観世由那の些細な日常

葉桜真琴

第1話 世界のコップを破壊せよ

 放課後の教室は、この世界の中で二番目に好きなものだ。窓越しにわずかに感じる、グラウンドを走る運動部の人たちの気配、包み込むような飴色の日差し、人気がなくなりつつある校舎をこだまする誰かの声、自販機で買ったジュースを誰にも邪魔されずに飲む時間。

 穏やか、平和、それは私にとってとても甘美で――少しだけ、毒なのだ。

 だから私は机の上にとろけるようにして突っ伏し、昼寝前の猫のような声で、こんなことを言ってしまうのだ。

「暇だなあ」

「そう、どれくらい退屈?」

「うーん、とろけるくらい?」

「それは大変ね。明日の日直の人が気の毒だから早く元に戻した方がいいと思うわ」

「あー……明日の日直って誰だっけ」

「今日が芥子けしの日直だったから……あ、私だわ」

「そっかぁ、芥子の次は栞ちゃんかー」

「そうね。こういう時ばかりは、この言ノ葉の名が恨めしくなるわ」

「んー、でも私は、どうせ掃除されるなら栞ちゃんがいいかなぁ」

「友達を掃除するハメになる私の身にもなってくれない?」

 栞ちゃんは私の大切なお友達だ。私のこれまでの生の中で一番の相性がいい人間と言っても過言ではない。そんな子が、溶けた私の掃除をさせられることになったときのことを想像してみる。きっと、先生や男子がくだらないことを言って、くだらない難癖をつけて栞ちゃんを名指しして、全部が終わった後もくだらないことを栞ちゃんに言うんだわ。

 あぁ、そんな悲しいことは、今向かい合わせにした机の先にいる栞ちゃんには、絶対にさせたくないかな。

「栞ちゃん、決めたよ、私」

「あら、何を決めたの」

「栞ちゃんのために、溶けないことにするね」

「そう、でも、退屈なんでしょう」

「栞ちゃんといる間は退屈しないんだけど……」

「さっき、私が目の前に居るのに暇って言わなかった?」

「あっ」

「独り言みたいなものかしらね、無意識、的な」

「世界が停滞しているみたいな。今日ね、マーさんが言ってたの」

 マーさん、と口にすると、栞ちゃんは一瞬、「あ?」とでも言いたげな表情を浮かべ、記憶を探るようなそぶりを見せた。

「体育の前田?」

 私はこくこく、と頷いた。

「マーさんなんてあだ名初めて聞いたわ」

「今つけたの」

「あっ、そう。明日からよく使われるでしょうね、そのあだ名。気の毒な事」

「それでね、マーさんが言っていたの、コップに入れて止まったままの水は澱むんだって」

「それはそうね。なぜ体育の授業でそんな話になったのかは一ミリも理解できないのだけど」

「で、聞くのよ。コップの水が澱まないようにするにはどうすればいいか、って。それで私、言ったの」

「あ、由那に聞いたのね」

「コップを割ればいいんじゃないですか、って。そしたらね、マーさん困った顔で『割らなくてもいいんじゃないかな~』っていうのよ」

「マーさんよわっ」

「で、私言ったの。『水を世界の中身とか人々だとして、コップがルールとか、その他いろいろな面倒なものだとしたら、それ割って自由にした方が早くないですか』って」

「教え子に突然、世界レベルの講釈を垂れられて戸惑うマーさんの姿が目に浮かぶわ」

「狼狽えてた。めっちゃ狼狽えてた」

 その時の光景を思い出しすとなんだかおかしくなってケラケラ笑えてきた。しばらくそうしていると、栞ちゃんが言う。

「由那がそうしていると、なんだか私までおかしな気分になってくるわ」

「いーじゃん、なろうよ、一緒におかしくなっちゃおうよ。そうしたらもう一生退屈しないかも」

「ふふっ、そうなったら人類終わるかも。でもそれもいっか」

 ふふっ、あははっ。

 こうして、私と栞ちゃんは終業のベルが鳴るまで、飽きることなく笑い続けたのでした。


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