瑠海の脳内考察
三日間に及ぶ祝宴は、最初の盛り上がりそのままに何の問題を引きずる事無く終わった。
招待客が次々と帰り、今夜は身内だけの静かな夜である。食事の後は雑談もそこそこに、それぞれの部屋へ引上げた。
ランドーと瑠海は、入り江への小道をゆっくり歩いていた。いつも何かを気に止めながら下だけを見て下りた小道が今は何も考えず、考えていたとすれば、互いの温もりがいつまでも変わらぬ様にと、それだけだろう。
瑠海は、この入り江が見えて来る瞬間の景色が好きだった。奇岩の多く点在するこの辺りの景色の中、小さな入り江はまるで指輪の様に見える。白い砂浜とエメラルドかサファイアの濃い青の海が夕陽に染まり今まさにルビーの輝きを放って夕日が海を染めながら沈んで行くところだ。
ランドーが足を止め、瑠海も止まった。
肩を寄せ合い二人は、暫くじっと夕日が沈み行く様を見ていた。
と、その景色の中に動く人影が有った。
入り江を一望できる丘の上だ。あのシロメツメクサの野原があると聞いている場所で、遠目にもそれがシャルルだと分かった。彼も夕日を眺めに来たのだろうかと思ったが、どうもそんな雰囲気ではない。
不審に思い行ってみると、シャルルは野原の真中に立つ木に寄り掛かり、物憂げな視線で撫でる様に入り江を見下ろし二人には気付く様子もない。
「殿下、こんな所で何をなさっているのですか?」
徐に振り返った彼の目は憂いに曇っていた。
「また御酒を…… 陛下の折り入ってのお話と言うのは何だったのですか?」
この国には未成年飲酒禁止と言う概念が無いらしい。
「酔ってなどおらぬ。いたって正気だ。」
こんな彼の姿は始めて見る。瑠海には、普段と違い殿下と呼ばれ崇められている彼が普通の十七歳の少年にしか見えなかった。
彼は、何か自問自答をずっと繰り返していて、どう見ても少々悪酔い気味だ。
「ドルーチェにもう一度会いたい。」
瑠海はハッとしてランドーを見たが彼は、いたって冷静に王子を諭す様に優しい口調で言った。
「彼女は人魚です。海へ帰りました。それが自然の姿です。この地上に引き止めては悪戯に好奇の目に晒され哀れと言うもの。」
「あの姿をもう一度……もう一度会いたい。」
シャルルは、ドルーチェがあの満月の夜見せた姿を知らないからこんな風に言えるのだと瑠海は思った。
もしも知ったら、何と言うだろう。
幻滅するのだろうか。
それが本来の姿としても。
王子からすれば、彼女は人で言うならまだ何も知らない少女に見えた事だろう。
普段の彼女からは想像出来ない恐ろしい形相で牙を剥いて叫び、本能のままランドーを誘惑し、そして突然現れたオスの腕に抱かれて海に帰ったのだ。
「海へ返された殿下のお心はきっと、人魚にも届いております。彼女は殿下の事は決して忘れはしないでしょう。」
ランドーの言葉に、シャルルは暗い海に沈んでしまった様に虚ろな視線を落とした。
「それでも……会いたい……」
絡んでくる王子を、子供を相手にする様に、ランドーはそっと彼の顔に掛かった髪を整えてやった。それはきっと、瑠海が知っているよりずと昔、幼かった彼を宥める為にいつもしていた事だったのだろう。
「フィリップ。昔の様に兄上と呼ばせてはくれぬか。」
「殿下……お戯れを。」
「本来なら! 王冠も玉座も其方が。」
ランドーの頬を少しの影が横切ったが、くすりと笑いながらシャルルの顔を覗き込んだ。
「縁談を迫られ、責務の重圧に耐えられなくなりましたか? 弱音をお吐きになるとは益益らしくありませんね。」
「私よりも其方の方が領民に慕われておる。」
「誰も自分の生家を選ぶ事は出来ません。殿下が王家にお生まれになられたのも、神の御意志です。それに殿下は一人ではありません。私も瑠海も、いつも殿下のお側におります。」
