波立つ心
七日前、朝の支度を手伝いに来た瑠海を見たのを最後に、食事の時間の給仕にも彼女は全く姿を見せなくなった。それでも何も言って来ない女中頭に疑問を抱きつつも、これ以上彼女との事に枝葉を付けて大袈裟に噂されては王子の耳にまで届いてしまう、余計な詮索をされては面倒、と敢えて何も聞かなかった。
しかし、忙しさに紛れ気付かない振りをするのも実はもう彼にとって限界だった。
ランドーは、仕事が終わると瑠海の部屋を尋ねた。しかし、部屋はすっかり片付けられ何一つ残されていないのを見て呆然とした。
「瑠海様なら、殿下のお付きの女官に連れられて本館に移って行きましたよ。てっきり貴方様の許可を得ての事と思っておりました。ご存知では無かったのですか?」
女中頭の言葉がランドーを更に焦らせた。
別邸の古参の侍女もやはり瑠海が朝の支度にも姿を見せない事について何も言わなかった。王子の指示では自分が口を出せる立場ではないと、やはり弁えていたからに他ならないのだ。
最後に姿を見た時の、瑠海の横顔が脳裏を過った。
何処にいるのか、と聞こうとした言葉を、彼は胸の奥に仕舞い込んだ。それでも湧き起こって来る焦りが、彼の視線をシャルルの部屋の有る辺りに向かわせた。
(人魚の身代わりのおつもりか。)
「よろしいのですか?」
「何がだ?」
「なぜ、無断で瑠海様を連れて行かれる様な事になったのです? 今頃どんなに心細い想いをしておいでか。」
「お前達は勘違いをしている。私と瑠海の間には、お前達が思う様な事は何も無いのだ。男から女へ送る髪飾りに、どんな云われが有るのか知らぬが、私が瑠海に与えた物は単なる備品だ。宴の手伝いに出るにしてもあれは何も持たぬから買って与えたのだ。」
眉を潜め、女中頭を窘める様に言うとランドーは背を向け、踵を返しやり場の無い苛立ちを抱えたまま別宅へ引き返して行った。
その途中、人の気配に振り返ると、明かりの無い渡り廊下に、やはり暫く姿を見なかったエドが今にも消え入りそうな面持ちで俯き立っていた。
「……ランドー様……」
「今まで何処へ行っていた。」
ランドーは、問いにも顔を上げようとしない彼の普通でない様子に訝りながら彼を見た。
エドは口籠りながらやっと言った。
「殿下のご命令で……ランドー様の耳にだけは絶対入れるなと口止めされておりました。」
「ならば何故、今更私の所へ戻って来た。お前は私の部下だ。しかし、その前に殿下の兵士なのだぞ。」
「ですが……あの……」
煮えきらない態度のエドに溜息をつき、
「瑠海の事だな。」
「はい……」
「その事であればもうよい。既に私の手を離れている。元よりお前が責任を感じる事ではない。」
それを聞いてエドが顔を上げた。
「では、人魚の事もご承知だったのですね?」
ランドーの鋭い一瞥がエドの瞳を射た。
「……人魚だと?」
彼は、己の愚かさにガクリと跪いたエドを見下ろし低い声で言った。おおよそ彼の部下であるこの少年が、今まで聞いた事も無い響きを持った逆らう事を微塵も許さない声だった。
「どう言う事か説明しろ。」
肩を震わせエドは吐き出す様に言った。
「殿下が、瑠海様と人魚が秘かに会っている所を待ち伏せして、捕らえられたのです。丁度七日前の事です。」
「瑠海と人魚が会っていた? 何処でだ?」
「……入る事を許されていない……あの入り江です。なぜ、瑠海様をお信じにならなかったのです。ランドー様に顧みられなくなって、まるで魂が抜けてしまった様になってしまわれたのをご存じでしたか? 毎晩、まっ暗な浜辺に一人で佇んでおられた。あんな暗い目をした瑠海様を見ているのは、耐えられなかった。でも、私では何の助けにもならなかった。声をお掛けしても目線さえ帰って来ない。いっその事、浚って遠くへ逃げようかなどと言う恐ろしい想いが頭に浮かんで……なぜです。なぜ急にあの方を突き放す様な事を?」
