カルテ7−2 ここにある今が道しるべ
風もない穏やかな夜も2時過ぎた。博士はたった一人起きて図書館一回のソファーに体を埋め、小さなデスクランプのオレンジの光を頼りに書類を熱心に読み込んでいた。書類とは2057年12月に発行されたラッキービーストの仕様変更を知らせる印刷用紙10枚程度の小冊子である。病院の屋上で見たラッキービーストの挙動を不思議に思った博士が、昨日午後に図書館地下の閉架書棚から探し出した物だ。この書類の内容は博士を大いに納得させるものだった。
“録音録画機能追加のお知らせ。フレンズの生活環境の調査やパーク内の治安維持の目的で、ラッキービーストにビデオ撮影システムを12月1日より本格的に実装されました。ラッキービーストのAIの決定判断や、スタッフやゲストの依頼が入力されることで、ビデオ撮影が開始されます。撮影したビデオには位置情報が付記され、自動でエリア本部クラウドにアップロードされます。またその場でビデオを鑑賞することも可能です。その都度AIに指示を入力してください。なおプラットフォームは英語のみの対応となっております。”
「あのラッキービーストが見せたビデオの再生はこのシステムが作動したことが原因のようなのです。なるほど。それにしても結構いろいろな機能が追加されているようですね。ラッキービーストもまだまだ発展途上だったということなのでしょう。中でも一番興味深いのは最後のページ・・・」
博士は小さく独り言を言うと冊子の最終ページを開いた。最終ページには”今後実装予定のシステム”という見出しがあり、その中段ほどに例の救急システムの記載があったのだ。サーバルが倒れた時にラッキービーストを鳴動させたあのシステムである。
”ゲスト・フレンズ救急搬送システム。運営部とキョウシュウエリア第2病院が主導で開発。救急対応の必要があるフレンズを感知し、病院や診療所の医師に通報する。加えて搬送のサポートも行うシステム。本年3月1日から7月末日までキョウシュウエリア西部で試験運用終了。一定の成果を確認。今後他のエリアでも試験運用を行い、2060年までに全エリアで稼働させることを目指す。”
そして冊子の末尾にはこのような署名がなされていた。
”2057年11月31日 発行責任者 キョウシュウエリア運営統括部長 ミライ”
博士は書類を持ったままソファーに横に寝転がり、ウーンと唸って背筋を伸ばした。
「ともかくシステムの正体はわかった、それは良いのです。ですが、腑に落ちない点がいくつかあるのです。試験運用の後は救急システムが停止していたのに、どうしてそれが今になって再び動き始めたのでしょうか。あるいは、救急システムが2060年に稼働していたのだとしたら、なぜサーバルの時までシステムが作動しなかったのでしょうか。少なくとも助手はサーバルよりも前に食中毒で命の危機に瀕していたではないですか、なぜあの時システムは動いてくれなかったのでしょう?」
いくらフクロウだからといっても流石に眠気が強まってきた。博士は書類をライトの側に置いて博士は気怠げに寝返りを打った。そして天井に向かって一息ついたその時、脳を前後に強く揺らされた強烈な頭痛が、突如として博士に降りかかった。思わず博士はギョッと目を開き口元を押さえた。視界がグラグラ揺れて、視点が定まらない。冷や汗が噴き出て震えが止まらない。身体中から熱が引いて冷たくなっていくような気がした。
「うっ・・・!ううっ!」
たまらず博士は体を起こしてソファーに座り直し、苦しそうに後頭部を抱え、どうにか気分を落ち着けようとすーはーとゆっくり息をした。真下を向いた顔面からは涙や唾がポトリポトリと床に垂れ落ちていた。しばらく頭痛に耐えるように背を丸めてしばらくじっとしていると、あれだけ酷かった頭痛は嘘のように消え失せてしまい、気分もすっかり戻った。
「はあ、はあ。一体なんなのです。疲れ過ぎなのですかね? 私。」
肩で息をしながら博士はまたソファーに背を預け、体を埋めた。口の中から少し酸っぱい臭いがしたので水差しの水を一杯飲んだ。頭痛との格闘で疲れ切った博士には、再び書類に向かおうなどという気持ちなど微塵も起こらなかった。博士はライトを消すと、ソファーに座ったまま寝入ってしまった。
