07-2



 ◆◇◆◇◆◇



 マーシャの手を肉厚の手で握りしめて情熱的な握手をしているのは、恐ろしく太った中年の女性だった。


「ブホホホホホ! あなたがエルロイドちゃんお付きのメイドさんのマーシャ・ダニスレートちゃんね。以後よろしくお願いよ、ブホホホホホ!」


 本人は笑っているつもりらしいが、どう聞いてもそれは肥えたブタが鼻を鳴らす音だ。


「マダム・プリレ。そう鼻息荒く私の助手に迫るのはやめてもらいたいのだが。美女と野獣という語を容易に連想させる構図に、私の優秀極まる脳細胞と神経が萎縮して困る。人類史に対する罪として提訴したいくらいだ」


 一人で来客用の椅子に腰掛けたエルロイドが、自分たちを迎え入れた家の主人に向かって嫌悪感もあらわにそう言う。


「んまぁ、エルロイドちゃんったらなんて正直なんでしょ。アタクシのことを美女なんてもう、可愛いわぁ。ブホホホホホ!」


 対する女性は、エルロイドの皮肉を美辞麗句として受け取ったらしく、再び鼻を鳴らす。


「失礼、マダム、君は何か思い違いをしているようだね。私は君のことを美女などと、生まれてこの方一度も口にしていないのだが?」

「え~? だって今言ったわよ。『美女と野獣』って。あなたの大事なメイドさんを野獣呼ばわりするのはちょっと可哀想だけど、でもいいわ! 正直なエルロイドちゃんに免じて許してあげる! どうせなら美少女の方がいいけど!」

「なぜ私が君に許してもらわねばならないのだね。良識を弁えない自己中心的な人間と会話するのは実に疲れる」


 自分のことを棚に上げて批判するエルロイドに、ようやく肉厚の手の束縛から自分の手を引き抜いたマーシャが、じっとりとした視線を向ける。


「教授?」

「なんだね」

「鏡って見たこと、ありますか?」

「何を言っているのだね、君は。理解に苦しむ」


 残念ながら、マーシャのシニカルな発言はエルロイドにはのれんに腕押しだったようだ。


「あ、おほぉん!」


 少しの間無視された女性が、自分の方に注意を向けようとこれ見よがしに咳払いをした。


「遍在宇宙交信協会ロンディーグ支部長、プリレームヤ・シュディジニャーヤ・ヴィリフデヴァ。それがアタクシの名前よ。以後よろしくね。長くて呼ぶのが大変なら、可愛くマダム・プリレって呼んでくれても構わないわよ。ブホホホホホ!」

「はあ、どうも……」


 ようやくマーシャに自己紹介したマダム・プリレに、とりあえずマーシャは頭を下げる。市電を降りてしばらく歩いた先に、彼女の屋敷はあった。ここは都会の真ん中にあるというのに、奇妙に人通りの少ない空白地帯のような場所だ。屋敷自体はかなり古いものらしく、ややほこりをかぶった年代物の家具や書籍が大量にある。


「きれいなお顔をしているわね、マーシャちゃん。ご両親のよいところをきちんと受け継いでいる顔立ちよ。細いラインのお鼻の形なんかもう、素敵」


 マダム・プリレはそう言うと、脂肪でだぶついた顔の奥にある小さな目を細める。彼女の顔は怖いが、声音は優しい。


「あ、ありがとうございます。そう言われたのは、初めてです……」

「んまあ、なんておかわいそうな。子供が健やかに育つのに誉め言葉が必要なのは常識よぉ。もう、仕方ないわね。代わりにアタクシが愛してあげる! ハグよハグ!」


 彼女が両腕を広げて襲いかかるのを、何とかマーシャはかわす。


「マダム、私の助手を絞殺もしくは圧殺するのはやめてくれないか。君の腕力では粉砕骨折を免れん」


 座ったままのエルロイドも、さすがに危機感を覚えたらしくそう警告する。


「そ、それに、子供時代はいい人に囲まれて、全然寂しくなんかなかったですよ。お仕事も忙しかったですし」


 マーシャは自分が可哀想ではなかったことをアピールするのだが、マダム・プリレはさらに感動して大声を上げる。


「まあまあまあ! ちっちゃいときからお仕事一筋なんて大変だったのねえ。アタクシ涙が出ちゃうわ!」


 ぐるりと太すぎる首が動くと、エルロイドを見据える。


「エルロイドちゃん、しっかり働いて、この子を幸せにしてあげるのよ」


 対するエルロイドは即答した。


「無論、そのつもりだ」

「きょ、教授?」


 彼の発言に、マーシャは驚く。いきなり幸せにするのは当然と言われて、驚かないわけがない。


「俊英たる私の過去、現在、未来は常に栄光に彩られている。その側にいる彼女が幸福になるのは当然だろう? 重力の法則と同じくらい、私の成功と彼女の幸福は保証されている」


