カルテ5−5 グレイトフル ・ジャーニー

「サーバルさん、おはようございます。

体調の方はどうでしょう。頭がクラクラするとか、熱っぽいとか、そういったことはありますか?」


午前8時30分、ドアを開け病室に踏み入れるとベッドの上に座っていたサーバルは手に持っていた写真をサイドテーブルに置いて、

「おはよ、サキ!私は大丈夫だよ。」

と元気よく返事をした。その様子を見てサキは満足げに頷き、サーバルの前に座って診察を始めた。


「手術した箇所を見せてください。痛いとか、左手に力が入らなかったりすることはありませんか。」

「ないかな。」

「わかりました。次は手の指を見せてください。・・・ペンで指に触れていますが、その感覚は感じられていますか?」

「うん。」

「ありがとうございます。次は足の指です。・・・これはどうでしょう?」

「まぁ・・・なんか触っているのはわかるよ。」

「そうですか。」


見たところ手指の感覚はある程度保たれているようだ。しかし足指の方は両側とも感覚が低下しているようだった。これは糖尿病の合併症の一つである末梢組織の障害によるものだ。高血糖という病態は末梢の細い血管、組織に大きなダメージを与える。その結果四肢の末端では感覚低下、運動機能低下が起こりやすく、床ずれや創傷による感染症や壊死を引き起こす。

それだけではなく糖尿病は免疫力を低下させるため感染症が重篤化しやすい。手術の後という事もあり、今サキはサーバルの体が術後感染を起こしていないかに非常に注意しているのであった。


一通り診察と採血が終わり、サキがベッドサイドから離れようとすると、サーバルが奇妙なことを尋ねてサキを引き止めた。


「ねえサキ、この病院って昔から変わってないのかな?」

「え? そうですね、私がここにきたのは7年前だからその前のことはわかりませんが。」


そう言ってサキは病室をぐるりと見渡した。白い壁、白い天井、窓には梅雨の曇り空とどんより暗い影の落ちる丘の林が広がっている。それらは7年前から何一つ変わっていないように思えた。


「もしかしたら、私がきた時にあった部屋とか物とかがまだ残っているかも!せっかくだし病院の中を探検したいな。」


サーバルはそう言って額の前で両手を合わせ頼み込んできた。サキは腕組みをしてどうしようかと思案したが、期待に満ちた顔のサーバルを見て結局首を縦に振った。


「わかりました。仕事がひと段落したらヒイラギを連れて戻ってきますね。」


サキがにっこり笑ってそう答えると、


「やったー!待っているね!」

と、サーバルもバンザイをしてベッドの上で飛び上がった。



サキとヒイラギと車椅子に乗ったサーバルは病室を出て廊下を歩き2階の端にある小児科病室の扉の前にやってきた。スナネコが入院していたICUの反対側に位置するこの部屋は普段サキもヒイラギも使っていなかった。

他の病室とは違い壁にはゾウやキリンの絵が描かれ、小児科らしく多少のポップさを出している。サーバルの車椅子を押していたヒイラギは「小児科第2病室」と札のかかった扉の前で立ち止まり懐かしそうに息をついた。


「懐かしいな。僕はこの病室に入ってたんだよね。」


するとサーバルもヒイラギと同じように昔の思い出を想起したのか感慨深そうに扉の曇りガラスの先を眺め言った。


「私もここには来た事あるかな。患者さんを元気付けようってイベントで怪我をしてここに入っていた来場者の女の子とお話ししたんだ。部屋に入った途端『あー!サーバルちゃんだー!』って言って喜んでくれてね、私それがすっごく嬉しかったのを覚えてる。」

