カルテ6−5 嬉しいも楽しいも二つ分

サーバルの言葉がしばらく頭から離れなかった。そのせいで明け方に差し掛かった今でさえサキは全く眠れなかった。たった1人医員質の窓際のソファーに転がって、だんだんと強くなっていく雨の音を聞いていた。


「結局、大事なことには何も答えられなかったな。」


あの問いに対し、サキは当たり障りのない言葉しか言うことができなかった。「そんなことはありませんよ」とか「もしもっと辛くなったら私やヒイラギに相談してください」とか、こんな言葉などなんの助けにもならないと自分でも思ったがそれ以外になんと言えば良いのかわからなかった。

一体なぜサーバルさんはどういう心境であんな悟ったことを言ったのか、何度も想いを馳せて考えてみたが納得できる答えにはたどり着かず、それが悔しいのもあってサキは寝付けなかったのだ。


(こんな問い、正解なんてあるのだろうか。いや、患者の数だけ正答があるのかも。)


いくら患者と医者の関係が重要だとはいえ、究極的には医者と患者は別の個体でしかなく、それぞれの人格や幸福観、言動の根底に潜む心の深淵・闇を知る術など存在しない。サキとサーバルの間に残された最後の一枚の絶対的な壁はどうやっても乗り越えられないものだった。もし他人の心を読むことができたならどんなに楽かとサキは頭を抱えた。


「幸せ・・・ねぇ。フレンズにとっての幸せってなんだろう。生きること、食べること、眠ること、動物の原始的な本能に沿えばこうなるけど。」


サキはまた姿勢を変え、今度はソファーに座り直し頬杖をついた。


「フレンズはヒトの脳、理性ロゴスを獲得しているとはいえ根本的には元の種のままだから情動パトスは動物と同じ。だからあくまで動物としての本能がフレンズの幸せになる。食欲を満たすこと、休息をとること、そして何が何でも生き残ること・種を繁栄させること、つまり生存本能が絶対的な幸せとなる。現在の状態に執着を持つ一方で自身の未来についてはあまり深くは考えない傾向があるとの報告も存在する。」


ふと思い出してフレンズ医学の教科書の第1ページに書いてあったことを暗唱してみた。


「それが故にフレンズはヒトと比べてにこだわる傾向があり、根治治療と緩和治療の二者であれば根治を望む。また「今、生きていること」自体が生存の理由となるため、その理由を自ら捨てる行為である自殺はこれまでフレンズでは1例も報告されていない。」


教科書の内容が事実だとすれば、昨晩のサーバルの発言はどういうことなのだろうかとサキの頭に疑問が浮かんだ。「治る見込みのない私は何に幸せを感じれば良いのか」という問いは“現在の生存自体”が生きる理由であり幸せであるフレンズからは通常産まれないものなのだ。

一体なぜサーバルはこのような疑問を抱いたのか、今のサキにそれを知る方法はなかった。考え続けて少し疲れたサキは立ち上がって自分のデスクに置いてあったマグカップを手に取り、すっかり冷えてしまった緑茶をぐいと飲み干した。ふと窓の外を見ると空は一面黒い鈍色で、林の木々が風に煽られて大きくしなり曲がっているのが見えた。サーバルの言った通り、本当に雨がやってきた。朝を迎えても一向に明るくならない部屋の中、サキはコトリと音を立てマグカップをデスクに置いた。


「幸せ、かぁ。そういえば私の幸せってなんだろうな。考えようとしたこと無かったな。」


風に吹かれ右から左へと飛んでいく枯葉を眺めて、サキはぽつりと言った。


「食べるのは好き。眠るのも好き。生きていることも、いろいろあったけれど、好き。でも、一生懸命考えて治療して、それで患者さんが元気になって「ありがとう」って言ってくれるのはもっと好き。スナネコさんの時とか、生きていて一番嬉しかった。幸せだった。」


サキはまたソファーに転がってふうと息を吐いた。そしてそのまま吸い込まれるように眠りに落ちていった。



数時間後、白衣のポケットの中で大音量で鳴るPHSの着信音にサキは叩き起こされて、寝不足で重たい頭をダラリと垂らして電話を取った。


「ん・・・おはようヒイラギ。どうしたの?」


するとヒイラギの嬉しそうな声が聞こえてきた。


「フェネックさんが発話可能な状態にまで回復したよ。おかげで病室がやかましくてかなわないや。早く来て!」


確かにヒイラギの声の後ろにはアライグマとサーバルのはしゃぐ声がガヤガヤと入り込んでいた。


「わかった、すぐ行くね。」


サキは電話を切って大急ぎで病室に行くと、病室の中がかつてないほど話し声で賑やかなのが部屋の外からでもよくわかった。病室に歩み入ると真っ先に気づいたのはアライグマだった。アライグマは車椅子から立ち上がってサキの手を強引に取って強く握った。


