隠れて昼も夜も監視したりするフレンズもいた・・・とてもじゃないが私はフレンズとして生きていくことができなかった。だから私は自らフレンズの社会から逃げ出して誰も寄り付かないこの病院に隠れ住んだ。誰とも友達になれず、おしゃべりすることすら叶わず、でもこれは誰のせいでもない。生まれ持ったセルリアンの半身を呪うしかなかった。


「・・・っ!」


まざまざと蘇ってくる精神的トラウマに気分を害され、サキはセルリアンの拳を地面にうちつけた。

セルリアン、そういえばこのエリアの営業が停止した理由は例の2058年の巨大セルリアンの発生であり、そのせいでサーバルさんとミライさんは離れ離れになった。サーバルさんだけに限らず他の大勢のフレンズたちもそれぞれショックを受けただろう。そしてセルリアンをひどく憎んだだろう。

セルリアンへの憎悪はサキの中に流れるフレンズの血を沸騰させた。サキはまた拳を地面にうちつけ奥歯を強く噛んだ。程なく東の空がスッと明るくなり、空の際から朝日が顔を出して屋上に陽光をもたらし始めた。日の光に弱いサキはすぐに屋上から立ち退かねばならなかったが、サキは屋上に這ったまま起き上がろうとしなかった。服に着いたフードで頭をすっぽりと覆い、手足を引っ込めて踞るようにして暖かな朝日を浴びた。

日の出から十数分、ようやくサキはむくりと体を起こし東の空を仰いだ。


「私だって・・・フレンズなんだ。みんなと同じ、一人の、普通の、フレンズなんだよ・・・」


袖で一度目元を拭うと、朝日に背を向けて出口の扉を開き、仄かに明るくなった階段を足音を立てぬよう静かに降りて屋上を後にした。



医員室のソファーで1時間だけ眠った後、サキはヒイラギを起こして医員室にくるよう言った。30分後ヒイラギはコーヒーの入ったマグカップを2つ持って部屋に入ってきた。サキはいつもの仕事机の前にいたので、ヒイラギもサキの向かいのいつもの椅子に座った。


「どうしたの、こんな早くに。」


ヒイラギはひとつ欠伸をしてコーヒーを一口啜った。サキもコーヒーに一口手をつけてから用事を切り出した。


「ヒイラギ、透析の間あなたが熱心にサーバルさんに文字を教えてくれていたのはちゃんと知っているわ。ありがとう。それで昨晩サーバルさんがミライさんに手紙を書きたいって言っていたのは覚えている?」

「もちろんだよ。」

「そのことで一つ言っておくべきことがあるの。文字を書く技術については今まで通りやってもらって良いのだけれど、肝心の手紙の内容について、私もヒイラギも基本的に聞くことに徹し、過度な干渉は避けましょう。」

「それは、分かったけれど。どうして?」


マグカップを置きヒイラギが真剣な眼差しになった。


「サーバルさんは自分の体の調子については既に察していると思う。命がもうそれほど長く持たないことも気付いている。でもね、実際死ぬことを受容する過程には少し時間がかかるもの。心の中に燻る死への不安を自分なりに、自分の力で一つ一つ整理していかなければならないからね。サーバルさんは“愛する人への手紙を書く”という行動を通して、自分自身と対話し、心中を整理し、自らの死を受容することになると思う。この過程に、私たちが無闇に口を挟むことは、かえってサーバルさんの気持ちを不穏にさせてしまう。」

「・・・何もしないってこと?」

「違うわ。サーバルさんは死を受け入れるにあたって、いろんな不安や迷いを口にすると思う。私たちはその不安を聞いてあげる、頷いてあげる。それだけでいいの。いや、それこそが大事なのよ。辛い時、話をきていくれる人がいるということは、何よりも心の支えになるんだからね・・・」