「サーバルさん、パークの有名人でしたからね。みんな喜びますよ。」


サーバルの思い出話に相槌をうちつつサキはポケットから鍵を取り出して扉を開け部屋の明かりをつけた。

少し埃をかぶった病室にはベッドの他にたくさんのぬいぐるみや人形が箱やカゴに入れられ、カラフルなウレタンの敷物の端に固めて置かれていた。ヒイラギは車椅子を押しながら壁伝いに部屋をぐるりと一周していると、途中でサーバルが「あれ、なんだろう?」と言って窓の下の棚を指差した。ヒイラギが車椅子を止めサーバルが指し示す先にあるものを探して手にとると、それは小さな絵本だった。ヒイラギが手渡した絵本をサーバルはパラパラとページを送り、そして本を閉じて首を横に振った。


「あはは、絵があってもやっぱり何書いてるかわかんないや。文字って難しいね。ヒイラギは文字読めるんだよね。」


サーバルは照れ隠しに笑みを浮かべながら絵本をヒイラギに返した。


「僕はサキさんに教えてもらったから読めるようになったんだ。」

「そうなんだ!じゃあサキも昔誰かに文字を教えてもらったの?」


サキはそう尋ねられてちょっと戸惑った。なぜならサキは誰にも文字を教わった記憶が無かったからだ。


「私は、そういえば誰にも教わっていないような気がします・・・ 珍しいんですかね。」


サーバルはそれを聞いて大層驚き目を丸くした。


「そうなの? 誰かに教えてもらって文字を読めるようになった子は私も知っているよ、ツチノコとか助手とか。けれどそれは頭の良いフレンズだけだったな。実は私もミライさんからちょっとだけ教えてもらったことはあるんだけど全然覚えられなかった。でも初めから文字が読めるフレンズなんてすごく珍しいよ!」


サーバルの驚きようを目の当たりにしてサキは初めて文字が読めるという自分の能力の異質さに気づいた。もしかしたら誰かに教えてもらった記憶が無いだけなのかもしれない、けれどフレンズとセルリアンのハーフという謎だらけのこの体には何らかの特殊な性質があっても不思議では無い。

他人の体と病理を扱う医師が、自分の体のことさえわからないというのは何だか諧謔的だなとサキは思い、心の中でクスリと笑った。


その時一番窓に近い位置にいたヒイラギが何かの物音に気づいて窓の方を指差し叫んだ。


「ねえ、窓の外に誰かいるよ!窓を叩いてる!」


まさかと思って見てみると、結露した窓の外に人影が浮かんでいて、それは羽ばたきながらドンドンと窓をノックしていた。


「鳥のフレンズ?急患かな?」


ヒイラギが近づいて窓をガラリと開けると、その影は音を立てることなくふわりと部屋の中に入ってきた。


「全く、ノックに気づくのが遅いのですよ。おかげで結構体が濡れたのです。ともかくサーバル含めて元気にしていたのですか?」


そう言って身震いし毛皮についた水滴を振り払った影の主は博士であった。


「うん、サキさんも僕も元気だよ。」

「それなら良かったのです。サーバルの話は助手からだいたい聞いているのですが実際のところどうなのですか?」


左右にしっぽを振るヒイラギを見て博士はニコリと笑い、車椅子に乗るサーバルに向かい合った。


「まあ、ぼちぼちね。サキとヒイラギが居てくれているから今は大丈夫かな。」


サーバルがそう言って隣のサキの顔を見上げたので、サキはそれに続いて答えた。


「サーバルさんは今のところ薬で血糖値をコントロールで治療をしています。本格的に透析治療をするのは10日ほど後になります。」


それを聞いて博士は上着の裾のポケットから手帳を取り出して何やらメモをとった。それが書き終わるとまた元のポケットにしまおうと手を下ろしたが、その時「痛っ」という突然の声を発し、手に持っていた手帳を床に落としてしまった。そしてそれを拾おうと身を屈めようとするのだが、背中が痛むのか思うように背を丸めることができないでいた。

