2.


 そこは、赤い花で満たされた空間だった。


 花びら一つそよぐことのない温室の中に一つだけ、赤くて黒い影が舞っている。


「……おや?」


 その影が唐突に動きを止めた。彼の動きにあわせて揺れていた深紅の振袖も、その中に着付けられていた黒のイブニングコートも、シルクハットから長く垂れ下がった深紅のリボンも、興が冷めたと言わんばかりに動きを止める。


「キミがここに来るなんて、珍しいねぇ」


 その視線の先は入口に程近い一本の柱の元へ注がれている。


 そこに、いつの間にか漆黒の影が現れていた。


「ここの花を受け取りに来るのは、鈴見クンの役目じゃないのかなぁ? うん?」


 いかにも愉快そうな態度と道化じみた首の動きに龍樹は眉を撥ね上げた。


「わざわざキミが来たということは、何か他人に聞かれたくない話でもおありなのかな?」


 龍樹は不機嫌を隠すことなく瞳を細めた。


 いつまでも黙ったままでは彼のペースに呑まれる。話の切り口を探っていた龍樹は、結局単刀直入に口火を切った。


黒羽くろう。花の行方は、全て覚えていると言っていたな」

「もちろん。だって僕は死人花リコリスの管理人だからね」


 不機嫌を隠すことのない龍樹に対し、黒羽は龍樹が登場してから一切変わらない喰えない笑みのまま答えた。


「最近、白彼岸が大量に持ち出されたはずだ」

「知ってるよ? 正式辞令じゃなかったヤツだよね?」

「犯人は」

「どうして僕が教えなければいけないの? キミは部外者でしょう?」


 殺意さえ見せる龍樹に、黒羽は軽く首を傾げ、語尾に笑みをにじませた。


掃除殺し以外の仕事は、全部『黒』の名を持つ者の役目だよ? キミは完全に門外漢のはずだけど?」

「綾が巻き込まれていると言ってもか?」


 その言葉が一瞬、黒羽は理解できなかったらしい。耳慣れない異国語を投げかけられたかのような顔で黒羽は龍樹の方へ向き直る。


「……へぇ」


 だが龍樹は、その変化の全てが道化だと知っている。


 このリコリスにおいて、この男が知らない情報があるわけないのだから。


「酔狂なヤツもいたものだね。よりにもよってキミを敵に回そうなんて」


 ようやく道化の笑みを脱ぎ捨てた黒羽に、龍樹は冷めた視線を返した。冷え冷えとどこまでも冷たくなっていく龍樹の瞳に黒羽は底の見えない笑みを向ける。


「だから今日は緋姫あけひめを連れていたんだね。キミが彼女を仕事の時以外に持ち歩いているのは、久しぶりに見たよ」


 龍樹はその言葉に鬱陶しそうに頭を振った。その拍子にベルトに挟んだ日本刀緋姫が抗議の声を上げるかのように音を立てる。それをなだめるかのように龍樹はやわらかく左手を柄にかぶせた。


「その足で星を眺めに行くつもりなんだね」


 そんな龍樹を眺めていた黒羽は不意にクスッと笑い声をこぼした。弧を描く口元を、指先を包んでなお余る袖元が優雅な動きで隠す。


「キミの唯一絶対を奪おうとする、災厄の原因ホシを」

「……そんな大げさなものじゃない」


 龍樹の無表情の中にわずかに感情がにじむ。黒羽の言葉遊びに苛立ちを見せる龍樹の顔は、無表情よりよほど冷めていた。綾の前では絶対に見せない、今では知る者も少なくなった龍樹の本当の姿が黒羽の前にさらされる。


「ただ使えないクズどもに教えてやるだけだ。白彼岸の使い方というやつを」


 絶対零度という言葉が生ぬるく聞こえるほどの声はスルリと龍樹の喉からこぼれていた。綾がこの場にいたら思わず身をすくませていたであろう声。ああ、いまだにこんな声が出せたんだなと龍樹の心のどこかが呟く。


