第2話 「悲しい顔はやめてよ」

夢の続き 追いかけていたはずなのに……。

***


 佐藤涼は、栗名のことが好きだ。


 彼を描くようになってから、ますます好きになった。


 何て素晴らしい作品モデルなのだろう。


「おい、帰る時間だぞ」


 小さい男が何か言っても気にしない。涼は芸術を愛し、芸術に愛される人間だから。


「おーい」


 馬鹿っぽい男の声が聞こえても、涼は逸る心を抑えられない。栗名はちょっと悲しそうな顔をしている。


「泣いてるぞー」


 馬鹿男の声は決まって乱れている。耳障りなノイズだ。


「生まれつき持った体を笑うな」


 イケメンが渋い表情で涼を見ている。


「こっちを描こうかな」


 涼は、栗名から視線を外した。


 途端、何かがすごい勢いで飛んできた。


 学生鞄だ。


 頭に衝突音が走る。


 涼は、


「栗名……」


と言いながら、ゆっくりと果てた。


「死ね!! てめえマジで死ね!!」


「生きてる価値がねえ……」


「お前ら、それは言い過ぎだ」


「どうしよう、涼が起きない……」


「帰ろうぜ」


 佐々鈴蘭ささ すずらんは栗名の腕を引っ張り、強引に引きずっていく。


「スズー、鞄」


『スズ』は、彼の愛称だ。茶色く染めた頭に、可愛らしい見た目で女子に人気がある。もちろん彼を嫌う女子もたくさんいるが。


 男たちは「スズ」よりも、「ミイ」と呼ぶことが多い。「ムーミン」の意地悪で皮肉屋な小さい女の子を、そのまま彼にあてがった名前だ。つまりは、揶揄である。


 どいつもこいつも馬鹿にしやがって、と鈴蘭は毎日ぶち切れている。しかし身長が低いので、どれほど怒鳴ろうが暴れようが、誰にも本気にしてもらえない。鈴蘭はそれが悔しかった。チビがそんなに悪いかと、一度栗名に食ってかかったことがある。八つ当たりだった。栗名は、絶対に怒らなかった。どれほど挑発しても栗名は動じず、にこりと笑っていた。ただそれが、女子の言う「爽やか系」とは程遠い表情だったのが、鈴蘭は気にかかっていた。


 あの時の彼の顔は、「虚無」。


 栗名の目は死んでいた。


 鈴蘭の顔を見ながら、全く別の何かを透けて通したように、薄く微笑んでいたのだ。


 怖かった。


 不気味だった。


 あの日から、鈴蘭は誰彼構わず怒ることを、やめた。



   +☁+



「出たー! 『幽霊』が来たー!」


 昼にもなっていないのに騒がしい晴希はるきの声で、鈴蘭は無理やり起こされた。


「うるせえな……」


「今日は『幽霊』見れたんだよ!」


「どこにでもいるだろ、霊なんて。大体あれは脳みその仕組みからできる、一種の思い込みなんだよ」


「ほら、スズ! あいつ今日も餌やってるよ!」


 首をグキッ、と回された角度で見てみると、なるほど確かに、『幽霊』はいた。


「なぜ傘を持っていない……」


 さすがに鈴蘭も唖然となる。


『幽霊』は、土砂降りの雨の中、中庭にしゃがみ込んでいた。もちろんずぶ濡れだ。


「今日はゲリラ豪雨だぞ……?」


「雷に打たれて死ぬかな、あいつ」


「いや……、その前に、誰か先生呼べよ……」


「あっ、栗名だ!」


 大ぶりの傘を持った栗名が、同じくあわてて傘を持ってやってくる飼育委員の顧問と一緒に、『幽霊』に向かってダッシュしている。


「あいつ本当に優しいなー」


 晴希が感心したようにつぶやく。


「……そうだな」


 いつだって、栗名は優しい。



   +☁+



 上で様子をうかがっていると、栗名は、『幽霊』と一緒に校舎の玄関口まで戻ってきた。

 とりあえず出迎える。


「お疲れー」と晴希。


「そいつ、どうすんの?」


 鈴蘭は頭のてっぺんから足の先まで水に濡れている男子生徒に一瞥をくれた。


「お前、名前は何て言うの?」


 栗名が優しく問いかける。


「……溝ノみぞのくち


 男子生徒はボソッと言った。


「誰?」


「知らない」


 鈴蘭は晴希と値踏みを始める。


「暗いなあ、お前」


「誰にいじめられてるの?」


「……いじめじゃないです」


 溝ノ口は蚊の鳴くような声で返した。


「……傘を置いてきたんです」


「ゲリラ豪雨の中?」


 鈴蘭は顔をしかめた。この男は精神的に大丈夫なのだろうか。


「栗名、こういうのと関わったらいけないんだぞ」


「スズ、またお前の悪いところが出てる」


 栗名は諫めるように鈴蘭の方を見た。

 少しイラッとする。


「いやいや、お前お人好しだからさあ」


 吐き捨てるように言って笑うと、栗名が一瞬、あの時の「目」をした。

 薄い微笑み。


(……何でそこで黙るんだよ)