 エルロイドはそう言うと、得意そうに胸を張る。


「自信だけはすごいわね……」


 彼のプライドの高さに、図太そうなマダム・プリレも舌を巻いたようだ。


「さて、無駄話はこれくらいにしよう。時間を無駄にしたくはないのでね」


 突然来訪した身でありながら、エルロイドは平然と話を進める。


「マダム、これを見てくれ。マーシャの言葉によると、この短刀の中には妖精が潜んでいるらしい」


 彼がトランクから取り出した短刀を見て、マダム・プリレは真面目な顔になる。


「ふ~ん、この子には分かるのね」

「妖精女王の目だ。知っているかね」

「あなたと同じく文献の中でね。実物は滅多にお目にかかれないわ。〈炯眼〉としてはかなり上位の代物ね。空恐ろしいわ」


 そう言うと、彼女はマーシャの方を見て笑う。


「マーシャちゃん。その目をうちのか弱い会員ちゃんたちに教えないでね。お願いよ」

「知識を独占するするつもりかね?」


 いぶかしげな顔をするエルロイドに、マダムは鼻を鳴らす。


「違うわよ。刺激が強すぎるだけ。楽しく明るくサークル活動をする程度には、いらない知識も沢山あるのよ」


 マーシャは目の前のこの女性が、何を考えているのか分からなかった。怪しげな協会の上層部でありながら、会員を啓発する気がないのだろうか。それでいて、本人は知識が豊富なように見える。


「やあねぇ、そんな深刻そうな顔をしないでよ。明るく楽しくっていうのは、アタクシのモットーなの。ここでもサークルと同じく、明るく楽しくいきましょ」


 沈黙が苦しかったのか、マダム・プリレは再び「ブホホホホホ!」と笑いつつお茶を濁す。


「君が明るかろうが楽しかろうが、関係のないことだ」


 エルロイドは冷たく断言する。


「問題は、マーシャの目をもってしても、妖精の種類や性質を特定できない点だ。どうすればこの妖精を短刀の外に出せるのか、心当たりはあるかね?」



 ◆◇◆◇◆◇



「まあまあ、来た早々せわしいわねぇ……」


 などと言いつつ、マダム・プリレが自宅の書斎にこもって半時間ほどが過ぎた。


「残念だけど、ないわ」


 戻ってくるなり発せられた彼女の一言に、エルロイドは跳び上がらんばかりに驚く。


「な、な、何だと! そんなはずがないだろう!」

「もう、エルロイドちゃん、癇癪を起こしちゃ嫌よ」

「だったら、私は何の為にここまで来たのだ。時間の無駄ではないか!」


 八つ当たりに近い論理の展開に、マダム・プリレは呆れた様子で腰に手を当てる。


「あのねえ、いくらアタクシが何でも出来る天才美少女賢者に見えても、神様でもなければ悪魔でもないの。理解なさい?」

「む、むむむ……」


 押し黙るエルロイドの代わりに、マーシャが口を開いた。


「厳重に封がされていて、絶対に出てこないようになっているんでしょうか?」

「違うわよ。大抵の封印ならば、あなたの妖精女王の目ならば破ってしまうわ。何と言っても、女王の目ですもの」

「じゃあ、どうして…………」

「まあ、有り体に言ってしまえば、人間の限界って奴よ。マーシャちゃんのせいじゃないわ。エルロイドちゃんも諦めなさい」

「回りくどい物言いはやめたまえ。どうすれば妖精は出てくるんだ?」


 ショックから立ち直りつつあるエルロイドが、ようやく本質に触れる。


「風よ」

「風?」

「シムーンという、中東に吹く熱風があるわ。夏の砂漠で砂を巻き上げて吹き荒れる、恐ろしい風が。この短刀は、そのシムーンから逃れる為、風除けとして妖精を封じ込めたものよ」


 マダム・プリレは先程までのテンションの高い口調とはかけ離れた、落ち着いて知性的な口調で説明する。


「だから、逆に言えばシムーンが吹かない限り妖精は出てこないの。分かる?」

「し、しかし……何とならないのか? こんな近くに貴重なサンプルがあるのだぞ! 君は口惜しくないのか、マダム・プリレ!」


 彼女の理路整然とした説明に、一人だけ納得できないでいるのがエルロイドだった。目の前の短刀には確かに妖精がいる。しかし、それを確認する術がない。そんな宙ぶらりんな状況に耐えられないのか、彼は食い下がる。


「ならば、シムーンをここロンディーグで再現できるかしら。それができるならば、これに潜む妖精も姿を現すかもね」

「じょ、冗談ではない。これでは……これではまるで、八方塞がりではないか。前進、進歩、発展とは程遠い!」


 事態がまったく予想し得ない展開になったらしく、エルロイドは狼狽しているようだった。


「ねえ、エルロイドちゃん。あなたはなぁに?」


 そんな彼に、マダム・プリレは分厚い頬の肉を揺らしながら問いかける。


「あなたは才能はあるし努力家だけど、ただの人間でしょ? アタクシもそう。できることばかりじゃないわ。ただの人間が、自然をどうにかしようなんて、おこがましいと思わないかしら? 時には自分に不可能なことを認めて、諦めるのも必要よ」


 なだめすかすような彼女の言葉に対して、エルロイドは最後まで首を縦に振ることはなかった。



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