「博士、いいかげんそろそろ起きて欲しいのです。」
助手の声で博士は叩き起こされた。目を開けると眼前には嫌味な顔をした助手が覗き込んでいた。
「またソファーで寝たのですか。ちゃんとベッドで寝たほうが体は休まるのです。」
「そんなことは分かっているのです、ああ眠たい。」
「だから起きろといっているのです。テーブルの上も片付けて・・・客が来ているのですよ。」
寝ぼけ眼をこすっている博士に助手はピシャリと告げ、それから博士の前に客を連れて来た。その客を見て博士はちょっと驚いてソファーに座り直し、寝癖のついた後ろ髪を撫でつけて強引に直した。
「おはようございます、博士。サキさんからの伝言を持って来ました。」
「おや、ヒイラギではないですか。お前が来るとは珍しいのですね、とりあえず掛けると良いのです。」
ヒイラギはソファーの向かいの丸椅子に座り、肩にかけた小さなトートバックをから一枚の紙切れを取り出して読み上げた。
「“明日昼、入院中のフェネックさんの手術をする予定です。私、サキとヒイラギが手術に取り掛かっている間、サーバルさんの見守りをお願いできないでしょうか。”
ちょっと人手がいる手術で僕も手伝わないといけないんです。手術の間に万一サーバルさんに何かが起きた時、周囲に誰もいられないっていう状況はちょっとまずくて・・・お願いできないかな?」
「なるほど、そのくらいなら手伝ってやれそうなのです。何かあったらお前かサキを呼びにいけば良いのでしょう。」
「ありがとう博士!」
「ふむ、お前も手術に加わるのですね。なかなか器用なのです。我々にはできないのです。」
博士が褒めたのでヒイラギは照れて少し顔を赤くした。
「あはは、ありがとう。でも細かくて複雑なことは全然できないんだよ。サキさんには全然及ばない。だから僕はできる範囲でお手伝い。麻酔の維持とか機械の操作とか。」
「それも立派な事なのですよ。お前の助けがあるからこそ、サキは手術に集中できるのです。得意な事なんて人それぞれなのですから、お前はお前の得意な事でサキとフェネックを助けてあげるのです。」
「うん、頑張るね。ありがとう! あ、そうだ。あとこれを博士に渡してって。」
そう言ってヒイラギはトートバッグの中から、手書きの文章が書かれたノートの切れ端を数枚引き出して手前のテーブルに重ねて置いた。
「英語まじり・・・これはサキが書いたメモでしょう?」
「うん。僕はアルファベット苦手だもん。」
「ではちょっと読ませてもらうのです。どれどれ・・・
昨日博士から頂いた、瓶の中の結晶について。
顕微鏡でミクロ像を確認したところ、結石のような物質であることがわかりました。結石自体は体内で形成されうる物体ですが、通常髄腔から見つかるものではありません。それに結晶の構造が水晶やガラスのようであり、普通の結石の構造とは全く違います。
そこで岬医師のFCCSについての論文を改めて読み直しますと、この結晶はどうやらフレンズだけが持つサンドスターの代謝機構が異常を起こすことで発生するという記述がありました。そう考えると、ヒトではみられない構造の結石が髄液から見つかった理由が納得できます。
また・・・小瓶の結晶と同じような構造の結石がフェネックさんの脳脊髄液から見つかりました。正確な検査は病院にある”L”という私が知らない部屋の機械を使って行わねばなりませんが、小瓶の結晶がFCCSの病変組織であるのならフェネックさんもFCCSを発症していると私は予想しています。
なるほど・・・。ヒイラギは今読み上げたメモの内容を理解できましたか。」
「フェネックさんの結石については僕もサキさんから今朝聞いたけれど、論文うんぬんのところは教えてもらってないから解らなかった。」
ヒイラギは首を振った。助手の方に目をみやると、助手もさっぱりと言った様子で肩をすくめた。そこで博士はテーブルの上に積み重ねられていた本の山から生物学の分厚い本を引き出し、二人の前でとあるページを開いた。