ヒイラギが気づいて床に落ちた手帳を拾い博士に手渡すと、博士は痛みに耐えながら引きつった笑顔でヒイラギに礼をいった。


「ヒイラギ、助かったのです。ありがとう。」

「どういたしまして。でもどうしたの?背中が痛いの?」

「ええ。今日はこの痛みをサキに診て欲しくて飛んできたのです。」


痛みが落ち着いたのか博士はまたいつものような毅然とした顔つきを作るとサキの前に歩み寄って言った。


「サーバルの件で忙しいのはわかっているのですが、そっちが終わってからでいいのでお願いしたいのです。」

「わかりました。サーバルさんの対応が終わり次第博士の診察をします。」


そう言うと、隣にいたサーバルがサキの背をちょんちょんと叩いたので横をみると、そこには優しそうな笑みを浮かべたサーバルがいた。


「サキ、今私は大丈夫そうだから博士のことを診てあげて。」

「え、でもサーバルさんは・・・」

「いいからいいから!」


そう言ってサーバルは思いっきりサキの背を押して博士の方へ押し出した。こうやって送り出されてしまってはサキもサーバルの善意に甘えるしかなかった。


「ありがとうございます、サーバルさん! ヒイラギ、サーバルさんのことは今は任せるから何かあったらすぐ私を呼びに来て!」


サキはヒイラギに申し送りすると博士を連れ診察室のある階下へと向かった。



診察室に入りサキは文献や本で机の上が散らかっているのに気づき、慌てて片付けた。その間に博士はつかつかと中へ進み椅子に座ってサキが診察を始めるのを待っていた。


「お恥ずかしい、お待たせしてすみません。」

「なに、急に押しかけたのはこちらなのです。気にする事はないのです。」


丸椅子の上にちょこんと座った博士は素っ気なく答え、机の上に開いてあった本をチラと見て感心したように息をついた。


「こんなに本にメモを書き込んで、たくさん勉強しているのですね。やはりお前は変わらずひたむきで真面目なのです。」


慕っている博士にそう言われるとサキもなんだか照れ臭くなってはにかんだ。


「いや、まだまだです。医者の仕事をし始めてまだ1年くらいですし、治療経験だってまだ6人です。」

「それなら私は7人目というわけですね。よろしく頼むのです。」


そう言って博士はようやく片付けが終え椅子に腰を落としたサキを見てニヤッと笑った。


サキは一度目を閉じ心の中で自分に喝を入れ、そしてゆっくりと目を開けた。


さあ、頑張ろう。


「はい、お任せください。それで博士、今日はどうされたのですか。」

「背中の皮膚が赤くなって、そこがかなり痛いのです。おかげであんまり寝られないのです。」


博士の主訴は背部皮膚の発赤および疼痛。まずは背中の皮膚を観察する必要がありそうだ。


「なるほど。それでは背中を見せてください。」


博士はうなずいて上着を脱ぎ背中をサキの方へ向けた。見ると博士の背中の白い皮膚、その右の腰あたりの皮膚が臀部にかけて広範囲に赤く、所によっては赤黒く変わっており、その所々には水疱が集簇して発生していた。


「確かに博士の言う通り右の腰あたりに紅斑と水疱ができていますね。他の場所に同じような痛みや紅斑はありますか?」

「ないのです。腰だけが本当に痛くて痛くて・・・」

「この痛みはいつからですか?」

「1週間くらい前からだったと思うのです。だんだんひどくなっているのです。」


皮膚の所見および博士の話をまとめると、比較的急性の疾患かつ部位が限局した皮膚の紅斑と水疱をもたらす疾患ということになる。そしてこの紅斑がある箇所に眠れなくなるほどの痛みが起きているということらしい。


