10-3
◆◇◆◇◆◇
レストランでフーハンガー夫妻と別れ、マーシャとエルロイドは馬車の客室内にいた。
「楽しかったですか、教授?」
「やや食べすぎたようだ。それに、多少喋りすぎた」
「それだけ、昔の友だちと再会できて嬉しかったんですよ」
自分のことのように嬉しそうなマーシャだが、あまりエルロイドは楽しそうではない。
「君はどうなのだね?」
「ご心配なく。フーハンガー夫人と、しっかり親交を深めましたから」
「それはよかった」
エルロイドはすぐ黙り込んでしまう。
「嫌みでも言われたんですか? いつもの教授のように」
「私がいつ嫌みを言ったのだね?」
「いつもでは?」
「ふん、諧謔の一環と言いたまえ」
マーシャがいぶかしく思うほどに、今夜のエルロイドの毒舌は勢いに欠ける。
「マーシャ、君は……」
しばらくしてから、エルロイドはマーシャの方を見ないで口を開いた。
「はい?」
「君は、男女はすべからく家庭を築くべきだと思うかね?」
「基本的にはそう思いますが……」
「旧態依然の思想だな。そもそも、今は女性も社会に進出する時代だ。夫が外で働き、妻が家計を切り盛りして満足するのは、思考停止というものだ」
しかし、エルロイドはそれだけ言うと、また黙ってしまった。どうも歯切れが悪く、何か苛ついているようだ。
「教授、何がおっしゃりたいのですか? 要領を得ない物言いは、教授らしくありませんが」
マーシャがやや問い詰めるような物言いでそう尋ねると、エルロイドはようやく彼女の方を見る。だが、すぐに目を逸らし、窓の外に目をやった。
「――知らぬ間に、皆まともになったものだ」
その言葉は、マーシャに向けたものと言うよりは、むしろ独白に近かった。
「大学一の馬鹿者、地獄行きの愚者と皆が口を揃えて言っていたあの男が、いつの間にか所帯を持ち、妻子を養い、さらには代議士とはな。驚く限りだ」
どうやら、栄職に就いたケンディストンの姿がそれなりにショックだったらしい。
「そして、皆老いていく。彼も、私も。誰も死からは逃れることはできぬ。それまでに、私は私の人生すべてを捧げたものを、きちんと完成できるのだろうかな」
マーシャの知る限り、エルロイドは研究一筋である。人付き合いも悪ければ、愛想も悪い。自分の興味関心の趣くまま、それに没頭していれば充分満足のように見えていた。
だが、彼もやはり人の子である。大学時代は不良だった同輩が、今では所帯持ちで立派な父親にして代議士に成長した姿を、否応なしに自分と比べてしまったのだろう。確かにエルロイドはドランフォート大学の教授である。けれども、彼が心血を注いでいる妖精の研究は、未だに完成していない。そして同時に、未だに世間に認められていない。
「教授…………」
慰めの言葉がとっさに思いつかないマーシャの顔を見て、急にエルロイドは機嫌を悪くする。
「ええい辛気臭い! 私をそのような哀れむような目で見るのはやめたまえ! 私は君如きに憐憫の情を抱かれるような弱者ではない!」
「教授、弱者のなにが悪いんですか!? 勝手に一人で落ち込んで、勝手に一人で怒らないで下さい!」
腹立ち紛れに声を荒げるエルロイドだったが、今夜のマーシャはそれに怖じることなく、強い語調でたしなめる。
「む、むむ……。わ、悪かった…………」
それに反論する元気もなかったのか、エルロイドはもごもごと謝ると黙ってしまった。再び、馬車の中を居心地の悪い沈黙が支配する。
「教授、気分が塞ぐときは、お馬鹿なことをしましょう」
その空気が嫌で、マーシャは意図して明るい口調でそう提案した。
「お馬鹿だとぉ!?」
突然話題が切り替わり、エルロイドの声が上擦る。
「はい。大まじめで、下らないことをするんです。沈んだ気持ちを盛り上げる有効な手段として、最近では有識者の間でも評価が高いれっきとした健康法なんですよ」
もちろんこれは、マーシャの口から出任せだった。
◆◇◆◇◆◇
「……それで、ここかね?」
「ここしか思いつかなかったんですが……」
エルロイドの呆れかえった声に、マーシャはやや居心地の悪そうな態度を取る。マーシャが馭者に頼んで自宅から変更した行き先とは、遍在宇宙交信協会の会館である。二人の前にはでかでかと、惑星の配置と宗教的なシンボルが組み合わされた悪趣味な協会のポスターがある。
「ブホホホホホ! あぁらエルロイドちゃんにマーシャちゃん、夜更かしなんて悪い子たちねえ。でも歓迎しちゃうわ、ブホホホホホ!」
扉を開けて中に入ると、さっそく広間にいたマダム・プリレがこちらを見て駆け寄ってきた。酒樽が転がるような動きだ。背中には何本ものパイプと旗とライトを背負い、手には色とりどりに光るランプを持っている。
「マダム・プリレ、訪問早々率直に尋ねさせてもらうのだが、君たちはいったい何をしているのだね? 万魔節は当分先だぞ」