「いいですか、フレンズの体はヒトと同じ構造なのです。けれどヒトには無い機能がフレンズには備わっています。それがサンドスターの代謝システムです。生き物は酸素や水、エネルギーを摂って命を維持しますが、フレンズはそれらに加えて”ヒトのような”姿を維持するためにサンドスターという物質を摂取しているのです。」
博士はページの図を指差した。その図にはヒトの受精卵が赤ちゃんとして産まれて来るまでの過程が描かれていた。
「我々フレンズの成り立ちに関わることなのです。小難しい話になるので、聞きたければ聞くと良いのです。
フレンズが生まれるきっかけは、火山から噴出するサンドスターの塊が動物の細胞組織に接触することです。サンドスターと動物の細胞が混ざり合い、動物の細胞組織は一つの未分化な受精卵まで逆戻りします。要するに、一旦生命のすごろくの振り出しまで戻るのです。この時受精卵の中にある遺伝子では、”ヒトのメスのゲノム情報”に”元となる動物のゲノム情報”が上乗せされた、”フレンズのゲノム情報”へと変化します。受精卵は分裂を繰り返しながら、遺伝子に書き込まれたゲノム情報をもとに、皮膚や臓器や筋肉などあらゆる体の組織を作っていきます。この積み重ねでフレンズの体が出来上がるのです。」
「えーと・・・つまりは、フレンズという生き物は、動物の遺伝子とヒトの遺伝子が混ざりあって生まれるということなの?」
ヒイラギが聞くと博士はそういうことだと答えた。それを聞いて助手は何か納得できないといった様子で首を傾げた。
「それだと、フレンズの細胞には”ヒト由来の遺伝子”+”動物由来の遺伝子”の2種類の遺伝子しか含まれていないのです。サンドスターに関わる遺伝子はどこから来るのですか。」
すると博士はごもっともと肯定して、ソファーに体をもたれた。
「そこがサンドスターというエネルギーの不思議な力と言われており、今も謎なのです。サンドスター自体に何らかの遺伝情報をコードしたDNAが含まれているという説が有力とされていますがね。さて、サンドスターは驚くべきことに我々動物の特色を残しながらヒトの体に再設計し、作り変えてくれるわけです。この結果私や助手の頭には飛べる翼が残りましたし、イエイヌのヒイラギには尻尾や耳が生え、鼻はより利くようになりました。これらの形態は人の体には本来無いものなので、サンドスターの力によって形成されるのです。つまりサンドスターは我々を特徴付ける翼や尻尾などの器官を付け足してくれます。
ですが!その一方でサンドスターは”足りないもの”を補うためにも使われています。
”足りないもの”、それは中枢神経。つまり脳と脊髄です。ヒトの中枢神経は動物の中で最も高いレベルで発達しています。我々はフレンズになった途端に、動物だった時のものとは全く次元の違う器官を与えられてしまうわけですよ・・・扱えると思いますか? 例えるなら、何も知らない素人に、いきなり一人でジャンボジェットを操縦させるようなものです。」
「飛行機・・・あっという間に墜落するでしょうね。」
「そうでしょう。動物の小さな脳しか扱ってこなかった我々では、ヒトの大きな脳など本来は使いこなせない。でも実際は違いますね。我々は言語を話し、二足歩行をし、顔の表情で喜怒哀楽を表現できる。簡単な道具であれば扱えるし、文字を読み書きも訓練次第。ヒトとそれほど大差ないレベルにまで脳を使えているのですよ。そういう高度な動作を可能にしているのがサンドスターだと言われているのです。フレンズが摂取したサンドスターの一部は毛皮や尻尾、翼などの器官の維持にも使われますが、実はその何十倍ものサンドスターを脳や脊髄に注ぎ込んで、ようやくヒトに近い次元の機能を使うことを可能にしているのです。
脳にどれだけエネルギーであるサンドスターを注ぎ込んでいるかは動物によって様々です。ゴリラやオランウータンなどの霊長類のフレンズはもともとヒトに近い脳を持つ動物ですので、脳を動かすのにサンドスターをそれほど必要としないと言われています。一方でヘビ等爬虫類や鳥類などは、ヒトからは比較的遠い進化系統に位置するのでサンドスターの消費量が多いみたいなのです。
