13-3



 ◆◇◆◇◆◇



「かなり衰弱しておられます」


 エルロイドの運転する自動車に乗ってやって来た医師は、深夜にもかかわらず嫌な顔一つせずに診断を終えた。


「原因は何だね?」

「老衰によるもの、としか」


 ドリズンの私室を出てから、エルロイドはややためらいがちに尋ねる。


「後どれくらい保つ?」

「分かりません。決して無理はなさらず、静養に努めて下さい」



 ◆◇◆◇◆◇



「……いやはや、お恥ずかしいところをお見せしました」


 マーシャがエルロイドと共にドリズンの私室に戻ると、彼はベッドで仰向けに横たわっていた。


「加齢は恥などではありません。我々にとって老いるとは、それだけ知識が増し加わっていることなのですから。あなたに比べれば、私などまだまだ若輩です。東洋では月とスッポンと言うらしいです」


 枕を背もたれ代わりにしてあてがい、辛うじて上半身を起こした形のドリズンは、エルロイドの言葉に目を丸くする。


「ははは、これはこれは。学生の時の君に聞かせてやりたい言葉ですな」

「いや、それは……ははは」


 やはり、エルロイドはドリズンの教え子だったようだ。何やら恥ずかしげな表情を浮かべつつ、エルロイドは頭をかく。


「まったく、我々が来るからと言うだけで、無理をするのはやめていただきたい。本当はそうやって、横になっているのが相応ではなかったのですか?」

「まあ、医者にもそう言われていました。ですが、せっかく私のバラを見に来てくれたのです。手ずから案内したいと思うのが人情ではないですか」

「バラはバラです。誰が案内しようと、美しいことに変わりはありません」

「まあ、それは百も承知なのですが。やはり……こう、手塩にかけたものを人に紹介するのは、誰にも譲りたくないのですよ」


 人情を意に介さない冷ややかな物言いは、エルロイドの平常運転である。けれどもそれに気分を害することなく、ドリズンは静かに尋ねる。


「ところで、エルロイド教授、それにお嬢さん。あの青いバラはどうでした? 君の研究する、妖精という生命体の干渉によるものだったのでしょうか?」


 年老い、衰え、死期が迫っていながらもなお、彼の口調ははっきりとしていた。ドランフォート大学の名誉教授にふさわしい知性をたたえつつ、彼はさらに言葉を続ける。


「だとしたら、いろいろ納得できます。たった一本だけ、突然青いバラが咲くという奇妙な現象。それが肥料や遺伝や病気ではなく、君の研究する妖精の仕業ならば、それはそれとして理解できます」


 そして彼は、まっすぐにエルロイドを見据える。


「教えていただけますかな? エルロイド君」


 それはあたかも、教え子に正答を要求する教師の姿だった。


「……確かに、私の助手はあのバラに妖精が住み着いていたのを発見しました。問いただすと、バラを染めたのは自分たちだと言っています」


 ややあってから、多少ためらいがちにエルロイドは口を開いた。その言葉は、ドリズンの予想した通りのものだ。


「では……」


 かすかに天井を仰ぎつつ、ドリズンは嘆息する。


「やはり、見果てぬ夢でしたか……」


 妖精によるバラの染色。妖精たちにとって、その行為はドリズンへの素敵なプレゼントだった。だが、所詮それはただの一代限りの変異を産んだだけであり、品種には程遠い。彼のような愛好家にとっては、単に絵の具でバラを青く塗ったのと同じなのだ。青いバラを作り出そうと生涯を費やしたドリズンに与えられたのは、完璧な紛い物だったのだ。


「それは断言しかねます」


 けれども、エルロイドは力強く彼の嘆息を否定する。


「……はい?」

「妖精というものは、極めて気まぐれです。教授も、文献を調べてそう思われたのではないですか? 彼らは息をするかのように嘘をつき、真実を歪め、人心を惑わします。彼らがバラを青く染めたと証言したからといって、本当かどうかは分かりません」


 ドリズンは当惑した様子だが、なおもエルロイドは滔々と言葉を続ける。


「科学の徒である私たちが、妖精如きの怪しげな証言を鵜呑みにするわけにはいきません。バラが青く染まった遺伝的要因を、妖精たちがいい加減な言葉で偽っている可能性がなきにしもあらず、いやかなり高いと言えましょう」


 そこまで言うと、エルロイドは少しだけほほ笑む。


「ですからドリズン名誉教授、あれはもしかすると、本物かもしれません。本当に、あなたの庭で世界初の青いバラが咲いたのかもしれませんよ」


 その笑みは、普段のエルロイドがいつも浮かべている仏頂面とは百八十度異なる、人情味に満ちた優しいものだった。


「…………エルロイド君」

「はい」

「君は、少し変わったね」


 ドリズンはそう言うと、深々と息をついてからベッドに身を沈める。エルロイドの持論は牽強付会そのものである。妖精たちの証言を嘘と決めつけ、天然の青いバラが咲いたという、途方もなく可能性の低い現象を大げさに強調しているのだ。だがそれは、長年青いバラを咲かせようと努力してきた、この老いた名誉教授に対する思いやりに間違いない。