瑠海が一人でいる事が多くなってから、命じられた訳でもないのに彼は彼女を影からいつも見ていたらしい。手を差し伸べたくても自分にはそれさえ許されない。エドの視線の中に横たわるのは、もどかしさと複雑に絡み合った想いだった。
「捕らわれの身になられてからは、一切の物を食されようともなさらなくなって、口も閉ざしたままなのです。あれではお体ももたない。気も変になってしまわれます。どうかあの方をお助け下さい。」
ランドーはエドの言葉を黙って聞いているしかなかった。非は己にも有ったからだ。
(明け方まで人魚に付き合ってやっていたと言っていた。……本当だったのか。)
エドに瑠海に注意を払えと命じたのは、トラブルに遭わせない為でもあったのに。
「人魚と瑠海の事を、殿下に密告したのはお前だな?」
ビクリと肩を震わせエドは崩れ落ちた。
「裏切りは一度きり。二度目は無い。」
ランドーの言葉に、彼は平伏さんばかりにその足元に蹲り地面に頭を付けた。
港で囚われた人魚に出くわした事は漁民や兵士の前で起こった事だった。瑠海が人魚の言葉を話すと言うのは、それだけならば何も問題にはならなかった筈だ。しかし王子がそれを知れば、当然利用しようと考えるだろう。
あの朝、瑠海は自分にだけ話すつもりだったのかもしれない。物言いたげな彼女を思い出すと、後悔で胸を掻き毟らんばかりだった。なぜもっと冷静に聞いてやらなかったのか。なぜ苛立っていたのか。あの影が差した顔を見てもなぜ心が痛まなかったのか。平気でいられた自分が信じられなかった。全ては自分のプライドの為か。そんなものが何になると言うのだ。
(司祭の言う通りだな。)
瑠海が昼近くになっても出て来ないのを気に留めていた朝……
―明け方にやっと戻って来たよ。あれは誰かと一夜を共にして来たに違い無いわ。
―ランドー様は夜警だったし、あの方じゃないわね。
―見掛けに寄らず、あの姫もお盛んだこと。
そんな事を噂する声が聞こえて来た。ただそれだけだった。ただそれだけ。何の根拠も無い下働きの女達の他愛無い噂話だったのだ。しかし、まさか他の男と、と思うだけで滑稽なほど感情の起伏を抑えられなくなってしまった。気が付けば彼女の弁解も聞き入れず、悪戯に傷付けてしまっていたのだ。
夜、誰も周りにいなくなると、更に心は嵐の様に荒れ狂った。眠る事も出来ず、久しく訪れていなかった教会の懺悔室にいた。
司祭が静かな声で言った言葉がランドーの耳に蘇った。
―神はお許しになります。それこそが神の与え給うた試練。自尊の心を捨て内なる神に問いなさい。きっとそこに答えは有るのです。
「何処にいるのだ? 人魚は。」
「瑠海様の事は、よろしいのですか?」
「一緒にいるのだろう? すぐに案内しろ。」
「はい!」
エドは足早に先に立ちランドーを先導した。
自治領国の外からやって来た者を受け入れた事例は、瑠海が初めてではないにも関わらず、今回はどうした事か彼女に対して密かな嫌がらせをする者が絶えなかった。
城の造りが複雑なのは重々承知しているが、彼女がよく迷ってしまったのは実は彼女らがわざと仕向けた事だったのだ。増築に次ぐ増築の上に出来た構造の複雑さだが、全ての工事がそれぞれにおいて完璧にされていたかと言えばそうではない。下手をすれば地下の暗闇で深い亀裂に落ちて命を落とす危険にも遭遇しかねなかったのだ。
ただ救いは、彼女がその事について全く気付かないでいてくれた事だった。
呆れるくらい彼女は人を疑わない。それは正に心の純粋さを写している様に思え彼の心を温かい光で照らしてくれる気がしたのだ。
ランドーの脳裏に、何かに驚いて子猫の様に目を丸くして手を振り回した瑠海が、こちらに気付いて振り返り微笑む姿が過った。
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