しかし、どんなフレンズにせよ中枢神経に莫大な量のサンドスターを割いているのは確かです。言い換えれば、中枢神経はそれだけサンドスターの代謝が活発だということ。代謝が活発ということはそれだけ消耗するし、ボロや故障も出やすいのです。おそらくサキはそういうことを言っているのでは無いでしょうか。」
「なんでそんなこと知っているのですか。」
「私も岬医師の論文はざっと読みましたが、助手と同じで解らないことがいっぱいありました。特に背景知識についてはほとんど知らなかったので、そういうのを昨日の夜調べていたのですよ。」
「ははあ。デスクの本の山はそういうわけだったのですね。」
助手は少し感心して嘆息をついた。ヒイラギもあまり知らなかった内容のようで博士の話を熱心に書き取っていた。
「ところでヒイラギ、今サキは何をしているのですか。」
ヒイラギは壁際の柱時計をチラッと見た。
「多分今頃はフェネックさんのMRIをやっているんじゃないかな。多分昨晩はほとんど寝てないだろうから心配だなあ。」
「あまり人のこと言える立場ではないですが、サキにはちゃんと休息をとって欲しいのです。ミスの許されない仕事なのですから。ヒイラギも早く帰ってサキを手伝ってあげるのですよ。明日の手伝いの件は承ったのです。」
「うんわかった。じゃあ僕帰るね。明日はよろしくね。」
ヒイラギは一礼して図書館を飛び出していった。博士はヒイラギの足音が聞こえなくなると水差しの水を飲んで、ソファーの上で体を丸めてしばし考え事をした。それから独り言のような小さい声でボソッと呟いた。
「・・・先天性の異常・・・」
「博士、何か言いました?」
「いいえ。何も。ところで助手。」
「なんでしょう。」
「あの病院についてどう思いますか。」
「どうとは?」
唐突な問いに助手は怪訝な顔をした。博士は床の絨毯の一点に目を向けながら続けて聞いた。
「岬医師がいたあの病院ではFCCSの治療研究が行われていたようですが、あそこにそんな研究ができるような研究室ってありましたっけ?」
「えっ?どうでしょう・・・確かにあれより大きな建物はパークにはいくつもあるのです。でもそういう研究って実は意外と省スペースで行えるのではないですか?」
「ふむ、そうですか。」
博士は素っ気なく答えると、また深い思考の世界へと潜っていった。
昼前になってヒイラギが図書館から帰ってきた。その時サキは地下一階の一番端の部屋、B1-16核医学検査室でフェネックの検査をしていた。
「ただいま、サキさん。博士引き受けてくれるって。」
「そう、助かるわ。明日は大変だからね。」
サキは軽く返事をすると、また検査機械のコントロールパネルをいじって、放射線の照射角度を調整した。
「MRIの部屋にいなかったから何処にいたのかと思ったよ。あの機械、僕初めてみるな。」
「MRIはもう撮り終わったわ。そこに印刷した画像が置いてあるわよ。今フェネックさんにはSPECT検査を受けてもらっているわ。」
「SPECT?」
「ざっくりいうとフェネックさんにラジオアイソトープを注射して、それの体内での集積の仕方をガンマカメラで撮影して見るのよ。CTやMRIが体内にあるものの形を見るものなら、SPECTは体にあるものの機能・性質をビジュアル化するものなの。」
「ほえー、こんな機械が病院にはあったんだね。」
「私も使ったのは初めて。CTやMRIのようなメジャーな機械ならともかく、まさかこんな特殊な機械がここにあるとはね、ありがたいわ。さすがにPETは無いみたいだけど。」
サキがパネルのボタンを押すと、台の上に仰向けになったフェネックの周りを、2基のガンマカメラがぐるぐると回り始めた。
「でも、脳動脈瘤の検査でSPECT検査は普通やるものなの?」
「脳動脈瘤だけだったらやらないわ。もう一個の可能性を調べるためよ。」
「・・・FCCS?」
そっとヒイラギが聞いてきたのでサキは黙ったままこくりと頷いた。
「ユウさんの論文の一つにFCCSの診断方法の例が載っていてね、その中にFCCSに対するSPECT検査の手順が書いてあったの。FCCSをあぶり出すための試薬一式も偶然薬品庫にあったから試してみようと思って。」
