短編集

お菓子係/shu

hands [注意:死の描写]

あれはもう10年ほど前のことだ。

「私がようやく出した、世界への結論を教えてあげる。だから―また、明日。いつもの場所で、いつもの時間に待ってる。」

杏子はメールでそう言った。嫌な予感がしたが、私はそんなはずはないと振り払った。そして翌日、いつもの場所で、いつもの時間に私が着くと―



―その瞬間。杏子は目の前で肉片となった。



彼女は敵の多い人生を送ってきた。いや、味方のいない人生を送ってきた、と言う方が正確か。

両親からはDVを受け、高校に上がった今でもクラス内ではいじめられ、他のクラスにいたと言う彼氏からも酷い扱いを受けている話を度々聞いた。

彼女とは幼馴染だが、小学校に上がって以来クラスが一緒になることもなく、私は4年生の時に市内の少し離れた地区に引っ越した。

それからと言うもの、週に2、3日、彼女と私のちょうど間くらいにある駅で待ち合わせては、放課後の時間を一緒に楽しんでいた。

電車の都合で先に着く彼女は、私が着くまでホームを往来する電車をよく眺めていた。

彼女が話すことと言えばいつも学校、家族など日常のことで、そのすべてが苦痛と悲しみに満ちていた。暴力、無視、モノや金を盗ったり隠したり――。どれひとつとっても酷いものだったが、私の一番の心配はそれを話す彼女の顔が余りにも明るかったことだった。

何よりも違和感あった。不気味さも感じた。しかし両親や友達、先生に相談しても、「笑える間はきっと大丈夫だよ」誰も彼もがそう繰り返すばかりだった。

「咲喜にこうして話せる。こうして楽しめる。それができるだけ、私はまだ幸せだよ。」「きっといつか、私がこの世界との付き合い方ってやつを間違ってないって、教えてあげるから。」彼女を心配すると必ず言う言葉だった。嘘だ。絶対に間違ってる。そう思いつつ、私は彼女の言葉を否定し得る言葉も、力も最期まで用意することはできなかった


―かくして、私が予期していた最悪の結末は訪れた。

そして、その後の世間は―いや。世界は、相変わらず彼女に冷たかった。

SNSでは「死んだら本当に何も残らないのに」と言った哀悼のような言葉もあったが、「周りも本人もカス」「電車止めやがって」と言った実に心ない言葉が多かった。ただ、どんな言葉も無責任なそれであることだけは変わらなかった。


その翌日には私の非力を責めるようにマスコミも現れた。目の前で幼馴染が飛び込んだと言うのに、今の気持ちはだのその時の状況はだのと大変無神経な連中だった。

更にはSNSさえも責めはじめた。「こいつが原因じゃないのか」「目の前にいたのに何やってたんだ」の他、私まで彼女の後を追いたくなるような言葉を浴びせる連中も現れた。

そうして事件から1週間ほどを過ごすと、気づけば私の心は怒りやら自分の無力さやらでもう何が何だか分からなくなっており、学校へ向かう足が動かなくなっていた。

外に出なければ必然とネットを見る機会が増える。そしてまた同じような言葉を見る。そして心はよりメチャクチャになっていく。ただただ悪循環だった。

けれど数日もするとそんな心持ちでいることが嫌になり、平日の昼間だったが宛てもなく外に出た。

そしてその足取りは、無意識的に彼女の学校へと導いた。私は、校門を少し入ったところでただただその校舎を眺めていた。

気づくと物珍し気に窓から私を見つめる大量の顔があった。杏子を極限にまで追い詰めた顔。その罪を微塵も自覚していない顔がこの中にある。

顔のうちの一つが何か叫んだ。すると周りが続けてざわめきだし、喧しい大合唱へと発展した。

騒ぎを聞きつけた教師が私を職員室にまで通して座らせると、教師の何人かが忙しそうにあちらこちらへと電話をかけて回っていた。


それがひと段落した頃、一人が私の前に座り、こんな平日の昼間に何の御用でしょうか。と、明らかに迷惑そうに尋ねた。

私は杏子の件について問い詰めた。この件をどう受け止めているのか、また学校として何をしたのか。正直に言うと、ただの八つ当たりだった。

しかし教師はあろうことか、そこまで憤るのならば、なぜ君が助けなかったのか?怪訝そうな顔をして、そう、言い放った。

目の前が歪むのを感じた。これ以上ここにいると私がもたないと悟った本能が、私を薄暗くなった夕方の世界と連れ出し、気が付くと自分の部屋のベッドで朝を迎えていた。

昨日のことを思い出すとまた目の前が歪みそうになった。私の気持ちは何も整理できていなかったが、とにかく何もしないことに耐えられなくなって、今までと同じように授業に出た。

この時は私は周りから腫物のような扱いをされることも覚悟していたし、何をされても動じない、独りでもやっていくんだと言う気持ちだけを確かに持って行った。

―けれど、私の周りはとても暖かかった。友達も先生も、私のちゃんと相談にちゃんと応えてあげればよかったんだと泣いていた。

気づけば私も涙が止まらなくなっていた。この暖かさがとても意外で―嬉しくて。そして、杏子の周りに少しでもこの暖かさがあればよかったのに、と。

その日の午後、学内カウンセラーが生徒や先生から来ていた相談を記したというノートから、杏子に関する相談の部分を纏めて持ってきてくれた。

これは私達の罪滅ぼしで、自己満足でしかない。それでも、同じことを繰り返さないために絶対にしなくちゃいけないことだから、とカウンセラーは強く言った。

これは後々聞いたことだが、他校の問題への介入となるこの行動に難色を示す先生たちを、カウンセラーが説得して回ったそうだ。

そして、親をはじめとし、何年にも渡って執拗にいじめをしてきたクラスメート達や何の対応も取らなかった教師と、非常に多くの加害者がいるこの件は、公になった後しばらく世間を賑わせた。

飛び交っていたのはやはり無責任で言いたい放題な言葉だったが、その中のほんの一部には、私たちと同様に次の犠牲者を出すまいと言う願いが籠った言葉も、きっとあった。


私はあの時本当に悔しかった。

彼女に手を差し伸べることがないお前の手なら届く。

けど、私が差し伸べた手は決して彼女に届かない。

私の手が届くようになるのは、どんなに早くてもすべてが手遅れになった後。

彼女を救えるその手が彼女を緩やかに絞め殺した。

―それが、私はとても悔しかった。


今になってようやくはっきりわかることがある。人は自分のことさえ満足にコントロールできない。理解できていやしない。

だから半分でさえ、他人を理解することも、信用することも不可能だろう。そんな世界で生きることはとても苦しいだろう。だからこそこの心を隠して他人と付き合っていかなければならないのだろう。

人は、ひとりで立って、他人と交わっていかないといけないのだろう。たとえ一人でも、独りでも。ひとりとして、世の中と生きていかないといけないのだろう。

だがそれは頑なに他人を拒み、除け者にし、抑圧していい理由にはならない。ましてや、一人を槍玉にあげることで繋がりを、安息を得ていい理由になどになりはしない。


ただひとついえることは、彼女が出した結論と言うのは、きっと間違いではないものの一つだったのだろう、と思う。けれど、そこに至るまでの過程を杏子はあまりにも独りで歩きすぎたのだ。もっといい答えがあったはずなのに、もっといい答えを探せたはずなのに―そう、もっといい答えが―


そんなことを思いながら、生きる楽しみも、お金も、人とのつながりもなくなった私は、10年ぶりにいつもの場所に、いつもの時間にやってきて―――


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