2.



 青い空がどこまでも続いていく。


 その中に飛び込んでいきたいという衝動は人ならだれもが抱いたことのある夢だろう。そしていくらかの愚かな人間はそれに抗いきれずに跳んでしまう。翼のない人間は重力に従って落ちていくしかないのに。


「……ゆめに堕ちていく愚者にんげん、か………」


 フェンスに背を預けた龍樹は小さく呟いた。吹き上げる風が龍樹の髪と衣服を揺らしていく。それにあわせて物干し台を占領する白いシーツが翻った。


 綾が義母の見舞いに行っている間、龍樹はここで時間をつぶしていることが多い。雨の日はさすがにこんな所にいられないが、綾が晴れ女なのか、それともちゃんと日を選んでいるのか、見舞いの日が雨になることはほとんどない。


「もうそろそろ、か……?」


 ベルトに繋いだ懐中時計をポケットから取り出して眺める。燻銀に細やかに力強い細工が施されたこの時計は、もともと綾の実父の持ち物だった。


 綾の実父は龍樹から見れば義父に当たる。幼心にも大きな人だったということは覚えている。だが思い出の中にしかいない人の面影は時という風にさらされていく中で少しずつぼやけていく。


 忘れたくないと強く思っているのに、時というのはとても残酷だ。龍樹がこの十八年の人生の中で忘れたくないと思った人物は、片手の指で足りる人数しかいないのに。


 龍樹は小さく溜め息をつくと丁寧に時計を戻した。その瞬間、屋上に続く扉がきしみながら開く。その向こうに見慣れた栗色のツインテールが揺れた。


「綾」


 綾の位置からでは自分が見えないかもしれないと龍樹は声を上げる。その声に顔を上げた綾は一瞬泣きそうな表情を見せた。綾はそのまま顔を伏せて龍樹の胸の中に飛び込んでくる。


「っ……おい、苦しいだろう……」


 が、と文句を言おうとした龍樹は、視線を下げながら言葉を止めた。


 そしてそのまま、無言で視線を上げる。


「……おふくろさん、どうだった?」


 しばらくの空白の後、龍樹が口にした言葉は当たり障りのないものだった。


「夢を、見るんだって。とっても幸せだけど、でも、少し悲しい夢」


 揺れてかすれる聞きとりにくい声で、綾は龍樹の胸に顔をうずめたまま話し始める。


「お母さん、空を飛ぶんだって。何も遮るものがない、綺麗で、広い空を」

「……ああ」

「でもね、お母さん、お父さんが隣にいないから寂しいんだって」

「……そうか」


 綾は小さく鼻をすするとキュッと手に力を込めた。小さな手に握りこまれたシャツに皺が寄ったのが見なくても分かる。


 それでも、龍樹は文句を言わなかった。


「たっちゃん、どうしよう……」


 綾は幼子のように呟く。


「このままじゃ、お母さんどっかに行っちゃうよ……っ!!」


 悲痛な叫び声に龍樹は目を細めた。


 綾は、分かっているのだ。義母に死期が迫ってきていることを。


 綾と違い龍樹の元には様々な情報が集まってくる。その中には綾の義母に関するものも入っていた。だから龍樹は、多分綾よりも多くの情報を握っている。だがそれを綾に伝えたことはない。


「どうすればいいの……っ!? どうすればお母さん、綾の所にいてくれるの……っ!?」


 もって、半年。


 それが綾の義母、春日かすがに残された時間だ。


 綾はあと半年で、また身内を失うことになる。


「ねぇたっちゃん、たっちゃんは難しいこといっぱい知ってるでしょ? いつも難しいことにも、ちゃんと答えてくれるでしょ? だからこのことだってきっと、いい作戦があるんだよね?」