「すっごい偶然だね。」
「ええ。ユウさんが残して置いてくれたのかしら。」
それから10分ほど経ってSPECT検査は終わり、コントローリパネル横のディスプレイに検査結果のシンチグラフィが表示された。
「論文によれば、もし腰髄に異常に濃い結節影が明らかに認められたらFCCSを起こす危険がある。特に所見が無ければ問題なし、或いは初期のFCCSであり積極的な加療は不要。さてフェネックさんはどうだろう・・・」
シンチグラフィのモノクロ画像に集中し、何かおかしな点はないか何度も見返した。しかし特にこれといった所見はなく、腰髄も正常像を呈していた。
「これは大丈夫ってことなのかしら。ヒイラギ、ちょっと腰の矢状断MRIも見せて。」
ヒイラギは机に置かれた紙の束からフェネックの腰部の画像を引き抜いてサキに見せた。
「うーん、これでも特に結石とか、腰部の結節は見当たらないわね。至って正常。」
MRIでも引っかかるような所見は得られず、フェネックは現時点ではFCCSの発症リスクは低いとサキは判断した。
「FCCSの恐ろしい点は、突然の脳圧上昇による意識障害と脳ヘルニア。今のフェネックさんが発症する確率はとても低いけど、明日の手術では念のため意識障害に備えましょう。気管挿管と脳室穿刺・ドレナージはいつでもできるような心づもりで。」
「うん、それじゃあ準備しておくね。」
「ありがとう、助かるわ。私はフェネックさんをベッドから下ろして、検査結果の説明とかをしてくるよ。」
そう言って部屋を出ようとするサキをヒイラギが呼び止めて、小さな声で尋ねた。
「フェネックさんにFCCSの告知はするの?」
サキは開けかけた扉をまた閉じて、しばし思慮した。
「・・・少なくともフェネックさんは重篤な症候をきたしうる進行したFCCSでないことはMRIとSPECTでわかっているから、私たちがFCCSに気をつけてさえいればそれで良いと思う。むしろFCCSなんていう聞いたこともないような病名を告知したら、フェネックさんはかえって心配になってしまうわ。病名は出さず、あくまで”脳圧上昇”という手術の合併症の一つとしてインフォームドコンセントをするよ。」
「わかった。僕も病名は出さないようにするよ。念のため術後に脳波も録る?」
「いいアイデアね。脳波を見れば脳圧もおおよその見当がつくし、そうしましょう。」
インフォームドコンセントの正誤はケースバイケースであり、どの情報をどのように患者に伝えるかの判断は結局医師個人の責任になる。今ヒイラギに説明した自分の考えが結果的に正解かどうかなんてサキには解らなかった。ただ、自分の意見、それを裏付ける科学的根拠、そして患者が自分に寄せてくれる信頼にすがるのみ。つくづくこの仕事は理屈と責任と信頼でなりたっているのだなとサキは改めて感じた。
翌日、フェネックのカテーテル術の実施日がやってきた。昨晩はサキもさすがにある程度睡眠はとって英気を養ったので、昨日よりも頭はすっきりしていた。朝一番にサーバルの透析を済ませてからフェネックの病室にいくと、意外にもフェネックは落ち着き払った様子で、いつものように穏やかな微笑を浮かべていた。むしろ付き添いのアライグマの方が緊張でどこか落ち着きが無かった。
「あ、先生。今日はフェネックをよろしく頼むのだ。このアライさんも外で応援してやるのだ。これならきっと大丈夫なのだ。」
アライグマは強引にサキの手を取ってもう一度、よろしくと言った。
「ええ、ありがとうございます。心強いです。さて・・・フェネックさん、ご気分はいかがですか。」
「いつも通りかな。なんだろう、もうすこし緊張するのかなって思っていたけど意外に平常心みたい。」
「それはいいことです。患者さんの気持ちが落ち着いていると、こっちも安心して手術に臨めますから。バイタルは・・・安定していますね。それでは少し診察をしますね。まずは目を診るので失礼します。」
サキが神経の診察をしている最中に病室のドアが開いて、博士と助手が入ってきた。
「おはようなのです。言われたとおり来てやったのです。」