「おやおや。珍しく本性をさらしておいて、まだ言い張るのかい?」


 痛いほどの殺意を前にしているというのに黒羽はにたりと笑みを深めた。まるで面白い玩具オモチャを見つけたとでも言わんばかりに。


「それに、お師匠様に向かってそんな口の利き方をするなんて、いただけないねぇ? 龍樹。物事を訊ねる時の礼儀くらい、わきまえているだろう? うん?」 


 その言葉に、龍樹の心がまたしんと冷たさを増した。


 孤児だった龍樹を引き取り、掃除人として仕立て上げたのは黒羽だ。龍樹と黒羽の間に、血縁や何らかの縁があった訳ではない。強いて言うならば、龍樹は選ばれたのだ。緋色の殺戮姫を操り、白華を降らせる、掃除人殺しの掃除人となるべく。


 時の流れも、過ぎゆく季節も知らないこの彼岸花の園の管理人は、龍樹を完璧な殺戮兵器として育て上げた。


「あーあーあー……。キミが口の利き方を知らないせいで、鈴見クンは死ぬんだねぇ? キミ個人でも相手を割り出せない訳じゃないだろうが、圧倒的に時間が足りないもんねぇ? だからキミはわざわざここに来たんだろう?」


 彼岸花の園の管理人に身をやつした、リコリス事務方『黒』最高峰・黒の一番席に座す情報処理官、黒羽。


「キミの中で鈴見綾は相当重い存在なんだと思ったんだけどなぁ。なりふり構っていられる状況じゃないはずだろうに、結局キミは自分の意地を張り続けるつもりなのかい? 結局はその程度なのか、面白くないね」


 赤くて黒い悪魔の手で仕立て上げられた龍樹は、黒羽の、リコリスの思惑通り、師に似通った化け物に育った。


 実働部隊最高位『赤』三番席、赤椿。


 対内部異端分子処分官『白華しらはな』。


 そのどちらもが、掃除人にさえ畏怖を与える称号。この二つを背負うことが龍樹に課された存在理由。


 だが龍樹がそこに至るまで己を磨き続けた理由は、決して負わされた存在理由のためではなかった。


教えないのか死にたいのか


 ――……俺がもっと出世したら、赤谷沙希あかやさきの価値は上がりますか?


 以前、水底のような部屋で、問われたことがある。


 似たような問いを、龍樹も心に抱いたことがあった。


教えるのか死にたくないのか


 ヒョンッと風が鳴る。一陣の風に撫でられた黒羽の衣がふわりと舞い上がり、すぐに舞い降りた。赤と黒の幻影の中に血染花リコリスよりも鮮やかな赤の飛沫が舞う。


「……やってくれたね」


 イブニングコートの下に着こまれた白の詰襟シャツを切り裂いて、黒羽の首筋からは一筋、朱色の雫がこぼれ落ちていた。抜刀から納刀までを瞬きよりも短い時間で完結させた龍樹は、黒羽の言葉には答えず感情さえ凍らせた瞳で黒羽を射抜く。


 龍樹が『赤』の三番席に叙されても、掃除人殺しの掃除人となっても、リコリス内で鈴見綾の価値は上がらない。なぜならば綾は人質としてリコリスに捕らわれている訳ではないから。鈴見春日や赤谷沙希とは立場が違う。


 それでも龍樹は、綾を守るために分かりやすい強さを欲した。綾の隣にいる自分に力があれば、綾を害する何もかもを秘密裏に潰すことができると分かったから。自分の存在理由よりも、そっちの理由の方が龍樹にとってはよっぽど重要だった。


 何もかもを押し通すことができる権力を保持して、綾の隣に立つ。綾を守るために龍樹が選んだ道が今の形だった。ある程度上層部に喰い込まなければリコリスの切り札である『赤』を誰が肩書きとして持っているかなど分からないから、現場に平の掃除人として潜り込むこと自体は難しくなかった。現に普段直接綾と龍樹を使っている上官は龍樹の真の階級を知らない。……綾にまで己の正体を伏せたのは、綾に恐れられたくないという、龍樹の勝手な都合なのだが。