シャルルは目に涙を溜めてランドーを見た。
「其方の本心も見抜けずに辛く当たっていた愚かな私を許せ。あの時は昔の様に名前で呼んでくれて嬉しかった。あの頃に帰りたい。」
ドキリとしながらも、眠ってしまいそうな程酔っている彼に、ランドーは手を貸して立たせると、城へ戻る様に促した。
そう言えば例の月の夜、有り得ない事に彼は酩酊状態で海に入り、翌日海岸で寝ている所を発見したとランドーが呆れ顔で言っていたのを思い出した。彼は、泳ぎは得意だそうだ。しかし、あんな状態だったのに海に入るなんて、人魚にでもなりたかったのだろうか。溺れなかったのは正に奇跡に近いと言った時のランドーの顔を瑠海は思い出し、海に帰って行ったドルーチェを想って水平線に沈む夕日に目をやった。
月夜草の解毒は完璧だった。しかし、月の魔力はそのままシャルルを捕らたままなのかもしれない。人魚に密かに想いを寄せる人間の王子である彼の心を。彼女が消え、淡い恋心は行き場を失ったのだ。
瑠海は小道を支えられながら歩く弱々しいシャルルの後姿を切なく思った。
彼の中ではドルーチェはあの無邪気な姿のままに存在しているのだろう。
あの夜の事を知ったら、ましてや彼女が選んだのがランドーだったと知ったら傷付くに違いない。
秘密とは守る事を押し付けられた人間にとって死に至る病と言っていい重荷だ。
でも守らなければ、彼の為に。
(いや、こんな事ぐらいどうって事はないわ。そうよ。もしもあの夜、彼女が月夜草と引替えにランドーに迫っていたら。殿下を助ける為なら、彼はきっと喜んで自分を差し出していたに違いない。それに比べれば、彼女は至って誠実で純粋だったのよ。そんな事になっていたら、殿下は立ち直れなかったかもしれないわ。私だって耐えられない。)
そこまで考えて、瑠海はそれ以上ばかな事を考えるのはよそうと思った。
しかし、不意にあの時の光景が目に浮かんだ。いくら止めても操られていたランドーは、この手を振り払い海へ入って行こうとした。人魚の持つ抗えない魔力を瑠海は感じたのだ。
あの時オスが突然現れて、ドルーチェはまるで彼女自身が魔法にでも掛かったかのように、ランドーには目もくれず海に帰って行った。
本物のオスの人魚。
セラトよりずっと黒くて大きくて怖かった。
あれこそ正に怪物だった。でも、今は怪物さんと呼ぼう。現れてくれて本当に助かったのだから。
いやそれが人魚も大海に生きる野生動物の証明だ。
そう考えると自分達を救ったのは、奇跡などではないと言える。
はっきりしないが、オスがメスを誘う為に放った彼女より強力な魔力などではなく、おそらくフェロモンの類だろう。
しかしこの世界の人々は目に見えないモノを魔力と呼び、毒に脳を侵された人の行動を祟りと呼ぶのだ。
ドルーチェもオスを誘うフェロモンを発散させ、ランドーは操られ、さらに未熟なエドは彼女の元にまっしぐら。王子が射された夜だって、ドルーチェが出していた匂いに反応したセラトがやって来たのだ。数の少ない人魚が同族の繁殖相手に巡り合った機会を逃さない為に得た手段だろう。
しかし、ふと、ランドーがドルーチェを抱きかかえて海に入って行く後ろ姿を想像した。
(次の朝、ランドーは砂浜に
瑠海は顔を上げた。
(いくじなしの私は、ランドーの後を追う事も出来ず、人魚を憎む事だけで生き長らえて、嫌味な老婆に変貌して行くんだわ。それに比べれば今の方が何万倍もましだわ。そうよ。)
瑠海は何だかスッキリした気がして立ち止まった。
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