カルテ6−4 嬉しいも楽しいも二つ分

サキとアライグマが地下1階に向かった後、透析ルームにはヒイラギとサーバル、助手、ハシビロコウがいた。助手とハシビロコウは手持ち無沙汰出会ったが、炎天下の空を飛んで帰るよりもクーラーの効いた涼しい透析ルームにいた方がいいと思ったのだろうか。部屋の片隅にあった箱の椅子を引っ張り出してそれに腰掛けてクーラーから吹き出る冷たい風を浴びていた。シンと静まり返った透析ルームの中で、最初に言葉を発したのはまたもサーバルであった。


「つい言っちゃった。アライグマの胸の中を私は知っていたから我慢できなかった。」


その言葉にヒイラギ以外の二人は静かに頷いた。


「我々もサーバルと同じ気持ちだったのです。先代のフェネックを失った直後の抜け殻の様なアライグマを我々も知っているのですから。」

「うん。でも先生がそれを知っているはずはないから、サーバルが先生にアライグマの過去を伝えたのは間違っていないと思う。」

「もちろんなのです。サーバルもサキも正しいことをしていたと私は思うのです。」


助手とハシビロコウの会話に一人ついていけず取り残されたヒイラギはサーバルに助けを求める視線を送った。それに気づいてサーバルは微笑むと体の前のベッドデスクの天板に体重を預けもたれかかった。


「フレンズにとって、大事な友達がいなくなってしまうというのはとても残酷で辛くて、日々の輝きが一瞬にして消え去ってしまうものなんだよ。フレンズ全員が、仲間の死に何度も耐えてきたハンターのヒグマの様な強い精神力を持っていたら良かったんだけどね。アライグマはそんなに強くなかった。」

「そうだよね。ツチノコさんでさえスナネコさんの死から立ち直るのに時間かかったって言っていたから。」


「2度も、無二の友達の命の危機の時に側に居られないなんて嫌だ。きっとアライグマはそう思ったんだと思う。自分がいたってどうしようもないかもしれないけれど、それでも側にいてあげたいのが大切な友達ってものじゃない。

もう2度と会えないって現実が本当に苦しいんだ。私たちパークに人がいた頃から生きている古参のフレンズは多かれ少なかれそういう経験をしている。私とアライグマは大切な人との別れっていう似た苦しみを背負っているの。

唯一違うのは、アライグマはその苦しみを一度克服したってところ。今のフェネックを見つけたんだから、本当に奇跡の様な話だよね。私は・・・まだ立ち直れていないのかも。ミライさんと離れ離れになったことから。今でも。忘れようとすることしかできていない、のかも。」


「・・・」


どういう顔をしたらいいかわからずヒイラギは無言で顔を伏せた。サーバルが伝えようとしていることは頭では理解できる、けれどヒイラギには全く実感が湧いてこなかった。どうしてサーバルがこんなにも辛そうな顔をしているのかが。なぜ他の二人が何も言わないのか。

昼をとうに過ぎた部屋は日陰の灰色に呑み込まれていった。


***


それからしばらく経って扉を開け入ってきたのはサキだった。それまで静まり返っていた中、いきなりサキがやってきたので部屋の中にいた全員はびっくりして目を向けた。


「サーバルさん、今日はあんまり近くにいられなくてすいませんでした。」


サーバルのベッドの側に行き謝ったがサーバルは全く気にしていないというそぶりを見せた。


「サキも今日忙しかったでしょ。しょうがないって。ここにはヒイラギと助手とハシビロコウがいてくれたから大丈夫。」

「そうですか、すみません。助手もハシビロコウさんも手伝っていただいてありがとうございました。おかげで二人を助けることができそうです。」

「ううん。困った時助けるのはお互い様だし。先生には目を治してもらった恩があるからね、何かお返しできたらなって思っていたの。」

「お前こそよく頑張ったのです。労をねぎらってやるのです。」


そう言ってハシビロコウと助手が微笑んでくれたのでサキは頰が緩んだ。空腹と疲れが少し和らいだ気がした。


「ちょっとヒイラギと相談することがあるので少し席を外します。すぐに戻りますから。」


サキはベッドサイドに座っていたヒイラギに外に出る様ジェスチャーを送り、ヒイラギを部屋の外に連れ出した。ヒイラギとサキは廊下の壁にもたれかかった。時刻は16時少し前、未だ窓からは強い光が注ぎ込まれていた。