「……前言を撤回するよ。鈴見綾がかかれば、君はここまでの口を利くことができるんだね」


 黒羽は首筋を押さえたまま苦笑をこぼした。今まで纏っていた道化師の笑みではなく、師としての顔をのぞかせて。


「いつの間にか、ちゃんとした人間になっちゃって……。僕はそんな風に君を育てたつもりはなかったんだけどなぁ」

「育てたつもりはなくても、望みはしたんだろ。……そうでなければ、なぜ俺を遠宮の家に養子に出したんです?」


 黒羽の手によって仕立て上げられた龍樹は、完璧な掃除人だった。任に臨むにあたって個人的な感情を抱くことなどなく、ただ淡々と忠実にリコリスからの命令をこなす。かつての龍樹は、今よりよほど機械じみた殺戮マシンだった。


 そんな龍樹を変えたのは、黒羽の元から再び養子に出された先で出会った遠宮家の住人達……当時『遠宮綾』という名前だった幼馴染と、その両親だった。


 黒羽には初めて出会った時から振り回され続けている龍樹だが、遠宮家への養子縁組という気まぐれだけには唯一感謝している。


 龍樹はそこで、感情というものを知った。龍樹を掃除人として仕立て上げたのは黒羽だが、龍樹を人間として育て上げたのは遠宮の両親だ。


 だから龍樹は時々、疑問を抱くことがある。


 なぜ黒羽は、あえて自分を遠宮家へ養子に出したのだろう。掃除人としての完璧さを求めるならば、あのまま自分の手元に残しておいた方がよっぽど良かっただろうに。少なくとも龍樹が感情を知り、綾という唯一の存在を心に抱くことさえなければ、今のこんな面倒な状況が作り出されることもなかったはずだ。


「僕はこの変化を望みもしたし、望みもしなかった」


 龍樹の視線にさらされたまま、黒羽は踊るような足取りで彼岸花の園の奥へと歩き出す。カツリ、カツリ、とブーツの高い踵が、温室の石畳を鋭く叩く。そのゆったりとしたリズムが、龍樹には何かのカウントダウンのように思えた。


「……なぜだろうね。理由なんて、僕にも分からないんだ。本当に、あの時の僕の気まぐれさ。……ただ僕はあれからずっと、キミがこの変化を肯定的に受け入れているというのならば全力で変化の根源を守ればいいし、キミがこの変化を否定的に受け入れているというのならば全力で変化の根源を殺せばいいと……そう思ってキミを見てきた」


 禍々しいほど赤い絨毯じゅうたんを作り出す花園の先に、異端の色がのぞく。黒羽はゆったりと、だが真っ直ぐに、その区画に向かって足を進めていた。


「でも、キミの心は、僕の思惑なんて関係のない所で、とうの昔に決まっていたんだね」


 呟く黒羽の指先が無残に切り取られた彼岸花の茎に触れる。切り取られた彼岸花はその一本だけではなかった。赤く血塗られた花園の中、唯一無垢な色の花を咲かせていたのであろうその一角は跡形もなく花が切り取られてしまっている。


 その寒々しい景色を背にして、黒羽は龍樹の方へ振り返った。


「教えてあげるよ。白彼岸を持ち出したクズの名を。僕のつまらない言葉遊びに付き合せてしまった埋め合わせとして」


 道化師の瞳には決して感情が映らない。


 何かの本で読んだ言葉を、龍樹はふと思い出した。


「そいつに教えてあげるといい。キミの大切な存在に手を出すとどうなるかを。リコリス中が震撼するくらいに鮮やかに」


 笑みの形に細められた赤みがかった瞳に答えるかのように、龍樹の腰の緋姫が微かに音を立てた。

 



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