実験的属性その2:妹

 五十嵐さんとの作戦会議で、俺は戦略の基盤となる重要ポイントを彼から山ほど伝授された。

 箇条書きにすると、概ねこういうことだ。


・恋はがっつかない。アプローチはポイントを押さえ、少しずつ、さりげなく。

・相手をよく観察し、相手の気持ちを常に推し量る。

・無理強いはしない。


「あくまで俺の個人的見解だから、まあ参考程度に。

でも、多分恋の基本は男でも女でも同じことだ。いくらその人を好きでも、あまりあからさまにまとわりついたり強引に接近して、相手の心がきゅんと動くと思うか?

相手の気持ちを想像すれば、すぐに気付くことだ」


「——確かに、そうですよね……

はあ〜……今日のペット作戦のアホさ加減は論外だったんですね……五十嵐さんに笑われても仕方ないです」

「まあ今日のは若い男子社員が勢い余って空回りした部類だから安心しろ。彼女も大して気にしてないだろ……本番はこれからだ」

 五十嵐さんの軽やかなフォローが、ずっしり沈み込みそうな俺を優しく救ってくれる。


「……恋ってさ。基本は、相手の気持ちの動きを感じる努力をすることじゃないかと、俺は思うけどな。

そうやって、少しずつその人の心の動きを感じて、手探りしながらその動きに自分を添わせて……二人の波がうまく噛み合う瞬間に、なんとも言えない幸せを感じるんだよな。

そんなことを繰り返して、お互いの距離が縮まっていく……というかさ」


 何杯目かからハイボールに切り替わった五十嵐さんは、ジョッキを涼しげに傾けてさらりとそんなことを言った。



「————」



 五十嵐さんがモテるのには、ちゃんと理由があった。


 人から好かれるというのは——単にその人の顔や能力などが優れているから、ではないのかもしれない。

 こんな風に、相手の心を思い、努力して滲み出るその温かさが……異性だけじゃなく、全ての人を惹きつけるんだ。きっと。


 今は、そんな彼の表面しか見ずに癪に触るなんて感じた自分自身の薄さが、なんだか情けなく思える。



「…………あなたみたいに……俺なんかが、そんなハイレベルなことちゃんとできる気がしません……」


 最早完全に自信の萎えた俺は卑屈に俯き、ますます情けない言葉をもぞもぞと呟いた。


「は?何もしないうちからそんな弱音を吐くな。昼間のあの無敵の自信はどうした?」

 力なく肩を落とす俺に、五十嵐さんはくっくっとまた笑う。


「別に、何かすごい技術が要るわけじゃない。相手のことが本当に大切ならば、誰にでもできるはずだ。

それに、こんなのはいくら口で説明したって何にも始まらない。まずは行動あるのみだ。その点で言えば、今日のワンコ作戦は大正解だぞ」

「……でも……

一度失敗すると、こういうのってものすごく怖くなるもんですね……」

「お、今日一日でペットから随分成長したじゃないか篠田くん!これは俺も育てがいがあるなーハハッ」

「……今のは完全に皮肉ですよね?」

「ん?小さなことは気にするな」


 綺麗な指で楽しげに眼鏡をつっと押し上げると、彼はいつもの端麗な表情に戻って話し出した。

「じゃ、早速次回の戦略だ。

今度は、『妹属性』でいってみるのはどうだ?」


「……『妹属性』?」

「そう。

さりげなく女子力高い男子は、相当にポイント高いからな……と言っても、これは君のようにかわいい雰囲気の男子ならではの戦法かもしれないが」


 彼のそんな言葉に、俺は3つ下の妹をふと思い浮かべた。

 普段つんけんしつつも、俺が風邪なんかひいたりすれば何気に俺好みのアイスやらプリンやらを冷蔵庫に入れてくれたりする、小憎らしくも可愛いヤツだ。


「んー……妹……か。

俺にも妹いるから、イメージしやすいかも……」

「そうか!それはますます好都合だ。

じゃあ早速第2弾開始だ篠田くん!お姉ちゃんを心から愛する可愛い妹を、出来る限りリアルにイメトレしておけよ」

「——わかりました。やってみます」



 思わぬ助っ人……いや、温かく手を差し伸べてくれたこの大先輩のおかげで、第1回作戦会議は俺にとって限りなく有益なものになったのだった。




✳︎




 その翌日から、俺は毎晩「妹的行動」のシミュレーションに励んだ。

 職場でも、小宮山係長の様子をできるだけ気に留めつつ過ごした。

 と言っても、あまりじろじろ見つめて不審に思われない程度に。



 そんな努力を始めて2週間ほど経った、7月初めの朝。


 係長のデスクで話す小宮山さんと部下の女の子の声に何となく意識を注ぐと、切れ切れな言葉を耳が拾った。


「——大丈夫よ。ただ、今日はちょっと頭痛がね」

「嫌ですよね頭痛。女ってほんと損!ってしょっちゅう思います」

「ふふ、そうよね。

じゃ、この資料のファイリングお願いね」

「はい。すぐやりまーす」



 そう言えば、ここ数日、表情も顔色もあまり冴えないように見える。

 仕事も常にいっぱいいっぱいだし……彼女、本当は心身共に相当キツいんじゃないだろうか。


 自分の仕事を進めながら、俺はそんなことを頭の隅で考え続けた。


 そして——

 気づけば俺の心は、昼休みを今か今かと待ちわびていた。





 昼を告げる小さなベルの音が社内に流れると同時に、俺はがっと立ち上がり、彼女のデスクへと向かった。


 歩み出す瞬間、五十嵐さんと目が合った。

 彼の眉が片一方、くいっと楽しげに持ち上がる。


『がんばれ』


 どうやらそんな意味合いらしいそのサインをしっかり受け取り、俺は彼女の前へ歩み寄った。




「——あの、係長」


「……ん?