「もう少し詳しく背中を見ます。触れますので痛かったら言ってください。」


医療用のグローブをはめてそっと病変部に触れると、博士がそれを嫌がるようにビクリと肩をすくめて「痛っ」と漏らした。


「触れるだけで痛みますか。どんな感じの痛みですか。ピリピリする、ズキズキするとか。」


そんなことを聞かれてもわからないと言いたげな雰囲気の博士は困惑したように首をひねっていたが、それでもなんとか持っている言葉を使って痛みを表現してくれた。


「そうですねぇ・・・電流が走るような? 結構鋭い痛みなのです。」


電流が走る、そういう表現をするような痛みは神経が原因になっていることが多い。これを踏まえてサキはもう一度背中の紅斑をじっくり見ながら頭の中で鑑別疾患を絞り込んでいく。

腰部の皮膚に限局した疾患だから自己免疫疾患などの全身性疾患の可能性は低い。そして神経性の疼痛。この紅斑と水疱の皮膚所見。知っている、これは間違いなく勉強した。


帯状疱疹だ。


サキはよりピンポイントな質問をして診断の裏付けをしようと考え、博士にいくつか質問を続けた。


「もう服を着ても大丈夫です。それで博士、水ぼうそうにかかったことはありますか?」

「水ぼうそう? ああ、体に赤いのがたくさんできるヤツですか。フレンズになりたての時にかかったかもしれないのです。よく覚えてはいないですが。」

「なるほど。それと博士ここ1月くらいは忙しかったりしませんでしたか?」

「ええ。最近調べ物が立て込んでいたのです。」

「この背中の痛みが出る前から睡眠はあまり取れていなかったのでは?」

「その通りなのです。お前も私の性分は知っているでしょう。ちょっと気になることがあって、連日没頭してしまっていたのです。」

「そうだったんですか。それで博士、顔に力が入らなかったり食べ物の味が感じられなくなったりとか、そういったことはありませんか?」

「そんなことはないのです。」


サキは博士が答えたことを逐一メモし、そしてそれらを見返して再度自分の考える診断に確信を持った。


「ありがとうございます。博士、診断がつきましたよ。」


サキがそういうと博士は驚き、


「本当なのですか!」


と、嬉しそうに身を前へのり出した。


「博士の背中の痛みは帯状疱疹といって、ヘルペスウイルスの仲間の水痘帯状疱疹ウイルスによって引き起こされる感染症です。」

「帯状疱疹・・・聞いたことのない病気なのです。教えて欲しいのです。」


聞き馴染みのない単語に博士は困惑しているようでぽかんと口を開けてサキのさらなる説明を待った。サキはカルテの余白に脊髄と神経の簡単な模式図を描き博士に見せた。


「ヘルペスウイルスは神経、特に脊髄に住み着くウイルスで、普段は何もしませんが睡眠不足や過労などのストレスのよって免疫力が低下すると悪さをしはじめます。このウイルスは神経に沿って移動し、そこに紅斑や水疱、そして痛みを起こします。博士の紅斑の位置を見るに、背骨の下の方、腰髄L2やL3から移動したものだと思います。」

「はあ、これが痛みの原因なのですか。それで、この病気は治るのですか?」


博士は痛みに苦しめられて辟易しているようだった。それも無理はない、帯状疱疹が起こす神経性の痛みはひどく、逐一精神をじわじわとむしばむような苦しさなのだ。その辛さに耐えている博士の負担を少しでも和らげたいとサキは思い、いつもより明るい笑顔を作って治療の展望を伝えた。


「はい、この病気は治せます。原因のヘルペスウイルスを除去する抗ウイルス薬のバラシクロビル錠と、一番の問題である痛みを緩和するアセトアミノフェンやステロイド、リン酸コデインなど鎮痛剤を使います。どちらも1週間は継続して内服してもらうことになります。」


すると博士はホッとしたように椅子に深く腰掛け宙を見上げ、一言「よかった」とつぶやいた。そんな博士の表情を見てサキもなんだか心が温まっていくような気がした。病気を治せること、病苦から解放される希望が見えること、それが患者にとってどれほど重要なことかを今サキは再認識していた。