 綾が実の両親のように義母・義父を慕っていることを知っている。だからもう、あの時のような思いを綾にさせたくはなかった。


 だからずっと、黙っていた。


 でもそれは、龍樹の自己満足にしかならなかったのかもしれない。


「ねぇたっちゃん、その作戦、綾にも教えて? ね?」


 ただの無邪気な少女でいられた頃の口調で言い募る綾の顔を龍樹は無理矢理掬いあげる。涙の膜が張った色素の薄い瞳を正面から見つめて龍樹は唇を開いた。


「あーちゃん」


 それは、古い名前。


 ただの無邪気な少年ではいられなかった、だが人生で初めて『幸せ』という感情を知った頃の自分が使っていた綽名あだな


「あーちゃん、僕にはね、分かんないんだ」


 綾の口調にあわせて龍樹も幼い頃に使っていた口調を持ち出す。


 あの頃よりも低くて、感情がこもるようになった声で、諭すようにゆっくりと言葉を紡いでいく。


「多分僕には、あーちゃんのお母さんを止めることはできない」


 その言葉に綾の瞳が大きく揺れた。


 綾にも、そのことは分かっているのだろう。でも受け入れたくないから、龍樹に否定してもらいたがっている。


「生まれ持った命が一つだけという常識があるのと同じように、どれだけ抗っても死は避けられないものなんだよ」


 ――だからね、あーちゃん。


 龍樹はゆっくりと、綾の心にしみ込ませるように言葉を続ける。


「あーちゃんが考えるべきなのは、あーちゃんのお母さんに残された時をどうやって一緒に過ごすかなんだと、僕は思うよ」


 実の両親を龍樹は知らない。だから親を慕うという気持ちを本心から理解することはできないのかもしれない。


 それでも、綾の実父達に育てられ、今まで綾の心を誰よりも身近で感じてきたから、言うことができる。


「あーちゃんのお母さんは、少しでも長くあーちゃんと一緒にいたいんだと思う。あーちゃんのお父さんとも。……だから、あーちゃんのお母さんの死をあーちゃんが怖がって、『お母さんを助けるため』っていう逃げ道を使ってそのことに向きあわないのは、一番いけないことだし、一番あーちゃんのお母さんを悲しませると思う」


 自分でも不器用だと思う。もっとましな言葉があるだろうに、今の龍樹にはその言葉が見つからない。


 いつもそうだ。リコリス幹部を黙らせるためならいくらでも口が回るのに、綾が相手になると途端に回転が悪くなる。


「……たっちゃんは、知ってたんだね」


 自分に舌打ちしたい心境にかられる龍樹に向かって、綾は密やかに呟いた。


「お母さんが、もう助からないことを」


 一瞬、龍樹はその言葉を否定しようとした。


 だが溜め息と共に出てきた言葉は考えていたものとは全く別の物。


「ああ」

「知ってて、黙ってた?」

「ああ」

「いつから?」

「春日さんが入院して、数カ月たった頃から」


 つまり綾が養子になる、その前から。


 綾に春日の余命について問われたことは一度もなかった。だから龍樹はここまで嘘をつかずに済んだ。問われないから口にしない。その理屈で自分を納得させてきた。


 でもそれは……


「怒っていいぞ」


 ただの、ズルだったのかもしれない。


「ううん」


 綾はその言葉に首を振った。高く結った髪がふわりと横に広がる。


「ありがとう」

「……礼を言われる筋合いはない」

「だって気を使ってくれたんでしょう? 私に」

「……俺の、ただのエゴだ」


 小さく呟いて視線を逸らす。それに綾がクスリと笑ったのが分かった。


「ねぇたっちゃん。一つ、訊いてもいい?」


 龍樹は視線を逸らしたまま答えない。それなのに、綾は勝手に問いを口にした。


「人は死んだら、どこへ行くのかな?」


 綾が問いを口にしたら答えてやらなくてはいけない。


 それは昔、龍樹が勝手に作ったルールだ。


 答えてやらないと綾は癇癪を起こす子供だった。そしてその性状は今になっても変わっていない。自分の穏やかな日々を守るために龍樹は頭を使って綾の問いに答えてやらなくてはいけない。昔から、考えることは龍樹の仕事だった。


「どこ……か………」


 人は死んだら終わり。

 次もなければどこもない。


 死んだ先に待っているのは無だ。


 龍樹はずっと、そう思ってきた。


 だが今だけは、そう思いたくなかった。


「空へ、帰るんじゃないか?」

「そら……?」


 綾は目をぱちくりさせた。龍樹ならもっと現実的なことを言うと思っていたのか、それとも綾の考え方も龍樹と同じだったのか。


「ああ。遮るものの何もない大空に憧れを抱いていた春日さんなら、尚更」

「空、か……」


 綾は少し考え込んだようだった。でも最後は、いつものようににっこり笑った。


「そうだといいね」



 時々、夢を見る。

 どこまでも美しくて、残酷な夢を。


 空に手を伸ばす。

 でも自分の手は血にまみれていて、決してその美しい青に溶けてはいかない。


 その空に、大切な人が吸い込まれていく。

 叫んでも声は届かず、その人は幸せそうな笑みを残して逝ってしまう。


 そして地に残るのは紅く染め上げられた自分だけ。

 一人孤独な叫び声を上げて、その声がひたすら無慈悲な青の中に響く。



 そんな、空の夢を。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る