「ついでに差し入れも持ってきたのです。せっかくなので、あとでみんなで食べるのです。」
助手は持っていた段ボール箱を部屋の隅に置いて、空いていたベッドの上に腰掛けた。博士もその隣に座る。
「ありがとうございます、助かります。もう少ししたらカテーテル室に移動しますので、手術している間サーバルさんの側にいてあげてください。」
サキがそう言うと、サーバルは握っていたペンを置いて博士たちに手を振った。博士はにこりとしてサーバルのベッドサイドに歩み寄り、再度テーブルに散らかった紙の山をちょっと見た。
「ほう。やっていますね。」
「うん。まだ全然まとまらないけどね。」
「せっかく我々がここにいるのです。相談くらいならのってやるのですよ。」
「うん。博士も助手もありがとう。」
博士と助手がいれば大丈夫だろうとサキは安心し、いよいよフェネックの手術に踏み出すことにした。
地下1階のカテーテル室は廊下側の壁が鉛ガラスでできており、中が見えるようになっている。カテーテル室の前に来ると、ヒイラギが機材薬品一式を準備しているのが透けて見えた。付き添いのアライグマはカテーテル室の前のソファーで待つように指示を出し、サキはフェネックの車椅子を押してカテーテル室へと入っていった。
「フェネック!心配することはないのだ、アライさんがついているのだ!」
後ろからアライグマの声援が飛んでくる。フェネックは大袈裟だなぁと苦笑いしながらアライグマに手を振った。
カテーテル室の中央にはIVR−CTという巨大な機械が鎮座しており、天井からも白い機械のアームが吊り下げられていた。
「うわあ、すごく大きな機械だねぇ。でも何か変な形をしてるね。」
フェネックは目の前の白い大きなドーナツにベッドが取り付けられたような機械を見上げて驚いた。
「この機械はリアルタイムに血管を映し出してくれる、すごい道具なんですよ。」
サキが軽く説明するとフェネックはへぇとまた驚いた。
「それではフェネックさん、このベッドの上に仰向けに寝てください。機械がうるさいかもしれないので耳栓をつけてください。」
指示通りフェネックは耳栓をつけてベッドに横になった。サキはまずフェネックの心電図を検査し正常であることを確認した。それからフェネックの体に青いシートをかけ、自分も手袋、マスク、帽子、それから放射線防護用のガウンをつけた。ヒイラギにも同じ用意をするよう指示をしてから、フェネックの右鼠径部に局所麻酔をかけた。
「フェネックさん、聞こえていますか。予定通りこの手術は意識を保ったまま行います。もし途中で何かおかしいと思ったこと、例えば頭が痛い、息苦しい、気持ち悪いとかあれば遠慮なく言ってくださいね。」
サキの言葉にフェネックは小さく頷くことで返事をした。
「よし。ヒイラギ、ヘパリン1万単位を希釈して30滴毎分で静脈ルート投与。」
「はい。接続したよ。」
「了解。それでは始めますよ。抗凝固剤入れているからヒイラギは特に血圧に注意していて。」
ヒイラギがこくりと頷いた。サキも一回深呼吸をした。
まずはカテーテルに右鼠径部の大腿動脈にカテーテルを入れるための穴を作る。皮膚をヨードで消毒した後、メスで5mm皮膚切開する。そこにシースと呼ばれるカテーテルを操作するための管を挿入した。
「さて、ここからだ。レントゲン透視オン、造影剤入れて血管みるわよ。」
ヒイラギがレントゲン装置を起動させると、サキの真正面の壁にかかっているモニターにフェネックの腹部から大腿にかけての血管が黒く映った透視映像が映し出された。さっき入れたシースの先端は今下行大動脈と大腿動脈の分岐部にいた。サキはシースを頭の方へ伸ばし、大動脈弓部まで進めた。ここでサキはレントゲン映像を注視しながら、手元のコントローラーを操作し、血管内壁を傷つけないよう慎重にシースを左総頸動脈に通した。この精密な作業に思わず額には汗が滲んだ。
そこから内頸動脈を通って、脳の真下の前交通動脈にようやくシースの先端を到達させることに成功した。サキはフェネックのバイタルをチェックした。血圧、心拍、呼吸数すべて大きな変動はない。