「それで相談ってなあに?」


ヒイラギはいくらか疲れた顔をしていた。いつもサキとヒイラギの二人でやっている透析量のコントロールを一人でこなしたからだろう。


「これはフェネックさんの来院後2時間の頭部血管MRA、こっちは来院時のもの。2時間後に映っているこの影、なんだと思う。」


サキは印刷したMRAの画像をヒイラギに手渡し問題の箇所を指差した。


「ここは前交通動脈、そこにある丸い影?」

「そうだね。」

「・・・未破裂動脈瘤、じゃないかな。」


ヒイラギは真剣な顔でサキの顔を見た。そのヒイラギの視線はフェネックの命の危機はまだ終わっていないのではないかと伝えていた。


「私の考えも同じよ。rt-PAの効果で血栓が溶けて血流が再開し始めたから来院時に見えなかった血管の異常が出てきたと考えているわ。」


未破裂動脈瘤とは、脳の動脈に形成された瘤のうち破裂にまだ至っていないものを言う。未破裂動脈瘤は経過とともに膨隆し内圧が限界に至ると破裂し脳内で大出血し、いわゆるくも膜下出血を起こす。この疾患の緊急性、重篤性は医療者ならば必ず心得ており、サキもヒイラギも瘤が破裂する前に何か手を打たねばならないとすぐに察知した。


「脳梗塞後の動脈瘤だから虚血で血管壁が脆くなっているはず。破裂のリスクが比較的高いわ。開頭手術かカテーテルで破裂を予防しないと命に関わる。」


サキも真剣な表情で言った。廊下の空間に冷たい緊張が走った。


「でも今rt-PA投与しているから手術は無理じゃない?手術中に大量出血するかもしれないよ。」

「その通りだわ。今すぐ手術はやめた方がいいわね。でもあんまり悠長に待っていられないのよね。」


rt-PAは形成された血栓を溶かす役割を持つが、その代償として血液が持つ止血機能を低下させる。止血機能が低下した状態で肉体への侵襲度が大きい開頭手術などを行うのは原則禁止となっており、ヒイラギの指摘は的を射ていた。

サキはもう一度頭部の画像を見直し、このサイズならば今すぐに破裂するというわけではなさそうだと思った。


「明日さらに精密に調べて動脈瘤の危険度を検討しよう。」

「うん。」


ヒイラギは神妙な顔で頷き、透析ルームへと戻っていった。ヒイラギが戻った後、サキは少し廊下に留まり、部屋の中の様子を窺っていた。しかし部屋の中では誰もしゃべっていないのかずっとシンと静まり返っていて、唯一透析機のダイアライザの細かい作動音だけがかすかに聞こえてくるだけだった。

サキは足音を潜めその場を去った。


***


アライグマとフェネックはサーバルと同じ病室に入ってもらうことにした。患者を1箇所にまとめた方が管理しやすい、万一夜間にフェネックの状態が急変した場合に部屋の誰かが気づけるかもしれないという医療者側の都合もあるのだが、一番の理由は普段部屋でひとりぼっちのサーバルの寂しさを少しでも和らげようという想いからだった。実際アライグマとフェネックと相部屋だと伝えるとサーバルは両手を大きく上げてとても喜んでいた。今もフェネックのベッドの横でサーバルとアライグマは車椅子を2台並べて昔話に花を咲かせている。


「この病室も昔来た時とそんなに変わっていないのだ。ちょうど暑いこの季節でその辺でひまわりが咲いていたのだ。」

「そうそう、屋上から見えたんだよね。丘の斜面のひまわり畑。」


サーバルは柔和な表情で紙コップに入った麦茶を飲み干した。


「あの時は何の用で来たんだっけ?」

「イベントだよ。病院で入院している子たちを元気付けるっていう。」

「ああ、そうだったのだ。ミライさんが車で連れてきてくれたのだ。歌って踊って、お客さん大喜びしてくれて嬉しかったのだ。さすがアライさんなのだ。」

「えー、アライグマはただはしゃいでいただけじゃない。私とフェネックでいっぱい頑張ったんだから。」

「ありゃ、そうだったっのだ?まあともかく楽しかったのは間違いないのだ。」

「そうだね!」


二人は微笑み合い、そしてクスクスと笑いだした。

外はもう真っ暗で、空には目を凝らさなくともこと座・わし座・はくちょう座の夏の大三角、そのほかの星々が瞬いていた。開けた窓から吹き込む夏の夜の涼しげな風はカーテンを翻し、そしてフェネックの前髪を揺らした。