「ならば進化したのでしょう。私は日々進歩しています。より賢く、より優れた人物へと。教授がそう判断されるのでしたら、本望ですね」


 そんな隠れた配慮などおくびにも出さず、エルロイドはドリズンの賞賛を受けて鼻を高くする。


「いや、やっぱり変わってなかったね、君は」


 ドリズンはそう言いつつも、どこか安堵した様子だった。



 ◆◇◆◇◆◇



 ――それから約一ヶ月後のこと。


「私は悲しみはしない」


 ロンディーグの教会にある墓地に、喪服姿のエルロイドとマーシャがいた。


「彼は現世で成すべき務めをすべて成し遂げたのだ。故に、この時が来た。今頃、彼は主宰の御許で永遠の安寧を得ているだろう。喜ばしいことだ」


 二人が立っているのは、ドリズンの名が彫られた墓石の前だ。


 二人が帰宅して間もなく、ドリズンの訃報が伝えられた。もう、あの老碩学はこの世にはいないのだ。曇天の下、エルロイドはドリズンの墓前にひざまずくと、静かにバラの花束を置く。


「あなたが好きだったバラを、墓前に捧げます。青くはありませんが」


 無言で鎮魂の祈りを捧げる彼の後ろ姿からは、普段の傲岸不遜な自称科学の徒の面影はない。


「結局、ドリズン様はあのバラを私たち以外には明かさなかったんですね」

「氏は聡明な方だ。あのバラが超常の類によって青く染まったことをご存じだったのだろう」


 寄り添うようにしてその隣にひざまずくマーシャに、エルロイドは目を向ける。


「だが、私は死期の迫った彼が、最後に見果てぬ夢を叶えたのだと思ってもらいたかった」


 エルロイドとドリズン。二人の関係についてマーシャは詳しく知ることはない。しかし、彼の言葉の端々に込められた感情から憶測することくらいはできる。きっと、エルロイドにとってドリズンは、数少ない敬意を払うべきと認めた相手だったのだろう。案外、まだ大学生だった頃にこってりとしぼられた相手かもしれないが。


「それが、私の恩師に対するせめてもの返礼のつもりだったのだ。――もっとも、氏は私の下らない気遣いなどお見通しだったに違いないが。自己満足の域を脱しない独り相撲だったな」


 はた目から見ると、献花を終えて興味を失ったかのような態度で、エルロイドはさっさと立ち上がる。


「そんなことはありませんよ」


 彼に続いてマーシャも立ち上がった。


「真実をただ告げるだけなら、子供のおつかいと変わりません。教授の嘘ではなく、しかし真実でもない絶妙な配合の説明を、ドリズン氏は面白く聞かれたに違いありません」


 何やら誉めているのかけなしているのか微妙な彼女の物言いに、エルロイドは胡乱な顔で抗議する。


「まるで私が詐欺師のような物言いだな」

「教授は嘘はお嫌いでしょう?」

「当然だ。科学は真実をひたむきに追究する。その使徒である私が虚言を弄するなど言語道断だ」


 相変わらず、エルロイドは無駄に自信を持って胸を張る。いつもならば、ここでマーシャは呆れているはずだ。しかし今日、マーシャは嬉しそうにほほ笑む。まるであの時、老いた恩師を労る際に浮かべたエルロイドの笑みのような微笑を。


「ですが、教授は真実をただそのまま告げておしまいにはされなかったですよね。とても、私にとっては素晴らしい配慮に見えました」


 マーシャはエルロイドに、はっきりと自分の思いを告げた。彼が下らない気遣いと切り捨てたその行動が、自分にとってはとても尊く、しかもドリズンの心を慰めたであろうことに確信を込める。


「君がそう言うのならば、もしかするとドリズン氏への慰めにもなったのかもしれないな」


 しばらくエルロイドはマーシャをじっと見ていたが、彼女が前言をひるがえす様子が微塵も見受けられないため、やや照れた様子でそんなことを言った。


「……それに、私としても救われる思いだ」


 と、小さく付け加えて。


「さあ、行こう」


 彼が墓地の外に向かって歩き出したため、マーシャはその後に続く。


「ところで教授」

「何だね?」


 エルロイドは首だけ振り返って彼女の方を見る。


「教授は先程、ドリズン様は主の御許におられると言われましたが、もしかすると、ほかのところに出張中かもしれませんよ」


 何を言っているんだ、といった顔をエルロイドがするので、さらにマーシャは言葉を続ける。


「青いバラをことさら好む、あの妖精王の庭におられるのかもしれません」


 ――――主を失ったスレーラバージ邸。そこの庭園に咲いていたはずの青いバラは、もう元の色に戻っている。まるで、すべてが主の見ていた、泡沫の夢であったかのように。



 ◆◇◆◇◆◇



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