「それでは脳の血管に造影剤を入れます。ちょっと違和感が走りますが、一時的なものですから安心してください。」
フェネックが小さく頷いたのを確認して、サキは脳血管内に造影剤を投与し、レントゲンで脳血管の状況を確認した。
「うっ・・・」
一瞬フェネックが声を上げて顔をしかめた。
「大丈夫ですか?」
「・・・うん。なんか、体が火照る感じ。」
「ここまでは順調です。頑張りましょう。CTを頭にセット。」
「セットできました。」
「じゃあ撮りましょう。」
ヒイラギが開始のボタンを押すとCTがグオーンと唸るような低い音を立てて作動し、撮影が済んだと同時にその音もやんだ。ほどなくして別のモニターに3DCTの立体の血管像が表示された。
「もうちょっと拡大して、アングルは上から・・・」
ヒイラギに頼んであれこれ血管の3D画像を動かし、目的の動脈瘤の位置や大きさを確認した。しかし動脈瘤の形状はサキが予想したものとは少し異なり、根元のくびれがあまり無い寸胴鍋のような形になっていた。
「ふむ・・・この形状ではただコイルを球状に詰めるだけじゃ動脈瘤からはみ出るかもしれないわね。コイルがはみ出させば血流が乱れて血栓症が起きかねない。どうするか・・・」
サキが解決策を思案している時、ヒイラギは何か閃いたように部屋の隅のトレイからバルーンカテーテルを取り出してサキに渡した。
「用意しておいたんだ。もしかしたらと思って、これ使えないかな。」
バルーンカテーテルは血管の中で膨らませる風船で、この風船を足場にして動脈瘤にコイルを詰めれば、血管にはみ出すことなく瘤の中にコイルを詰めることができる。まさに最高の解決策であった。サキはこのヒイラギのファインプレーをとても嬉しく思い、目を細めてヒイラギを褒めた。
「そうか、バルーン使えばいいのか。これは本当に助かるわ。よく気が利いたわね、ありがとうヒイラギ。」
ヒイラギは頬と耳を赤くし、照れ隠しにえへへと笑った。
「それじゃあ動脈瘤をコイルで完全に塞ぐわよ。」
「はい!」
サキはシースの中にプラチナ製のコイルを内蔵したマイクロカテーテルを入れ、シースの中を通して前交通動脈瘤のところまで到達させた。コイルの射出する角度をしっかりと合わせ、サキは手元のコントローラーのボタンを押した。するとカテーテルの先端から細いコイルが動脈瘤の中に伸びだし、くるくると巻きながら瘤の中の空間を埋めていった。6割ほど瘤の中がコイルで埋まったところで、サキはシースにバルーンカテーテルを入れた。そして動脈瘤の根元のところでバルーンを膨らませると、バルーンが血管壁にぴったりと密着した。それからサキは残りのコイルを瘤の中に詰めて、完全に動脈瘤をコイルで埋めた。
「よし、ここまで詰めれば動脈瘤が破裂することはない。ヒイラギ、ヘパリンの滴下を少し絞って。」
動脈瘤をコイルの玉が隙間なくぴったりと塞いでいることを確認し、サキはバルーンを萎ませて、マイクロカテーテルと一緒に体外へと取り出した。サキはふうと息を吐いて、フェネックに呼び掛けた。
「フェネックさん、手術は8割がた終わりました。もう直ぐ終わりますよ。」
フェネックはまた同じように小さく頷いた。けれどその口元は安堵からか少しだけ緩んでいた。
サキは最後まで気を抜くなと自分に強く言い聞かせ、丁寧にシースを体外へ取り出した。シースを大腿動脈から抜き取ると同時に、穴から血液が吹き出てきた。慌てることなくヒイラギに圧迫止血を指示し、血が止まったらテープで皮膚を閉じて清潔なガーゼと包帯で傷を覆った。
「・・・おしまい?」
サキとヒイラギの安堵の雰囲気を感じたのか、フェネックが穏やかな声色で尋ねた。
「うん、終わったよ。まだ足の傷は塞がってないから、今日の間は足を動かさないでね。」
ヒイラギがそう答えると、フェネックは大きく息を吐いてにっこり笑った。
「ありがとうね、二人とも。」
「どういたしまして。」
サキはフェネックに微笑み返し、ガウンや帽子を取って何気なく廊下に面したガラスの壁の方を見た。すると廊下には窓ガラスに顔をぴったりとくっつけて部屋を覗くアライグマの他に、サーバルと博士の姿があった。いったいどうしてここにいるのだろう、いつここに来たのだろうとサキは不思議に思った。
