落日の都 M_ep
@yagasuri
エフェネミラル
――ひそやかに落暉の姿宵を呼び
屠られし花の香りにまた落つる――
教師はいつも憐れむような目をして彼女らを見つめた。
エフェネミラル――ミラは、その目が心底嫌いであった。
ドリシア、エレナ、そしてミラ。銀糸のような髪のよく似た三名の王女は、揃って王室専属教師の講義を受けることがあった。年齢も近いゆえ丁度よかろう、というのがもっともらしい理由である。
「本日は聖職者の役割について学びましょう。ではエレナ殿下、彼らの果たすべき役割とは?」
指されたエレナの耳がひくりと動く。
その様子をミラは無感動に一瞥した。柔らかな獣毛に覆われたエレナのそれは、彼女が決定的に別種のいきものであることを示すもののひとつである。セニムが統治しセニムが大多数を占めるこの国では、当然のように異端視されるものだ。ましてエレナは
「ええと、人民の心を安んずること……?」
「それが最大の責務といえましょうね。勿論それだけではありませんが――ドリシア殿下?」
ドリシアは長い睫毛を伏せたままで、教師へ視線を向けることもなかった。
≪人形≫と呼ばれている彼女を当初こそ憐れにも思ったものだが、その様子を間近に見ていると、言いようのない苛立ちがミラの腹を内からちくちくと刺してくるような気がした。
「教育機関でしょうか」
抑揚に欠ける声は、まるでドリシアが自ら人形たろうとしているようにさえ聞こえる。
「はい、特に貧困層の底上げには一定の効果を認めても良いでしょう」
エフェネミラル殿下はどうお考えですか、と穏やかな声が尋ねる。
異母妹たちに向けた視線をそっくり横に移動させて、全く同じ目つきでミラを見るのだ。いっしょにするな、と叫びたかった。
表に立ってはならぬ者。陽のあたらぬところに座すべき者。それらへの視線を自身にも向けられることは、ミラにとって耐え難い屈辱であった。
それでいて声をあげて反発することはできず、ただ
「
「虚像?」
「統治者に向けられるべき悲憤慷慨の受け皿とも」
「――そうですね、民衆は畏れ多くも陛下や王室に不満を抱くことがあります。それを鎮める役割もあると言っていいでしょう」
教師はミラの発言を、王室にとって極めて好意的になるよう言い直した。
ミラはこれが嫌いであった。
王室に雇われた教師からは、結局のところ同じ答えしか出てこない。
他の近い年頃の王女たち――ジャネットやアリアンロッドとは絶対に机を並べぬであろうことも、侮蔑とも憐憫ともとれぬ視線を向けられることも、答えがすべて決まっていることも。
ミラはなにもかも嫌いであった。
◆
王室で息をしてはならぬのだと、薄々気付いていたそれが確信へと姿を変えたのは十二の頃であった。
その頃のミラは既に、居心地の悪い王宮を抜け出し、城下を訪れるのが常となっていた。
「
交易の中心たるアレジア王都パトリアには世界の富の半分が集まるという。流石にそれは誇張であろうが、そう謳われるだけの人や物が集中することは確かであった。
その中には当然、形のないものも含まれる。即ち学問においてもパトリアには粋が集まっているといえよう。
最高峰といわれる王立学院は無論のこと、街のあちこちに私塾も開かれている。
ミラが飛び込んだのは、そういった私塾のうちのひとつであった。
「久し振りだね、ミラ」
"先生"と呼ばれた初老の男は、この私塾の主だ。ミラのような不定期にやってくる子供をとくに咎めもせず招じ入れる奇特な人物である。
ミラが「うん」とだけ返事をして黙り込んだのは、走ってきたミラへ彼が小さな林檎を投げて寄越したからだ。しゃり、という音とともにはじける甘酸っぱい果汁は、熱くなった喉を鎮めてくれる。
異母姉たちはこんなふうに音を立てて林檎を食べはしないのだろう、との思いが過ぎったが、ミラは林檎とともにそれを飲み下した。
「今日の
「今日は休みでね」
「そうなのか」
ミラは目に見えて落胆した。
彼は神学を専門とするらしいが、知識の幅は神学だけではなかった。一つの話から次々と枝葉が広がり、圧倒的な思考と知の奔流を感じさせる"先生"の講義は、ミラにとってひどく魅力的であった。