ヒイラギは少しの間頷きも、首を横に振りもせず黙って俯いていた。そして顔を伏せたままぽつりと言った。


「わかった、がんばってみるよ。」


そして朝ごはんを持ってくると言ってヒイラギは静かに出ていった。顔を伏せてはいたが、サキにはヒイラギがどんな表情をしていたかがわかっていた。ヒイラギはサキよりもサーバルと一緒にいる時間がずっと長い。それ故サーバルとヒイラギの間に医療者と患者という関係以上の信頼が芽生えていることはサキも気づいていた。そんなヒイラギに対し、友達同然のサーバルが死へと向かっていく過程において、過度の干渉を避け聞き役に徹しろというのは酷な話である。それはサキも十分わかっていた。しかしサキもヒイラギも、サーバルを治療する側の人間なのだ。医師と患者は治療上必要であると考えられる以上の交わりをすべきではない、精神科の原則である。過剰に交われば科学的であるべき治療方針が一時の気の迷いで狂いかねないし、そうなれば一番ダメージを受けるのは患者であるからだ。ヒイラギに再度この原則を思い出させるため、サキはヒイラギを呼び付けたのだった。


「それに、サーバルさんの精神は死を畏怖するという動物的本能の枠組みを超えている。そうじゃなければ自らの死を悟ったような発言はしないし、さらに自分の死を見据えた上での行動を起こすことはない。サーバルさんはヒト、これに則った対応をすべき。私はそう思っている。」


サキはあえて少しだけ大きな声で独り言を言い、立ち上がって窓際に歩み寄った。もう辺りはすっかり明るくなって、昨日の様な清々しい朝の空が広がっていた。部屋のすぐ外で遠ざかっていく小さな足音を聴きながら、サキは顔を手で覆い、一言「ごめんね」と呟いた。



「ふうん、サーバルは手紙を書くことにしたのか。」

フェネックのいるベッドの端で、あぐらをかいたアライグマがちょっと感心したようにうなずいた。向かいのサーバルは「そうなんだ」と相槌を打ち、テーブルに覆いかぶさるくらいに腰を曲げてガリガリと文字を練習していた。右手の太い鉛筆の先を紙にギュッと押しつけて大きな文字を書き、それとヒイラギが書いた手本の小さな字と見比べては「うーん」と不満足げな声を漏らし、また鉛筆を握り直した。


「今までも気晴らしに文字の練習はしていたんだけどね、目指したいものができると頑張れるんだ。やり遂げようって気持ちになるの。」

「おお、今まで何度も文字の訓練を諦めたサーバルだけど今回ばかりは違いそうなのだ。」

「ふっふーん!」

「こんなにニコニコしたサーバル、私初めて見たかも。」


アライグマの後ろでフェネックが言ったことに、サーバルはちょっと首を傾げた。


「そう?私いつもこんな感じじゃなかった?」

「・・・いや、なんだか幸せそうと言うか。体から昨日までにはなかった輝きが溢れているような、そんな感じだよ。」

「そうかな?でもね、書きたいことはいっぱいあるんだ。楽しかった思い出いっぱいあるからね。」


そこにサキが扉を開け入ってきた。室内の全員がサキの方を向く。


「先生、おはようなのだ。」

「おはようございます。フェネックさんは気分はいかがでしょう。」

「そんなに悪くないかなー。」

「それでしたら、カテーテル手術の前にやっておかなくてはいけない検査がいくつかありますので、今日はそれをしましょうか。」

「わかったよー。」

「わかりました。今が8時50分ですから・・・それでは10時から始めましょう。おそらく昼過ぎには終わりますよ。」


サキはカルテにあれこれ書き加えた後、今度はサーバルのベッドサイドに歩み寄った。サーバルはいつもより少し血色が良く、元気そうだった。サイドテーブルにのっ

た右手の横は鉛筆の粉で真っ黒になっていた。


「早速やっていますね。」

「うん。もたもたしていられないからね。ヒイラギがつきっきりで教えてくれているの。」


サキの問いかけにサーバルはにこにこして答えた。それを聞いてヒイラギは手元の紙から目を離し、サーバルを見てからサキの方を向いた。ヒイラギが「どうかな」というふうに首を少し傾けたのでサキはそれに応じて頷いた。


「そうですね、今は熱が入っているみたいですから透析は午後にしましょう。今日は私も一緒にいますね。」



サキはヒイラギをサーバルの隣にそのまま残し、アライグマにフェネックの介助をお願いしながら、採血、髄液検査、造影CTなど種々の検査項目を一人でこなした。全ての検査が終わったのは12時過ぎであった。今は地下一階の検査室のパソコンのモニターを見ながら、神妙な顔で聞き入るアライグマと、冷静な顔でサキの話を受け止めているフェネックを相手に結果の説明をしている。