 鈴蘭は居心地が悪くなる。


「多分、君が子どもだからじゃないかな」


「うぉっ!?」


 佐藤! と晴希が変な声を出した。


「いつの間に出現したんだよ!」


「栗名が見えたから追いかけてきたんだ」


 佐藤涼は堂々と言い放つ。


「変な行動ばかり起こしてると、女子がいろいろ騒ぐぞ」


 せめてもの嫌味で、鈴蘭は冷たい目を涼に向けた。

 佐藤涼はまったく動じない。


「僕は女子も好きだ」


「聞いてねえ!」


 我慢できなくなり、鈴蘭は怒鳴った。


「大体お前、何だよ!? ストーカーみたいに俺らのグループ入りやがって! 周りから仲良し五人組って見られてんだぞ!!」


「僕にとっては好都合だ」


「俺にとって不都合だ!」


 なぜこいつは、これほど会話を理解しないのだろう。言葉のキャッチボールがなってない。まるで違う惑星に住む某ゆうこりんだ。

 何だろう、この感じは。ゴーイングマイウェイを通り越して、サイコパス、いや、もっと、こう……。


「佐藤って、友達とかいなかったの?」


 晴希が聞く。


「ああ! そうだ、『ぼっち』だ!」


 頭の中に電球があるとしたら、こういう感覚だろう。鈴蘭は、パッとひらめいた。


「お前、『ぼっち飯』とかやってただろ。友達いなさそうだもんな」


「スズ!!」


 びくっ、と、鼓膜を震わせる声。


 栗名が険しい顔をしていた。


 鈴蘭は、硬直する。


「……あ」


 晴希が空気の変化を敏感に感じ取り、おろおろとあわて出す。


 栗名は、きつい目つきで、こちらを窘めるでも罵倒するでもなく、睨んでいた。


 鈴蘭は声が出なくなる。


 栗名を見ていると、とても長くそばにいて見ていると、わかる。

 栗名は優しい。穏やかな人間だ。

 けれど彼の中には、誰にも触れない、ある種の『ボーダーライン』が引かれている。

 それは栗名自身も自覚していない、本人の「聖域」だった。


『人を悪く言うな』


『人を無意味にからかうな』


『間違ったことをするな』


 栗名紅葉は、とても正しい。

 正義感の強いまともな男である。

 だからこそ、鈴蘭は。


(…………うざい)