「先生・・・!この度は、本当に・・・なんていったらいいかわからないけど、本当にありがとうなのだ!」


アライグマは感極まってその場で涙ぐんだ。その様子をヒイラギ、サーバル、そしてフェネックが微笑んで見守っていた。フェネックに目を向けると、フェネックは少しキョトンとしてから、

「あなたがサキさん?」

と尋ねた。


サキがそうだと答えると、フェネックは穏やかに笑ってぺこりと会釈した。


「はじめまして。私が危ないところを助けてくれたんだね、アライさんから大体聞いたよー、ありがとう。それにアライさんの足の怪我も治してくれたみたいで、本当に感謝が尽きないよ。」

「いえいえ、どういたしまして。それでフェネックさん、何か体に違和感などはありますか?喋りづらい、手足が動かしにくいとか。」

「そうだなー、右手の力が少しだけ入りにくいような気もするけど、そのくらいかな。普通に喋れているし。」

「わかりました。まだ油断できない状況ではありますから、診察と検査をしましょう。アライグマさんも痛みはだいぶ引いたようですが、昨日に検査ができていませんので同時に検査をします。」


サキがそういうとフェネックとアライグマはこくりと頷いた。



果たしてアライグマの怪我は右足首の捻挫とわかり、骨に特段の損傷は見当たらなかった。フレンズはヒトに比べて筋骨格系の再生スピードが早いため、比較的短時間で治癒すると考えられた。そのことをアライグマに伝えるととても大喜びしたが、隣に自分より重症のフェネックがいるのに気づいてすぐに喜びを引っ込めた。

フェネックの方もMRA画像検査の結果、閉塞していた血管は元どおり血流が再開しており、脳梗塞の症状は大部分が解消されていると考えられた。後遺症も右手の筋力の軽度低下以外には無さそうであった。念の為髄液を採取して髄腔内に血液が漏れていないかを検査したがそれも陰性であり、フェネックは命の危険から脱したとわかった。


そして新たに見つかった前交通動脈瘤の存在についてもフェネックに告知をした。予防的治療が必要だと伝えると、それに対して真っ先に疑問を投げかけたのはアライグマだった。


「手術が必要っていうのはどういうことなのだ。昨日の治療で綺麗さっぱり治ったんじゃないのか?」


顔を突き出して食い入るようにサキを見つめるアライグマに対し、サキは極力平易な言葉を選んで説明を加えた。


「昨日フェネックさんが意識を失う原因になった病気は治療ができました。けれどその治療を行うために頭を検査したら、全く別の病気が見つかったんです。そちらは今すぐに手術しなければいけないわけではありませんが、なるべく早いうちに手術をした方が良いのです。」

「うむむ、全然違う病気なのか。ならば仕方がないのだ。」


アライグマは腑に落ちたようで引き下がった、すると今度はフェネックの方から質問が投げかけられた。


「手術が必要なのはわかったよ。それで、いつやるの?」

「そうですね、少し様子を見て1週間か2週間後くらいで考えています。件の動脈瘤の破裂を予防する手術の方法は開頭クリッピング手術とカテーテル術がありますが、今回は体にダメージの少ないカテーテル術で治療します。」

「どういう治療なの?」

「太腿の血管からカテーテルという細い管を入れて、血管伝いに脳の血管まで管を伸ばし、問題の瘤の中に針金のボールを入れて破裂を防ぐんです。」

「そんなのがあるんだー。わかったよ。それで治るんだったら私、やるよ。」

フェネックははっきりとそう言い頷いたので、サキもそれに背中を押され「がんばろう」と心の中でそう思った。



ヒイラギにフェネックの血液や髄液のさらなる検査を任せ、サキは数日ぶりにサーバルの透析を受け持った。透析を始めるとすぐに、サーバルは透析用ベッドのサイドテーブルに乗せたままになっていた絵本を手に取り、手慣れた手つきでページをめくり、絵本の続きを読み始めた。しばらく透析ルームの中はページをめくる紙の音、サキが計算や記録のために走らせるペン先の音、そしてバラバラと窓を打ち付ける強い雨音だけが響いていた。しばらくして絵本を読み終えたサーバルは本を閉じてテーブルの絵本の山に重ねて置き、右手を上げて伸びをした。