エルロイドは彼女の仮装を見て、忌まわしそうに後ずさりする。万魔節とは、秋の終わりに行われる古い祭である。現在こそ仮装して練り歩くイベントだが、古くは聖人の目をかいくぐって悪魔が地上に現れる日とされていた。
「太古よりおおへび座付近の惑星から来訪している、爬虫類タイプの知的生命体との交信の練習よ。どう、この壮大なる銀河に未知の可能性を求める開拓者精神! アタクシたち、輝いているでしょ!」
奇抜な格好の由来を、マダム・プリレは熱く語った。いかんせんその熱意は二人には通じず、マーシャとエルロイドは狂人を見る目で彼女を見る。
だが、この怪しげでうさん臭くどうしようもないほどチープな活動こそが、遍在宇宙交信協会の存在理由である。その証拠に、広間には大勢の男女の会員が集まっている。皆同じような格好をしてランプを振りつつ、怪しげな言葉を唱えている。彼と彼女たちはきっと、マダム・プリレの言う通り、宇宙からの来訪者と交信を願っているのだろう。
しかし、マダム・プリレは熱心な会員たちを尻目に二人に近づくと、その耳元で囁く。
「まあ、身も蓋もなく言うと、在庫一掃セール兼プロモーション活動の練習中なのよ」
「それはどういう意味かね?」
少しだけ興味を示したエルロイドの言葉を呼び水にして、マダム・プリレは状況を説明する。
「アタクシたちが手ずから製作した宇宙交信グッズを販売して、サークル活動費の足しにしようって思っていたのよ。でも結果は惨敗。赤字もいいところよ。やっぱり、目に留まらない物は売れないわね。だから、今度は市民の前で実演販売をして、もっと大々的に宣伝しようと練習しているの。ついでに最近暇だったから、気晴らしも兼ねているわ」
要するにこれは協会としての啓蒙活動ではなく、グッズ販売のためのプロモーションを練習しているだけのようだ。
「何という俗悪な集団とその行動だ。知性というものがこれっぽっちも感じられず、場当たり的な愚行の数々は節足動物にすら劣る。まさに下卑下劣の極みだな。怖気がする」
めまいを覚えたのか、エルロイドがそう言いつつよろめく。
マダムたちのあまりにも下らない行動に、彼の痛罵がようやく本領を発揮し始めた。
「そんなことはどうでもいいわ! さあエルロイドちゃん、マーシャちゃん。ここであったが百年目、あなたたちも一緒にグッズの宣伝の練習に参加してちょうだい! はい、お願いよ!」
一方、マダムはこれ幸いとばかりに、二人にグッズを押しつける。
「マーシャ」
彼女の勧誘を完全に無視して、エルロイドはマーシャに呼びかける。
「はい、何でしょう」
「私は君に感謝しよう」
その言葉に、マーシャは不審そうな顔をする。
「唐突にどうされましたか? ……私はやりませんからね?」
「わ、私もこんな狂気じみたサークル活動に参加するつもりはない!」
マーシャにサークルに参加するつもりかもしれないと勘違いされ、大あわてでエルロイドはそれを否定する。
「ただ、こうして狂騒に大まじめに取り組んでいる衆愚たちを見ていると、私の悩みなど些末なことだったと思えてきたからだ。事実、些末なものだったようだな」
どうやら、エルロイドの機嫌もようやく上向いてきたらしい。
「私は、私の道を行く。それしか、できないのだ。そして、それで充分だ」
彼はそう言い、晴れやかな顔でマーシャの方を見る。いつもの傲慢で、自信に溢れ、自分こそが世界を牽引すると信じて止まない、あの教授の顔が徐々に復活していた。
「でしたら――」
マーシャはそう言うと、一歩彼に近づき、やや上目遣いでその顔を見る。
「その道行きに、私も同行させていただきます」
「なぜだね?」
「教授は今、孤独な自分にお酔いになっておられるようですが、道というものは私道でもない限り万人に公開されているものですよ。教授が歩もうとしている道が、いずれ多くの人々が進む道となるならば、私がその一番乗りです。素敵だと思いません?」
マーシャの物言いも、エルロイドに負けず劣らず痛烈である。自分の雇い主が自己陶酔している、と平然と言ってのけるのだから空恐ろしい。しかし、彼女の口調は穏やかで、言っていること自体は優しい。だからこそ、エルロイドも怒ることなくこう尋ねる。
「君は本気で言っているのかね?」
「知性を疑います?」
マーシャは少しおどけてみせる。
「いや、先見の明がある」
「そうおっしゃると思っていました」
どこまでも平然としている彼女を見て、エルロイドは静かに肩をすくめた。
「やはり、君は不思議な女性だ、マーシャ・ダニスレート」
それは、何度か繰り返された言葉だ。けれども今夜は、さらに一言彼は付け加えた。
「そして――――得難い女性だよ」
と。
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