どうしたの篠田くん?」


 俺の呼びかけに、小宮山係長は忙しげな思考を止めて俺を見上げる。

 そんな彼女の眼差しに、まだ何もやってないうちから俺の心臓は勝手にぎゅんぎゅんと走り出す。くそっ、主人に従えこのアホ心臓!!



「あっあの…………

大丈夫ですか」


 心臓の手綱を全力で引きつつ、何とかそう問いかけた。


「——え?」

「あっ、いえその……

今朝、少し頭痛がする……って、話してましたよね?

それに、顔色もあまり良くないみたいですし……」


「あ……

気にしててくれたの?ありがとう。

男の子なのに、そういうとこ気づいてくれるんだね。嬉しいわ。

んー、今日の頭痛はなんだかしつこいんだけど……まあ、女には良くあることだしね。

あ、ほら、そんなことより早くランチ行ってらっしゃい。時間なくなっちゃうわよ」



「……はい。

あの……」


「——どうしたの?」



 ……ああ。

 チャンスの神様の前髪が、すぐに掴める顔の前でふわふわと揺れている。


 ——チャンスの神様には、前髪しかないそうだ。

 つまり、一旦通り過ぎてしまった好機は、追いかけていくら手を伸ばしても決して掴むことはできない、という意味だ。


 そんなことわざを不意に思い出し、心拍数が一層ばくばくと上昇していく。



 ——チャンスを逃すな。絶対に。

 このまま回れ右したい自分自身が逃げられないよう、心の中で足の甲にガンガン釘を打つ。


 腹を据え、一つ大きな呼吸をして、切り出した。


「あの——

緑に囲まれてて、人もあまり来ない静かな場所、知ってるので……ビジネス街の奥の小さな遊歩道にある、ベンチなんですけど。

俺、疲れたりした時、よくそこで昼食べるんです。

ここから近いですし……案内しますので、よかったらそこでランチしませんか?」


 俺は、自分の背をバシバシと死ぬほど叩きながら、そんな台詞を言い切った。


 彼女の恋人ポジションは、狙っていない。

 ただ単に、俺は彼女の体調を気遣っているだけだ。

 彼女を愛する、妹の気持ちで。


 これまでの入念なシミュレーションが効果を発揮したのか、最重要な台詞はかなり自然に、穏やかに言えた……ような気がする。



 そんな俺を、少し驚いたようにしばらく見つめてから——

 僅かに緊張を緩めたように、彼女は微笑んだ。


「……ありがとう。

篠田くんの気持ち、すごく嬉しい。


けど……私、実はすごく変な癖があってね。ランチタイムも屋根とテーブルがないと、仕事も何もできない気がして落ち着かないのよ。我ながらバカみたいにワーカホリック。

……それに最近は、外の日差しもだいぶ強くなってきちゃったしなぁ」



「…………そうですか。

なら、無理にお誘いしちゃダメですね。

——すみませんでした」



 ああ——

 第2弾も、どうやら失敗だ。


 そううまくはいかないんだよな。やっぱり。

 だって……結局、とんでもなく高嶺の花なんだ、彼女は。



 静かに沈んでいく思いで頭を下げ、踵を返した。

 バカみたいにガッカリした顔とか、するんじゃないぞ。さりげなくだ、あくまでも——今は。


 泣くなら、家に着いてからにしろ。




 そんな俺の耳に、明るいトーンの声が追いかけてきた。


 ——戸惑うような間を一瞬開けて。



「……んー。

でも、今日は外でランチしてみようかな。

外で食べるのすごく久しぶりだし、気分転換にもなりそうだし。


じゃあ……篠田くん、私をそこへ案内してくれる?」




「————……」



 耳にした言葉が半ば信じられずに恐る恐る振り返ると、小宮山係長はふふっ、とでもいうような楽しそうな笑顔で俺を見つめていた。



「え——い、いいんですか?」


「ええ。

時にはこんなふうに、かわいいぴちぴち部下くんの話も聞いてみたいしね」


 どこかお茶目な目つきでそんなことを言うと、彼女はちょっと首を傾げるように笑いかける。

 美しいポニーテールがさらりと頰にかかったその笑顔が……

 ちょっともう、想像したことない破壊力で……

 俺は、思わず崩壊しそうになる足腰を全力で踏んばった。

 おいっ死んでも今倒れんじゃねーぞ俺っっっ!!!



「…………っっ……

はっはいっ……ではあの、ご案内します……」



 破裂寸前の心音と湯気の出そうな顔を何とか誤魔化し、俺は何とかそれだけ呟いた。



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