「血液や髄液には特段問題はありません。来院した時には詰まっていた脳の血管ですが、今はつまりが取れて概ね元どおりに血は巡っていますね。フェネックさん、右手や右足のコントロールはどうでしょう?右手を握ったり開いたりしてみてください。」

「そうだねー、だいぶ良くなった気がするよ。まだ完全に元に戻ったとは言いづらいけれど、これならなんとか生活できるかな。」


フェネックは言われた通り右手を閉じては開いてみて、嬉しそうに笑みをうかべた。


「それで、前に言っていた“血管の瘤”というのはどうなのだ?」


アライグマはモニターを覗き込み、その瘤を探そうとして造影CTの血管像を食い入るように覗き込んだ。サキはモニターの一点を指差して「ここです」と言った。


「前回検査した時よりもほんの少しだけ大きく膨れているみたいですね。幸い今のところは破裂していませんが、フェネックさんの体調が整い次第この瘤を塞いだ方がよいでしょう。ここまではよろしいですか?」

「うん、わかっているよ。」

「ありがとうございます。そうしたら・・・抗凝固剤t-PAは終了して二日が経過、ヘパリンは血中半減期が短いから前日まで使用する予定に変更してと。フェネックさん、手術は2日後でいかがでしょうか。手術が無事に終われば、その二日後には退院できますよ。」


そう言ってフェネックの顔を覗くと、その顔には安堵の色がうかがえた。アライグマも緊張が解けたのか、ふうと息をつき嬉しそうにフェネックの肩を持った。そんな彼女たちを見て、サキも自然と笑みをこぼした。

二人を病室に送った後サキは片付けのために再び地下一階に戻った。使用した針やシリンジをせっせと分類し廃棄用の袋に詰めていった。遠心分離をしたあとの髄液の検体を処理しようと分析機から取り出した時、サキはその髄液に何か妙な点があることに気がついた。スピッツ管の中のフェネックの髄液は透明でほぼ無色であり正常。しかし容器の底には通常では見られない、赤黒っぽい微細粉末がほんの少しだけ沈殿していた。サキは管を明かりに掲げて、肉眼で捉えるのがやっとのその細かい粉に注目した。


「髄液からこんな物体が発見されることなんてあるのかしら。確か化膿性髄膜炎とかなら沈殿がでるという可能性もあるけれど・・・フェネックさんに髄膜炎を疑うような所見や訴えは一切無いしなぁ。凝固した血液の欠片かも?」


いくら思い返してもこの粉末を説明できるような知識はなかった。ひとまずサキは粉末の一部を採取して顕微鏡で確認してみることにした。40倍、100倍と顕微鏡の倍率を上げていくと次第に粉末がどういう形状のものかが見えてきた。


「これは結石・・・?」


顕微鏡の円い視野に見えてきたのは、四面体で黒曜石のように黒く透けた色の結晶様構造物だった。体内で生成される結晶構造といえば結石が思い当たった。結石は体内にある塩やコレステロール等が凝集し結晶の様に固まったものであり、結石を構成する物質によって様々な形状をとる。しかし、髄腔内で結石が形成されるなどという話は前代未聞であり、もちろんサキもそんなケースを聞いたことは無かった。


「まいったわね。髄液の数値にも異常値は無いし頭部CTでもひっかかるような病変はない。いったいなぜこんなものがでてきたのかしら。」


顕微鏡の前で腕組みして10分ほど思案していたが、結局何も思い浮かばなかった。サキはこの結石の顕微鏡写真を撮りプリンターで写真を印刷すると、それをカルテに挟み込んだ。


「夜にじっくり調べてみよう。」


時計を見ると時刻は14時にさしかかっていた。そろそろサーバルの透析の準備を始めねばと気づき、スピッツ管を冷蔵保管庫にしまうと早足で検査室を出た。あの結晶のことをなんとなく考えながら階段を登り、二階の廊下に踏み入ろうとした時、不意にサキの頭に閃きが走った。サキは思わず足を止め顎を手に置いた。


