第4話 復讐の鬼(後篇)

「こんな馬鹿なことが!」 


 イザークはテーブルに肘を着いて、頭を抱えていた。


 頭の中がめちゃくちゃだ。


 自分は、ただ捨てられたのではなく、父の野望のために殺されかけていたのだ。

 悪魔の住処に捨てられ、赤子の自分は何も抵抗できないまま死ぬしかなかった。だがそれを救ったのが、アリスターの悪行を別のところで目撃していたマリアだったのだ。

 母、秋坂・クレア・笙の身体は瞬く間に深く深く沈んでゆき、伸ばした手は笙に届かず、呼吸が限界に近かった彼女は、まだ生まれて一ヶ月も経過していなかったイザークだけを助けたのである。


 受け入れがたい己の過去に吐き気を覚えた。


 全身ががたがたと震えた。

 恐ろしい、なんと恐ろしい人間がいたものか。そんな男が自分と血の繋がった父であるなど、イザークは信じたくなかった。

 しかし、心のどこかで感じていた。憶えているはずのない赤子のころの、あの崖の上で、初めて父の腕に抱かれたあの日のことを、イザークは思い出すような心地だった。


「真実はもう一つございます」


 Kが冷静に言うと、イザークは真っ青な顔を上げた。


「あなたのお父様は自ら道を踏み外しました。そして、生贄となるはずだったあなたの魂を探して、自らの手で下級悪魔へと差し出そうとしているのです」


「どういうことだ、それは」


 イザークはごくりと唾を飲み込んだ。


「……父がおれを殺そうとしている……?」


 Kは鋭く目を光らせて、頷いた。


「あなたの魂には禍々しい悪魔の手が絡みついています。その呪われた手は、あなたの周りの人間を不幸にする。あなたから大切なものを奪うために。あなたを、深い闇へ陥れようとしているのです」


「マリアが死んだのは、そののせいなのか」


 Kが頷く。

 イザークはテーブルの一点を見つめたまま、身動ぎ一つしなかった。

 やがて、


「この手を消すためにはどうしたらいい」


 と、掠れる声で、しかし力強く訊ねた。


「アリスター・オルコットを殺すこと。それが、その呪われた魔手を消すたった一つの方法でございます」


 イザークは、彼女の言葉を噛み締めるかのように、心の中で何度も反芻した。


 ――アリスター・オルコットを殺す。アリスター・オルコットを殺す……。


 たちまち、自分の中に意志が芽生えてくる。


「そうか……そいつをこの手で殺す。間接的にマリアを殺した……アリスター・オルコット! 覚えたぞ。そいつ、絶対殺す」


 イザークはこの世に存在する憎しみのすべてを凝固させたような声で言った。


「一つだけ忠告させていただきます」


 Kは慎重な声で言う。


「相手は、下級とはいえ、悪魔に魂を売った男。ただの人間を屠るのとはわけが違います。アリスター・オルコットは、あなたがまだ生きていることで完全に悪魔あちら側の領域には達していませんが、今持ちうる全てのちからを駆使して、保留になったあなたの魂を血眼になって探しているはず」


「どちらにしろ、なにもしなければおれは死んでいるのと同じさ。向こうがおれを探し出すより早く、おれが奴を先に殺す。それが、マリアを失ったおれに与えられた生きるための試練だ」


「ここで何もしなければ、あなたはいずれアリスター・オルコットに殺されてしまいます。しかもその魂は、下級悪魔に喰われて永久に囚われたまま」


 イザークは立ち上がった。

 その目には力強い炎が揺らぎ、先ほどまでの生きた屍のような姿は何処にも存在しなかった。


 彼は、握り締めていた財布をそのままKの前に置き、家へ引き返そうと踵を返した。


「お待ちを」


 と、Kはイザークの背中を呼び止めた。


「お代は結構。ワタシが勝手に喋っていたことですもの」


「……しかし」


「いいえ、受け取れません。これはあなたの復讐に必要なお金です」


 Kは立ち上がると、痩せた少年の手に金貨の入った袋を握らせた。

 濃く、長い睫毛に縁取られた緑色の瞳に見つめられ、イザークは財布を受け取り、「ありがとうございます」と頭を下げて、その場を後にした。


 彼の背中に向かって、Kはいつまでも手を振っていた。




 翌日から、イザークは旅に出た。

 父を殺すための剣を携え、母の仇をとるための旅路を進み始めたのだ。


 という名を自分の心にしまいこんだのも、この時だった。

 復讐に生きる自分に、このような立派な名前を掲げる権利はない。

 それに、もう、イザーク……この名前を呼んでくれる人はいない。名無しも同然だ。


 マリア・ハーレイの息子、イザークは、復讐に生きる鬼となり、その名を封印した。


 、十六歳の冬である。

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