「持ってきてもらった本、全部読み終わっちゃった。」


そういってサーバルは笑って言ったのでサキはペンを置いて笑い返した。


「だんだんと本を読むスピードが上がったみたいですね。文字にはもう大分慣れたんですか。」


そう聞くとサーバルは自慢げに胸を張ってみせた。


「うん!ひらがなとカタカナはもう大丈夫かな。“かんじ”は難しいからよくわからないけど、絵本には全然出てこないからね。」

「ひらがなとカタカナだけで十分ですよ。読めないフレンズは大勢いますから、2種類の文字が読めるのは十分な特技なんですよ。」

「やったあ!あ、でもね、文字を書くのはいまだに苦手だなぁ。読むのは文字の形を覚えれば私でもなんとかなるのはわかった。でも書くことはまた違うんだなって。サキはノートとかカルテにいつもスラスラ文字を書いているじゃない、あれはすごいことなんだなって思うの。」


眼前でサーバルが可愛く笑ったのでサキはなんだか照れくさくなりちょっと目をそらした。昨日のあの真剣に思い詰めたような表情が嘘のように、サーバルの雰囲気は和やかだった。


「書いた文字は時間が経っても消えない、これが文字を書くってことのスゴイところです。カルテは記録をつけるため、ノートは忘れちゃいけないことや新しく知ったことをまとめるために書くんです。私は今はこの仕事をしていますけど、最初は本当に何も知らなかった。だから6年かけて医者に必要な知識を勉強してはノートに書いて、見返していました。そのノートたちは今でも大切にとってあります。」

「そっか、じゃあこの絵本も昔誰かが書いてくれたから、今こうして私が読めているんだね。すごいや。」


サーバルはそう言って積んであった絵本の一冊を手に取って感心するように表紙を見つめた。しばらくしてサーバルは徐に懐からミライさんの写った例の写真を取り出し、どういうわけかその写真の印刷されていない白紙の裏側をじっと見はじめたので、サキは不思議に思った。


「どうしたんですか、写真の裏側に何か見つけたんですか?」

するとサーバルは神妙な顔つきで写真の裏側の端の方を指差して言った。そこにはパッと見ただけでは気づかないくらいの小さな丸文字が書いてあった。


「ここにね、ミライさんの小さい文字が入っているの。今の私なら読めるかなって思って。そしたらその文字が読めたんだ。」

「そこには、何が書いてあるんですか。」

「あの日の日付。


2058ねん5がつ30にち ゆうえんちにて サーバルと


サキは文字は時間が経っても残るって言っていたよね。写真も時間が経ってもそのまま残るんだよ。私の中のミライさんはこの時のまま、それに私もこの時のまま。それと全然変わらないまま今ここにいる。

なんだろう、自分の中の時計はやっぱりまだ止まったままな気がするの。サキやヒイラギと出会って一緒に過ごして、お話しする相手ができて少し気持ちは楽になった。アライグマやフェネック、ハシビロコウや助手と再会もできた。でも・・・」


「・・・・・・」


「ああ、ごめん!サキとヒイラギはとっても一生懸命私を助けてくれているのはわかっているし、それには感謝してもしきれないよ。」


慌ててサーバルは手を振った。


「でもね、あの頃にはあった“生き甲斐”が今は無いような気がするの。ただ自由に何も考えず生きているだけでいい、ミライさんに会うまではそう思っていたんだけどね、出会ってからそれが変わっていった。ミライさんと一緒にいると楽しい、もっとこの人と一緒にいたい、幸せな日々を今日も明日も。そう感じるようになってから、私はいつしか“ミライさんの側で日々を過ごす”ことが生き甲斐になっていたのかもしれない。

別れてからは元のように自由に生きることを思い出してみた。でも、ダメだった。忘れられなかった・・・絶対に忘れたくなかったんだよ・・・・・・一番大切な思い出だもの。」


サーバルは俯き肩を震わせた。両目からこぼれた涙が太腿の上の毛布を濡らすのが見えた。次第に肩の震えは大きくなり、ついには小さな声を漏らして泣き出した。

サキはただ静かにサーバルを見守っていた。その中で一つ、サーバルの内面を理解する上での答えのようなものがぼんやりとだがわかったような気がした。


それは、サーバルの精神構造はヒトにとても近くなっている、ということだ。


サーバルは動物のように「ただ生きる」ことを望んではおらず、ヒトのように「何かの目的を為すために生きる」ことを望んでいる。それを探して探して、それでも見つからなくて。ふとした時にフラッシュバックする大事な記憶が、今を生きようと足掻くサーバルの後ろ髪を引いているのだ。