「ちゃんと
「要らんよ、前回のがまだ残っとる」
ミラには現金の持ち合わせがほとんどない。手に入れる機会がないからだ。
そのため前回は身につけていた耳飾りを片方渡したのだが、それが講義を十回受けても釣りがくるほどのものとは、ミラには知る由もないことである。
「では、少し本を見てもよいか? 邪魔にならぬようにするから」
「好きに読むといい。梯子を使うときには言いなさい」
ミラははいと素直な返事をして、本を物色しはじめた。
窓から入る光が橙を帯びてきた頃、"先生"は立ち上がりミラに声をかけた。
「そろそろ戻らなくてよいのかね」
「ああ、もうそんな時間か」
ミラは本を置いて伸びをした。随分と集中していたらしい。
「帰る前に、先生。これは叙事詩だろうか?」
ミラが格闘していたのは随分と古い書物だ。言語も今とは大きく違い、何となく意味の予想がつく単語もあれば、今では使われていない単語やまったく意味の異なる単語もある。
「随分と難しい本に手を出したね。確かにこれは叙事詩だ。先代の王朝の興亡を記したものだよ」
「先代の王朝?」
「アレジアが建国される前にこの土地にあった国だ」
アレジアの建国前。その言葉はミラにとって晴天の霹靂であった。
「その国が――滅んだのか?」
「そうとも。人が生まれて死ぬように、国も生まれて死ぬのだよ」
「アレジアも滅ぶのか?」
身を乗り出して尋ねるミラの瞳には、悲嘆とも歓喜ともわからぬ炎熱がともっていた。
「いつかは滅ぶやもしれぬ」
「それは、いつ」
急くようなミラの問いに、"先生"はことさらにゆっくりと語りかけた。
「ミラ、人が生まれるときは、母親の腹が膨れる。死ぬときはどうかな。床に臥すこともあれば、何の予兆もなく死んでしまうときもある」
国も同じだよ。低く包み込むような声は、言葉でミラの頭を撫でているかのようであった。
「先生は、今アレジアが病の床にあると思うか?」
それは他意のない素直な疑問であった。街を歩けば、押し殺した声はいくつも耳に入る。
"先生"は急に視線を鋭くして、それ以上言わぬようミラに目配せをした。
素直は美徳だが、美徳が生きるうえで役立つとは限らない。十二の娘には、これまでそれを教える者がいなかったようであった。
「――それで、質問は何だね」
彼が努めて明るい声を出したのをミラは察知したようであった。蒼氷色(アイスブルー)の瞳を純粋な好奇心に満たして、本の頁を素早く繰る。
「この――詩だと思うのだが――これが、全く単語の意味がわからぬのだ」
音はわかるのだが、とミラはその部分を音読した。確かにその詩は文字こそ現在と同じであるが、今では使われていない言葉で綴られている。ミラは四行からなる詩の、ひとつの単語を指さした。
「この部分、エフェ・ネ・ミラル。偶然かもしれぬが、私の名なのだ。どういう意味なのだろうか?」
そう言って勢いよく振り向いた時に見た"先生"の瞳を、ミラは未だに忘れることができずにいる。
◆
本日はここまでにいたしましょう、と教師は本を閉じた。
王女たちはそれぞれの声音で「ありがとうございました」と教師を見送る。
彼は王室付きの教師の中では、ミラたちによくしてくれるほうだ。忌み子や混血にそうしたところでなんの得もないというのに。
実際、多くの教師は銀髪の王女らに近寄らぬ。講義をしに来ても、蔑むような眼を隠さぬ者もいる。それに較べれば随分な人格者である。
それでもミラは、彼が嫌いであった。彼の目が嫌いであった。
憐れむような目は、あの時の"先生"と同じ色をしている。
国の黄昏をうたったあの詩の意味を知った時と同じ色をしているのだ。
ひそやかに落暉の姿宵を呼び
屠られし花の香りにまた落つる
たとひわれ生まれざる明日招くとも
ミラに名を付けたのは、母であったという。
落日の都 M_ep @yagasuri
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