片付けを済ませてカテーテル室を出たサキは真っ先にアライグマに捕まえられた。
「せ、先生。無事におわったのだな。何事もなく・・・」
「ええ。特にアクシデントなく終わりましたよ。このあと2日ほど様子を見て問題なければ退院になります。」
「そっか・・・よかったのだ。本当によかったのだ。めちゃくちゃお祈りした甲斐があったのだ。」
アライグマは涙まじりにそう言ってへなへなとその場に座り込んだ。今度はソファーに座っていた博士が立ち上がってサキに声をかける。
「サキ、手術お疲れ様なのです。私にはお前が何をやっているかはさっぱりわかりませんでしたが、多分相当すごいことをやっていたのでしょう。」
「いえ・・・まあ結構勉強したんです。練習もしました。」
サキは照れて髪をかき上げた。
「ところで、博士たちはどうしてここに。というかどうやってここに来たんですか。病棟の階段からじゃここには来られませんよ?」
「なあに、助手がお前の世話になった時私はしばらくこの病院に出入りしていたのですからある程度間取りは覚えていたのです。あとは蔵書庫から病院の施設図を拝借して・・・医療スタッフ専用の階段もしくはエレベーターを使えば地下一階に出られるようだったのです。」
博士はずる賢くにやりと笑い、さらに続けた。
「ここに来たいと言い出したのは我々でなくサーバルなのですよ。」
「え、サーバルさんがですか?」
サキは驚いて壁際にいたサーバルを見た。するとサーバルは少し恥ずかしそうに目を逸らしながら答えた。
「フェネックを応援したいなって思ったのが半分。それからね、サキとヒイラギが一生懸命頑張っているところを一度見てみていなって思ったのが、もう半分。」
「私たちが頑張っているところ?」
「うん・・・昔一度だけユウさんが手術しているところを見たことがあるの。その時は他人事のように、なんとなく“お医者さんってかっこいいんだな”って思った。でも今私がサキのお世話になって、お医者さんという存在と、その仕事のすごさを、前よりもずっと近くで感じられるようになった。それで今日のサキの手術を見て思ったよ。めちゃくちゃかっこよかった。すごかった。なんというか、うまく言葉にはできないけれど。でもこれだけははっきり言える。
誰かの命を救うことでまた別の誰かに幸せを与えられる。こんなことは他のどんなフレンズにだってできないよ。だからすっごいなって、そう思った!」
サーバルはいつになく語気が早く、雰囲気もどこかいつもと違うように感じた。いつの間にか博士はサキの後ろにいて、手のひらで軽く手術着姿のサキの背を叩いた。
「とにかくお疲れ様なのです。早いとこ病室に行くのです。助手の差し入れが待っているのでみんなで飲むのです。」
「ありがとうございます。あれ、そういえば助手はどこに?」
「さあ?蔵書庫にでも行っているのではないでしょうか。」
博士は知らぬと答えて急かすようにサキの背中を押したので、サキは慌てて博士を制止した。
「ま、まだフェネックさんがカテーテル室にいるんです。フェネックさんを出してあげないと。」
「む、そうですね。早くするのです。」
サキはカテーテル室へととんぼ返りしてフェネックへの術後投与や循環器系のチェック、そして脳波の検査のあれこれを行った。
「結局FCCSはでなかったね。」
正常な覚醒状態の脳波形を見ながらヒイラギがサキに問いかけた。術前はあれこれ心配して手は打ったが杞憂に終わったのだった。
「出ないことに越したことはないのよ。ごく初期か、実は発症していなかったってことでしょう。」
サキはそう答えたが、内心不安は拭えなかった。フェネックはあくまで進行したFCCSでないことがわかっただけである。もしかしたらFCCSはフェネックの脊髄の中に潜んでいて、長い時間を経て大きく進行してくるかもしれない。そうなった時、果たして私に治療ができるのだろうか。そんなことを考えていたからである。
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