サキとヒイラギは二人の少し後ろ、サーバルが普段寝るベッドに腰掛けて昼食兼夕食のジャパリまんを齧りながら二人の語らいを遠巻きに聞いていた。疲れの色が見えるヒイラギはガツガツとジャパリまんを頬張っていたが、サキが4個目のジャパリまんに手を伸ばしたところで「まだ食べるの?」という驚いた顔で視線を飛ばしてきた。


「先生は食いしん坊なフレンズなのだ。アライさんと同じなのだ。」


少し先からアライグマもこちらを見てあははと笑ったのに気づいてサキは少し赤面した。


「はは、お昼から全然食べる時間を取れなかったので。」

「先生は昼からずっと仕事を頑張っていたからなのだ。仕事でご飯が食べられないなんて、アライさんには絶対できない仕事なのだ。」


アライグマが感心して目を丸くすると、隣のサーバルもそれに同調してニッコリ頷いた。


「私も無理かも、さすがだなあ。仕事でご飯を食べるのを忘れちゃうのって、ミライさんを思い出すなぁ。ミライさんもね、フレンズの調査になるとそれに熱中してずっとそのことばかり考えているの。私がお腹空いたり、寂しくて構って欲しくて声をかけてようやく気づくの。自分もお腹がなっていることに。サキもそんな感じ?」

「私はちょっと違うかもしれないです。やらなきゃいけないことが沢山あるだけだから。」

「そうなの?」


サーバルはその答えが意外だったようでキョトンとした。


「私はてっきり医者の仕事そういうことが楽しくて熱中できるから、あんなに頑張れているのかなって思っていたの。」

「うーん、もちろんこの仕事が面白いと感じているから医者を続けているのは確かです・・・」


確かに面白いと感じているからこそ、たった一人で居た6年間は医学に没頭できた。けれど「面白さ」の一単語で片付けられないのはサキ自身わかっていることだった。生まれつきの自分の身体、博士に諭されたこと、逃げた先がこの病院だったこと、いろんな事が積み重なった結果の先が医師という職につながっていた。ある意味でそういう「運命」だったのかもしれないとサキはその時思った。


「ちょうどその病院でのイベントがあった日の夜、屋上で病院の人とミライさんとで打ち上げのパーティーをやったの。」


ふと思い出したようにサーバルが言った。


「そういえば今と同じ事をパーティーに遅れて来たユウさんに聞いたんだ。いっぱい仕事してお腹すいたでしょ、って言って私のお皿に乗っていたリンゴをあげたんだ。そうしたらユウさんはありがとうって言ってリンゴを飲み込んで、こう答えたんだ。


『お腹は空くよ、でも気にならないんだ。どうしたら患者さんの病気が治せるか、どうしたら患者さんが健康に幸せに暮らしていけるか、そういう事を一生懸命考えているのが私は好きみたい。それで患者さんが治って、ありがとうって言ってくれるのはもっと好き。その感謝が私にとって一番のご飯になるから、少しくらいお腹が空いても大丈夫。』


そう言っていた。それを聞いて私はなんだかユウさんってすごくいいお医者さんだなって思ったんだ。理由は・・・うまく言葉にできないけど。」

「そういう事が言えるユウさんはいいお医者さんだなって私も思います。なんとなくだけど、でも確かに。」


かつてユウホが言った事をサキは何度も頭の中で繰り返し咀嚼してみた。けれどその言葉を呑み込めはしなかった。「患者のために頑張っている」と宣うのはサキでもできるが、経験不足すぎてその言葉に質量が伴わない気がした。他方ユウホは医者としても研究者としても十分な経験をもっているからこそ、彼女が発する言葉に重みが感じられたのだ。


「本当に、医者に成るべくしてなった人だったんですね。今もパークのどこかで医者を続けているのかな。」

「このエリアにはいないだろうけど、きっとそうだと思うよ。私もそのイベントの後会っていないから詳しくは分からないけれど、もしかしたらミライさんと一緒に仕事しているかも。」