「結晶って。もしかしてアレと同じものだったりするのかしら。」


一瞬の閃きを忘れぬよう、サキはポケットからメモ用のノートを取り出して浮かんだアイデアを書き留めた。

二日後のカテーテル手術のアプローチの計画、それにあの結晶について・・・考えることはいっぱいだ。サキはメモ帳を元のポケットにしまって息をついた。



透析ルームに使っている小児科の病室は他の病室よりも居心地を重視しているためなのか、南向きに大きい窓がはめられている。その窓が真夏の午後4時のまだ強い日差しを採りこみ、レースのカーテンを透かして部屋を明るく開放的に演出している。左腕に管をつけたベッド上のサーバルはいつもの様に手元にサイドテーブルにもたれ、窓からの光を頼りにせっせと文字を書いていた。その熱の入り方はすさまじく、ヒイラギ曰くトイレに向かう時と昼食を摂る時以外はずっと鉛筆を握っていたという。


「右手の力をもっと抜かないと、また鉛筆の芯折れちゃうよ。」


ヒイラギが言うとサーバルは恥ずかしそうに笑って別の鉛筆に持ち替えた。


「手先が器用じゃないから、どうしても強く握っちゃうんだよね。また鉛筆削るのお願いしちゃうかも。」

「いいのいいの。気にしないで。」


サーバルはまた手元の紙面に目をやって、ぎこちなく鉛筆を動かし始めた。サキはサーバルの背中越しに二人の様子に気を配りながら、透析に必要な血液ガス等のデータに目を通していた。

透析を開始して1ヶ月程度、サーバルの全身状態は緩やかに悪化していた。透析治療はあくまで機能を失った腎臓の濾過機能の代わりをしているだけであり、根本的治療ではない。インスリンやSGLT2阻害剤による血糖コントロールにも限界がある。貧血や腎炎、免疫力低下といった糖尿病の併発症の数値も悪い方向に向かっている。さらに病院での生活を余儀なくされているせいで下肢の筋力低下が目立つ様になってきている。歩くことはもちろん、立ち上がることも恐らく無理であろう。


(でも、視力は低下していないみたいね・・・)


高血糖、高血圧状態は網膜にダメージを与え、その結果失明に至ってしまうケースがある。幸いなことにサーバルの視力はなんとか入院時の時とほぼ変化せず、保たれていた。


(視力を失ってしまえばQOLが著しく損なわれてしまう。手紙を書きたいと言うサーバルさんにとって視力はある意味で最後の希望なのだろう。念のため眼底検査は毎日するようにしようかな。視力が維持できるようにコントロールするのは私の仕事だ。)


考え事をしながら、無意識に手に持っていたボールペンの先でカルテの紙面をトントンと2回叩いた。その小さな音はサーバルの鋭敏な聴力に拾われたようで、サーバルはくるりと首を回しサキの方を向いた。


「どうしたの?」

「いえ、ちょっと考え事をしていました。」

「へえ、どんなこと?難しいこと?」

「そうですね。明後日フェネックさんの手術をやりますので。」

「そっか。サキっていつも忙しいよね。ミライさんやユウさんとおんなじだね。」

「ユウさんはなんとなくわかりますけど、ミライさんも忙しかったんですか?」

「そうだなぁ・・・ミライさんはガイドだったから私と一緒にあっちこっちに出かけたりしていたけれど、パークのスタッフをまとめる係になってからはかなり忙しそうだったよ。だからミライさんは仕事場がある港の近くに部屋を借りていたの。それでも、私をその部屋に住まわせてくれたし、仕事がない時は一緒に居てくれた。あ、でも私もいろんなパークのイベントに呼ばれるようになっていたから、忙しかったのはお互い様だったのかもね。それからそれから・・・あ、ごめんね。つい喋りすぎちゃったかも。」


サーバルは慌てて手を振った。サキは穏やかに微笑みかける。


「いえ、喋りすぎなんてことはありませんよ。」

「そう?なんかね、手紙に何書こうかなって思って、思い出を振り返っていたらミライさんのことをいっぱい思い出しちゃったんだよね。」


サーバルはそう言って、間違いだらけのひらがなが所狭し並んだ紙をサキとヒイラギに手渡した。見るとその紙はサーバルがミライさんと体験した記憶の数々で埋め尽くされていた。