「ですが博士、無理は禁物ですよ。さっきも言いましたがヘルペスウイルスは日和見的に悪さをします。だから毎日睡眠時間を確保してきちんと休息をとってください。」

「わかっているのです。つい熱中するのは私の悪い癖ですが気をつけるのです。」


そういって博士はバツが悪そうに後ろ髪を書きながら苦笑いをした。



一度サキが薬を用意するために調剤室に行き、再び診察室に戻るとそこに博士の姿はなかった。不思議に思って辺りを見回すと机の上に小さな紙の切れ端が置かれていた。そのメモには博士の言伝が走り書きで記されていた。


探したい本があるので蔵書庫に行くのです。薬ができたら呼びに来て欲しいのです。


サキはそのメモに従い薬を持って3階の蔵書庫に行くと、ある本棚の前で腕組みしている博士がいた。博士はすぐにサキがきたことに気づいてこちらを振り向いた。


「博士、何の本を探しているんですか?」


サキが尋ねると博士は一瞬考え込み、それから答えた。


「ラッキービーストのシステムに関する書類を探しているのです。」

「ラッキービーストですか? 病院の本棚にありますかね?」


ここは病院の蔵書庫で、ここの書架にはごく一部を除いては医学関連の書籍しかない。そのことはもちろん博士も知っているはずだった、けれど博士は何か確信があるのか、意地っ張りなのかずっと本棚に並んでいる本の背表紙を俯瞰していた。


「それに、どうしてラッキービーストのことを調べているんですか?」


サキの問いかけを聞くや否や博士は目を光らせてサキに歩み寄り、手帳のあるページをサキに見せた。そのページには細々としたメモに加え、ひときわ大きく”order”という単語が下線付きで刻まれていた。


「1週間ほど前のサーバルがここに入院してきた日、ラッキービーストが突然喋ったのをサキは覚えていますか?」


そういえばサーバルが助手によってここに担ぎ込まれる少し前に、ラッキービーストが鳴動したのをサキは思い出した。


「確か“指令”があったとラッキービーストは言っていましたね。あれには私もヒイラギもびっくりしました。」

「そうなのです。そもそもラッキービーストがヒトのいない環境で喋るのはあり得ないことのようですし、さらにその“指令”というのが何なのか私と助手は非常に気になったのです。それでいろんな書類をあたり、いろんなフレンズに聞き込みもしてみたのです。

すると一つのことがわかったのです。どうやら昔、あの警報を聞いたことがあるというフレンズが複数いました。あの警報システムは元から付いていたというわけだったのです。」

「そうだったんですか。」


熱心に語っている博士を見ると、よほどラッキービーストの件に好奇心を刺激されたように見受けられた。元来好奇心が旺盛な博士のことだ、きっと寝ずに夢中で調べていたのだろう。


「ここからが本題なのです。ラッキービーストのシステムについての文献をさらに詳しく調べたのですが、何と!あの警報について書かれたパーク運営部の広報誌を探り当てたのです。

それによると警報の正体は《ゲスト・フレンズ救急搬送システム》という名前のシステムで、キョウシュウエリアの一部地域でテスト運行されていたようなのです。そしてこのシステムの稼働に協力したのはお前も知っているミサキ・ユウホというこの病院の医師なのです。」

「ユウホさんがこのシステムを?」

「広報誌に載っていたクレジットにそう書いてあったのです。」


事あるごとに出てくる岬侑帆という医師の名を今再び耳にして、何かと縁がある名前だなとサキは改めて思った。

この病院にかつて勤めていた外科医、優秀な研究者。患者フレンズからの信頼が厚く、そしてパークの医療体系にまで関わっていたユウホ。一体どれほど優秀な人物だったのかと想像すると、かつてユウホがいたところに今自分のような未熟で中途半端な医師が納まってしまっていることがとても恐れ多い事のように思えた。