そしてサキは、昨晩サーバルがいった「幸せ」の意図についても想いを巡らせた。自分なりの目標を成し遂げるために前進すること、これがヒトの幸せならば、生きる目標が見つからず苦しんでいる今のサーバルは「不幸せ」という事になる。

もしサーバルの病気が完全に治る病気であったなら、「病気を治す」という短期的で明確な生きる目標が立ったであろう。

けれど残念ながらサーバルの病気は治らない、その運命がサーバルの精神をさらに追い込んでしまっていたのだ。


(さあ、どうする。私)


両手で顔を覆いむせび泣くサーバルを前にサキは唇を一文字に結んだ。今こそ医師である自分の人間性の本質が試されているような気がした。



サキはサーバルにまっすぐに向き直り、顔を覆うサーバルの手の上にそっと手をかざし、触れた。それにサーバルは気づきゆっくりと顔を上げ少し充血した目を見せる。サーバルと目が合ったところで、サキは落ち着いた声でゆっくりと語りかけた。


「サーバルさん、辛い時は泣いてもいいんです。今はきっと辛いのでしょう、だからいっぱい泣いていいんです。それで泣き疲れたら眠って、眠ってすっきりしたら探しに行きましょう。サーバルさんの新たな生きがいを。」


サーバルは黙ったままサキをじっと見ていた。サキも目をそらすことなく語り続ける。


「生きがいはすぐに見つかるとは限りません。何かの拍子で明日見つかるかもしれませんし、1年、2年とかかるかもしれません。でもそれでいいんです。自分の好みのペースで探しに行けばいいんです。」

「自分のペースで、いいの?」

「ええ。言うなれば「生きがいを探すこと」が生きる意味になるんです。自分で納得ゆくまで考えて、探してみましょう。自分で納得できる生きがいが見つかれば、それがサーバルさんの幸せになると思います。サーバルさんさえよければ、私やヒイラギも協力します。」


「・・・でも・・・」


サーバルはそう呟いて毛布の上の写真に目を落とした。サキはそのサーバルの視線の移動に気づき、少し考えてから言った。


「写真は時間が経っても残る、サーバルさんはさっきそう言いましたよね。大切なミライさんとの思い出だって絶対に消えることはありません。だから、たまに戻って来ればいいんです。生きがいを探す途中で疲れたら振り返って、思い出せばいいんです。楽しかった時間を振り返って元気をもらったら、また前に進みましょう。」


少しサーバルの目がハッと開いたのがわかった。サキは息を飲んでサーバルの言葉を待っていると、サーバルは顔を上げこんなことを言った。


「私、あんまり自信ないけれど大丈夫かな。探せるかな。1歩進んだら2歩下がっちゃうかもしれない。」


サキはニッと笑ってそれに答えた。


「そうしたら次に3歩進めばいいんです。踏み出せない時は私とヒイラギが背中を押しますよ。」

「3歩進んだら10歩戻っちゃうかも。」

「そしたら11歩進む、は難しいから1歩進むを11回繰り返しましょう。私たちはいくらでもお付き合いします。」


サキがそういうとサーバルは呆れたように笑いだして、サキもそれにつられて声をあげて笑った。そうして二人笑いあった後、サーバルは微笑んで写真を元の懐にしまった。


「ふふっ、生きがいを探すのが生きがい、か。なんかヘンテコだけど、そんな風に考えれば楽しいかも。」


そして指で涙を拭ったサーバルは、今度は逆にサキの手を掴んで強く握った。そして少し首を傾けて和やかな表情で言った。


「サキ、ありがとう。私すっごく元気出た。昨日から少し心がどんよりしていたんだけど、晴れてきたみたい。」


その言葉を聞いてサキは自分の言葉がけが報われたように感じとても嬉しくなって、握られた手を握り返した。


「サーバルさんが元気を取り戻してくれたみたいで、私もとっても嬉しいです。」


サキはちらりと窓の外を見て、それからサーバルにちょっとしたことを尋ねた。


「明日は晴れますか、どうでしょうサーバルさん。」


そう聞いてサーバルはクンクンと匂いを嗅ぐような仕草をした後、ニンマリと笑ってサキの質問に答えた。


「わかんないや。でも、きっと晴れてくれるよ!」

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