「うわあ、こんなにいっぱい書いたんだね。」


ヒイラギが驚くとサーバルは照れ臭そうに頬を掻いて、そして困ったように笑って言った。


「そうなんだよね、いっぱいあるの。いっぱいありすぎてどれを書いたらいいかわかんないの。全部大切な思い出だから。でも、私がミライさんに伝えたいことは本当にコレなのかなって、思ったりもする。」

「それはどういうことでしょう。」


サキは椅子をベッドの方に動かし、サーバルに少し近づいた。


「うーん、そこのところが自分でもよくわからないというか。お手紙の中身が思い出ばっかりで、本当に私の気持ちがミライさんに伝わるのかなって。」

「そうですよね、自分の気持ちを整理して、他の誰かに伝えることはとても難しい。」


サキは大きく頷いた。サーバルのぼんやりとした悩みは、今サキが抱えている自分自身の悩みと重なるところがあったからだ。


「でも、時間をかけたっていいんですよ。むしろいっぱい考えて書きあげた手紙の方がミライさんは喜ぶんじゃないでしょうか。」

「ああ、そうかもね。」


そういってサーバルはまたテーブルの上の書きかけの手紙に目を戻した。


「でも、自分の本当の気持ちを知るのって難しいよね。」


ヒイラギの問いかけにサキはまた頷いた。


「ええ。私だって自分がわからなくなることがある。これが苦しくて人は悩み葛藤するの。でもね、これは恥ずかしいことじゃないって私は思う。だからね、サーバルさん。何か不安があったり整理がつかないことがあったら、私たちを頼っていいんですよ。」


サキの言葉に、サーバルは小さく「ありがとう」と言って顔を綻ばせた。



夜11時過ぎ、サキは一人地下一階の検査室に潜り顕微鏡を覗き込んでいた。スライドガラスにセットしたのは、博士から受け取った瓶の中の結晶の一部を砕いた粉末である。サキはレンズに映る結晶を食い入るように見つめ、それから一言呟いた。


「同じものかもしれない。」


瓶の中の結晶は、昼間フェネックの髄液から見つかった結石と構造が似ているように見えた。色味はフェネックから採取されたものの方が赤っぽいが、瓶の中の結晶はホルマリンに漬けられ固定されていたことを考えれば誤差とも思えた。


「瓶の結晶はFCCSを患っていたマツリカという患者の標本。すると、フェネックさんはFCCSを発症しているのか・・・いや、論文にあったFCCSの症状は一つも現れていない。早期なのかもしれないが。」


昼間フェネックの頭部MRIを撮影したそのついでに腰部も撮っておけばよかったとサキは後悔した。論文によるとFCCSは髄腔内の疾患であるため、血管内カテーテル手術に影響は無いと考えられるが、万一ということもある。念のため明日軽く診察をしておこう、とサキはカルテにメモをしておいた。

とはいえ顕微鏡で確認するだけではフェネックの結石と瓶の結晶が同じものだと断定することはできない。それには結晶構造解析の機械が必要だった。サキは検査室の戸棚から備品のリストを取り出して検索してみると、その機械は用意されていることがわかった。ところが、結晶構造解析機が設置されている場所にはこのような文字列が書かれていた。


「L-02 分析室・・・」


なんだこれはとサキは首を傾げた。この病院は地上3階地下1階で、部屋の番号は「1-01 診察室」「B1-05 検査室」というような番号が当てられている。この病院に住みついて7年、サキはこの病院にある部屋は全て知っているつもりだったが、L-02という部屋番号は初めて目にした。こんな部屋あったかなとサキは思い、部屋を出て廊下の壁にかかっている地下一階の地図を確認しに行ったが、やはりL–02などという部屋はどこにも載っていなかった。


「一般の人やフレンズが目にする廊下にある地図にはL-02は載っていない。一方でスタッフしか目にしない備品リストにはL-02が載っている。つまりL-02の存在は外部には秘密にしていたということかしら。」


サキはなんだか嫌な予感がして唇をひきつらせた。考えすぎかもしれない・・・でも、もしかしたら・・・サキはしばらくその場で立ち尽くした。薄暗い廊下のどこかでラッキービーストが跳ねる音が聞こえた。

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