サキは外からでもはっきりわかるほど劣等感を滲ませていたようで、博士はそんなサキを元気付けようと背中をポンポンと叩いて、お前がそんなブルーな表情をすることはないと言った。


「さてと、ひとまずシステムの正体はわかったのです。けれど私にはまだ腑に落ちない点が一つあるのです。ラッキービーストが発した”order”という単語が何を指すかということです。そもそも他のフレンズの話によると、あの時鳴った警報は少しだけ昔の時と内容が違っていたらしいのです。」


博士はそう言って腕組みをしてふぅと小さく息をついた。


「でも博士、とりあえず今の話から考えるとorderというのは救急搬送の指令のことではないのですか?」


少し思考を巡らせてからサキが自分の予想を述べると、博士は数度小さくうなずいた。


「もちろんその可能性はあるし、助手も同じことを言っていたのです。でも違うかもしれない。そのほかにもまだ謎は山積みです。だから答えが書いてある文献がシステム開発元のここならあるかと思って探しにきたのです。」

「ふふ、やはり博士は相変わらず頑固で熱心で、でもとても柔軟ですね。まるで研究者みたい。」


懐かしさからサキが軽口を叩くと、博士はニイッと歯を剥き人差し指を立ててチッチッチッと左右に振った。


「当たり前なのです。私は博士プロフェッサーなのですから。それにサキだって同じなのです。」

「私も?」

「お前だって私とおんなじで熱心で頑固なのです。」


そう言って博士は指を指しニヤッと笑うと、蔵書庫を出ようと出口に向かい、その途中で不意に立ち止まり後ろのサキを振り返った。


「だからこそ一度自分が決めた、背負った運命を切り開く生き方を、捨てることなく歩んでいけているのです。サキは医師として一人前に近づいていると、今日の診察を見て思いました。誇らしいことなのです。」


扉から差す外光で博士の顔は影になり、その表情はサキにはよく見えなかった。けれど聞こえてきた博士の言葉の温かさは十二分にサキの胸に届き体の芯に温度と活力が注ぎ込むのがわかった。

自分の進歩がちょっとずつ博士に認めてもらってきている。サキはそれが嬉しくてたまらなくて、顔を伏せ白衣の裾をぎゅっと持った。


それきりサキは何も喋ることはなく、蔵書庫を出て階下へ向かう博士の数歩跡をただ黙って歩いた。



病院のエントランスの前でサキは処方した薬を入れた紙袋を博士に手渡し服用の注意点を説明した。


「これがバラシクロビルという抗ウイルス薬です。1日3回服用です。それでこっちが炎症と痛みを抑えるアセトアミノフェン。こちらも1日3日服用です。

どちらも空腹時の服用は避け、飲み忘れた場合でも一度に2つ以上飲むことは避けてください。また、発疹など副作用らしい症状が出たら遠慮せずすぐに来てくださいね。」

「ありがとう。次は1週間後に来れば良いのですね?」


サキが頷くと博士は手に持っていた手帳にそのことをメモした。そして博士が手帳のページを見返していると、何か忘れていたことに気づいたように「あっ」と小さく声を漏らした。


「どうしたのですか、博士?」


サキが気になって声をかけると、博士は「大したことではない」と言ってサキに背を向けエントランスの扉を開け外に出ようとした。しかし扉を半分開けたところで博士は思い直したようにサキの方を振り返って言った。


「あのミサキ・ユウホというヒトについて、私は漠然ながら気になっていることが少しあるのです。彼女がかつてこのパークでしていたことについて・・・少しだけ。」

「かつてしていたこと?」

「そこから先はまだ調べがついていないので何も言えないのです。あくまで漠然とした引っかかりにすぎないのです。それでは私は仕事があるので帰るのです、また来ます。」


そう言った博士は顔を曇らせたまま再び背を向け飛び去って行った。サキは曇天の奥へ吸い込まれ小さくなっていく博士の影を見送りながら、


「ご自身の体調に気をつけてくださいね!」

と大きな声で呼びかけた。




気づくと時刻はすでに昼前になっていた。サーバルとヒイラギはどうしているのかと心配になったサキは階段を駆け上がりサーバルの病室に飛び込んだ。するとサキの目に映ったのはベッドの側で仲良く談笑するヒイラギとサーバルだった。サーバルはすぐにサキが戻ってきたことに気づいて声をかけた。