サーバルはそう言ってうふふと笑った。脳裏にはきっとユウホとミライが仲良く並んでフレンズのため、パークのために頑張っている姿が浮かんだのだろうか。



「あっ、先生!フェネックが・・・目を開けているのだ!」


突然アライグマが大きな声を出して、右足を痛めている事を忘れて車椅子から飛び上がった。サキとヒイラギは急いでフェネックのベッドに駆け寄りフェネックの顔を見た。サーバルも少し体を乗り出して覗き込んだ。

フェネックはまどろんでいるような表情で、少しだけ開けた瞼の隙間から栗色の瞳を覗かせていた。その瞳は自分の眼前を見回すように左右に動き、それから何かを言いたげに口を小さくパクパクと開閉させた。


「フェネックさん、私の姿が見えますか。わかりますか。」

「フェネック!アライさんはここにいるのだ。そばにいるのだ!」


サキとアライグマは矢継ぎ早にフェネックに問いかけた。フェネックはまた口をパクパクと動かし、掛けられていた毛布の端から左手を這い出させてアライグマの指にそっと触った。そしてわずかに目元を緩ませた。


「そうか、アライさんがわかるのだな?!アライさんは嬉しいのだ。本当に、本当に嬉しいのだ!」


アライグマはその左手を取って、自分の頬を摺り寄せた。そしてフェネックの腕に覆いかぶさるようにベッドに自分の身体を沈めた。


「手が温かい、生きているのだ。とっても素晴らしい事なのだ。今アライさんはとっても幸せなのだ。これも先生のおかげなのだ・・・はぁ・・・ふぅ・・・」


そして息を一つつくとアライグマはそのまま寝入ってしまった。フェネックのことが本当に心配で、ずっと気を尖らせていたのだろう。サキはアライグマを起こさぬよう小さな声でフェネックの診察をした。その結果、フェネックの脳機能はすでにある程度回復できている事がわかった。認知能力に特段問題は見つからず、右半身の麻痺についても来院時より改善していた。おそらく今はまだ意識が朦朧としているのだろう、明日朝にもう一度診察して判断しようとサキは思った。とにかくフェネックが無事に意識を取り戻した事はサキを大きく安堵させ、アライグマと同じように大きく息を吐いた。


「rt-PAの役割はここまでね。それじゃあエダラボンとアルガトロバン、マントニールを用意して。急ぐ必要はないわ。」

「はーい。」


ヒイラギは返事をしてトコトコと病室を出て行った。



サキはサーバルの隣に丸椅子を寄せて座り、並んでフェネックとアライグマの寝顔を眺めていた。二人の安らかな顔を見ているうちにサキは自分自身の心もなんだか温まっているような感じがして、一言嬉しそうに呟いた。


「良かったなぁ。」


するとサーバルも、

「治るってすごい事だよね。病気に勝って、また元気に暮らせるようになるんだから。それってすっごく幸せな事だと思うな。きっとユウさんも退院する患者さんの幸せそうな笑顔を見て、ユウさん自身もとっても幸せな気持ちになったんじゃないかな。」

と言ってフェネックの幸せそうな寝顔を眺めしみじみと語った。サキもそれに頷く。


「ユウさんだけじゃなく私もおんなじ気持ちになりますよ。今だってフェネックさんが意識を取り戻して、アライグマさんと再び会う事ができて、私自身も本当に嬉しい気持ちです。幸せです。」

「私だって。」


サーバルとサキは互いに顔を見合わせ笑いあった。静かなクスクスという笑い声が病室に響いた。

その時また窓から風が吹き込んできた。サーバルは風が来た方向、窓の外に目を向けしばらく遠く空を眺めていた。


「綺麗な空。私でも星がたくさん見えるよ。でも少し雨の匂いがする、嵐かも。」


サーバルは言った。


「また降るんですか。せっかく晴れたと思ったのに。」


サキは少し残念そうに頬を膨らませ、サーバルと同じ方角を眺めた。サキには雨の匂いなどさっぱり分からなかったが、嗅覚に優れるサーバルが言うのならそうなのかもしれないと思った。


「ねえサキ。」

サーバルはふと神妙な顔をして問いかけた。


「私って、今幸せなのかな?

もう治らない私は、治る未来のない私は何に幸せや希望を感じればいいんだろう?」


サキを見据えるサーバルの瞳には、およそフレンズには似つかわしくない憂いの色が宿っていた。

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