 時々、猛烈に彼が、うっとうしくなるのだ。


「その表情、いいね」


 佐藤涼はスケッチブックを広げていた。


「絵を描くのかよ」


 晴希が呆れている。


「今、鈴蘭君がもどかしい表情をしていたから、紙に写しておこうと思って」


 その場の空気は、一気に間の抜けたムードになった。

 栗名の顔つきは、優しくなっている。


「お前、本当に面白いよな」


「そう?」


 栗名と佐藤涼は談笑を始めた。


 前はそこに、鈴蘭がいた。佐藤涼は部外者のはずだった。


 女々しい感情は、嫌いだ。


 ウジウジ悩む自分など許せない。


 腹の内で暴れる負の感情を、鈴蘭は八つ当たりにして返した。


「そもそも溝ノ口は何してんだよ。濡れるのが趣味なわけ? 最初から傘がなかったわけじゃねーんだろ?」


 ギロリ、と下でしゃがんでいる男子を見下ろす。


 溝ノ口は、青白い顔で再び細い声を出した。


「通学途中に、猫と犬を見つけたんです……。捨てられたペットみたいで……。雨の中、寒さをしのぐ屋根もないのは、あんまりだと思って……」


「え、それギャグじゃないよね」


「この学校、電波系多いよな」


 鈴蘭は晴希と顔を見合わせて、冷や汗を浮かべた。


木立こだち学園高等部』は、こんな変人揃いの学校だったのか。


 ここは元々、女子校だった。

 平成に入った頃に別の学校経営グループと合併して、男子を多く取り入れ始めたのは、記憶に新しい。と教師たちはいつも授業中に語っている。

 ここは『木立こだち女学園』という名前の、いわゆるお嬢様学校だったと。


 だからか、入ってくる生徒も、大人しくて物腰の柔らかい人が多い。それなりに自由で、校則は厳しくない。特に荒れた生徒も見かけない。しかし電波がいるとは思わなかった。


「あと……、これを、渡そうと、思って。あ、濡れちゃった……」


 溝ノ口が細々とつぶやく。


「雨だからね」


 佐藤涼は真顔で対応する。

 溝ノ口は言葉を続けた。


「あ」


「あ?」


 言葉のリレーがなってないぞ、と鈴蘭は言おうとして、


「……あ、あの、ば、ば、ばば」


「ん?」


 栗名が聞き取ろうと、顔を寄せた。


「馬場、直純君、に、渡したかった……」


 溝ノ口がブレザーの内ポケットから、何かを抜き取る。


 それは手紙だった。


「馬場直純君へ。かねてより、馬場君の部活に頑張る姿をこの目で見届けてきました」


「あの、読まないでください……」


 手紙をひったくった鈴蘭に、溝ノ口は抵抗する。鈴蘭は素早い身のこなしで溝ノ口の手を簡単に振りほどき、


「馬場ちゃーん」


 中庭を逃げ去った。



   +☁+



 鈴蘭は、悪戯が好きなわけではない。

 ただ、荒れてる人や内向的な人を見ていると、なぜもっとうまく世を渡れないのか、イライラしてくるのだ。


 その点、直純は立ち回りも器用だし、理性で動く性格だから感情を曝け出すような真似もしない。鈴蘭にとって、直純は中学一年時からの付き合いだ。もはや精神安定剤である。栗名とは少し違う。あれとはもっと後になって出会った。


 鈴蘭は溝ノ口を冷やかしながら、さっそく二年一組の教室へ戻った。溝ノ口は抵抗することに諦めたのか、途中からぐずぐずした態度で鈴蘭の後ろをヒヨコのようにくっついて歩いている。飼育委員の顧問は「お前、服を着替えなさい!」と怒りながら溝ノ口の頭を拭いて、並んで歩いている。間抜けな絵だと思う。自分でも何をやっているのか、鈴蘭は自分自身で呆れていた。


「いたぞー、溝ノ口」


 鈴蘭ははしゃぐ。直純はちょうど教室の窓ガラスから顔を覗かせたところだった。


「何やってんだ? 群れみたいなの作って、すげえ目立ってるぞ?」


「こいつが話あるんだってよ」


 ドン、と溝ノ口の背を押して、鈴蘭はにやついた。面白くて仕方がないからだ。他人のラブレターほど見ていて楽しいものはない。


 溝ノ口はおろおろと怯えている。


「用があるんならはっきり言えよ」


 鈴蘭はわざと強い口調で言った。栗名が目の端に映る。栗名の目は、悲しんでいる。鈴蘭の胸はざわ、と一瞬、揺れた。


(何だ、こりゃ)


 またイライラする。


 溝ノ口が言った。


「好きです」


「…………ん?」


 直純の両の眉がクイッと上がる。


「好きです。僕と、付き合ってください」


 溝ノ口が言った。


 …………え。


 今、何が聞こえたの。


 鈴蘭は空耳を疑った。


「まあ、別にいいけど」


 は。


 おい?


「すす、好き、ということでしょうか?」


 溝ノ口の声が上ずっている。


「そこまでは付き合ってみないとわからない」


 直純が言った。


 直純は憮然と、クラス全員の見ている前で、みんなの前で、ふむ、とうなずき、


「……友達から始めるか」


 一人で納得していた。


 少しかすれた彼の低い声が、鈴蘭は好きだった。


 馬場直純よ。


「お前、スマホのアドレス持ってる?」


「は、い」


 悪い夢なら覚めてくれ。


 鈴蘭は気絶しそうだった。


「これが俺の連絡先。後で送って」


「……はい」


 溝ノ口の目はもはやハートだ。


 女子たちが、


「うおおおおおおおおおおおおおおあっ……!!!!」


と、雄叫びを上げて死んでいっている。


「ああいう男になりたい」


 晴希が呆けている。


「なりたくはない」


 鈴蘭は言い捨てた。


 佐藤涼は鈴蘭のそばで、栗名の横顔のデッサンをひたすら描き殴っていた。



つづく

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