「あっ、サキおかえり!博士は大丈夫だった?」

「ええ、治療できそうです。」

「それなら良かったね。博士はこのパークではけっこう大事な人だから。」


サーバルはそう言って胸の前で両手を合わせ喜びを表した。


「それでヒイラギ、サーバルさんに変わりはなかった?」


サキはサーバルの隣に座っているヒイラギにサーバルの体調の変化がなかったかを確認すると、ヒイラギは数値を記入した記録用紙をサキに手渡し言った。


「血糖値はコントロールできているみたいだけど、腎臓の値がちょっと気になるかな。」


見ると血糖値はおおよそサキが想定した域に納まっていたが、腎臓の機能を示すクリアランスやGFRの値は変わらず良いものではなかった。サーバルに今のところ糖尿病性腎症の明瞭な症状の訴えはないが、それが表れるのも時間の問題であり、現段階でなんらかの対応はすべきなのかもしれない。しかしあくまで透析開始までの繋ぎでの投薬コントロールであることを考えると、今以上に薬の種類を増やして弱った腎臓にさらに負担をかけるのはあまり良いことではないようにサキは考えた。結局サキは現段階での薬の追加は見送ることにした。


「今はサーバルさんの数値の推移をもう少し慎重に観察しよう。」


サキがそういうとヒイラギはうんと言ってうなずいた。

「それでヒイラギ、サーバルさんとどんな話をしていたの?」


サキが話題を変えてきくとヒイラギは目を輝かせて喋り出した。


「すごく面白いんだよ、サーバルさんの話。さっきまではまだパークに人がいた頃の港や遊園地の話をしてくれていたんだ。いろんなお店があって、ヒトもフレンズもいっぱいいて毎日がお祭りみたいだったんだって。」


するとサーバルが楽しそうに笑いながら話に加わった。


「そうなんだよ! ヒイラギが楽しそうに聞いていくれるから私も嬉しいよ。お店にもいろんなところがあって、おみやげ屋さん、ホテル、屋台、レストラン、カフェとかあったの。私ね、ミライさんと一緒に港に住んでいた時があって、その時にいろんなお店に行ったなあ。レストランのメニューの文字なんか全然読めなかったからいつもミライさんに読んでもらってたな。」


サーバルの瞳はいつになく輝いていて、思い出話をとても楽しんでいるように見えた。こうしてサーバルが打ち解けた表情を見せてくれるようになったのは大きな進展だとサキは思い、先日までの自分たちの努力が報われたのだとしみじみ感じ入った。

その横ではサーバルはサイドテーブルに置いてあった写真を手に取り、また何かを思い出したように見入っていた。それをヒイラギが横から覗き込んで見たところ、ヒイラギは何かに気づいたように声をあげた。


「あれ、この写真ってさっきサーバルさんが言っていた観覧車のところ?」


サキも上から写真を覗き、ヒイラギが指差している場所に注目した。それは映っているサーバルとミライの奥に映っている背景、大きな鉄柱に車輪のようないくつもの輪と台車が取り付けられた構造物、それは間違いなく観覧車だった。サーバルがヒイラギの方をじっと見て、そして顔を上げてサキの顔もしばらく見つめた。そしてしばらくして一つ大きな息をつくと、何か決心したように真面目な顔になった。


「やっぱり、二人にはこの写真の本当のことはちゃんと話しておいたほうがいいよね。」


そう言ってサーバルはどこか寂しそうな微笑を浮かべた。

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