負けてこい 01

 西日暮里にしにっぽり駅を出ると、昼下がりの街はどこかよそよそしさがあった。

 初めて降りた駅に緊張しているというのもあったが、それ以上にどうしてこんな場所に来たのだろうという思いも、二戸にとクリスの胸中に無いではなかった。

 街を行く人々は、全員が早歩きで目的地へと向かっているように見える。複雑に入り組んだ道を迷わずに歩いていく人々を見ると、クリスはどうしても自分が彼らと同じ人間であるとは思えなかった。

 ひたいにじんわりと浮かぶ汗を手のこうぬぐう。ユニクロのリュックを背負い直し、スキニージーンズのポケットからスマホを取り出して地図アプリを開く。文明の利器が表示する道はここからまっすぐ一本、大通りを進めば目的地にたどり着くようだ。

 不安はあったが、元々迷いに迷ってここまでやってきたのだ。とにかく、先に進むしかない。駅前でぐだぐだしていたところでいたずらに時間が流れるだけだ。

 クリスは思い切って一歩を踏み出す。森も林も見当たらない西日暮里の街は、ひたすら無機質に彼をがぶりがぶりと飲み込んでいった。

 見知らぬ街、同じようなビルが立ち並ぶ風景は、クリスにとって初体験だらけだった。目的地は大きなビルの中にあるテナントの一つらしいが、そういうものに馴染なじみのないクリスとしては、他人の家に入るような抵抗感がある。

 ビルの奥へと続く道は暗く、狭く、コンクリートの壁がせまってくる。自ら怪物かいぶつの胃の中に供物くもつとして飲み込まれていくような気持ちになりながら進むと、ようやくそこに「ダンススタジオ」の看板を発見した。

 扉を開けて、涼しい空気がクリスの首筋を冷やしていく。そこで初めて、クリスは自分が蒸し暑さを感じていたことに気づいた。

「いらっしゃいませ」

 受付の女性が話しかける。

「ご予約の方ですか?」

「あ、えっと……はい、たぶん、そうだと思います」

 クリスのたどたどしい答えに、女性はわずかに首を傾げた。

「ご予約のお名前は?」

「えーと、ちょっと待ってください」

 握りしめていたスマホを開いて、メッセージを確認する。

「あー、『吸血きゅうけつひかりまつり』です」

 自分で伝えておきながら、合っているのかというよりも本当にこれで通じるのか不安だった。馬鹿にされ、だまされているのではないかという思いはあったが、メッセージで送られてきたときにその名前について確認しなかったのだから信じるしかない。

「はい、『吸血光祭り』ですね、奥のスタジオになります。更衣室はあちらにありますので、着替える場合はご利用ください」

 通じたようだった。

 早口でテキパキと指示する女性の言葉を何とか理解して、先に更衣室で着替えを済ませた。貴重品を入れるためのポーチを一つ持ってコインロッカーに荷物を入れ、自販機でスポーツドリンクを一本買ってスタジオに入る。

 ゆっくりドアを開けると、中は受付よりもさらに数度すうど気温が低かった。

 壁の一面が鏡で出来た部屋。鏡の壁には手すりが一本、床と平行して伸びている。リノリウムの床は灰色のマットな質感しつかんで、天井のLEDライトの光をやわらかく反射していた。

 フロアの中央で、足を開いて床に座り、両肩を床にくっつけるように柔軟体操をする女性が一人、クリスの目に入った。顔はスタジオの奥へかたむけているため、結い上げたポニーテールと片耳の裏側しか見えない。

「早いじゃない」

 クリスの方を見ずに女性は言った。ゆったりしたリズムで身体からだをわずかに動かし、股関節を伸ばしている。

 女性は床から肩を離して鏡越しにクリスの姿を見た。深夜の通販番組で、運動器具を紹介する外国人女性のような服装の女性は、つくしのように細く縦に伸びた見知らぬ男子を認めると、眉根を寄せた。

「キミ……誰?」

 たちまち広げていたあしを戻して立ち上がる。自然なスタンスで足を広げて、片方の手を腰に当てて前髪をかきあげる。姿勢を正して胸を張り、できるだけ体を大きく見せようとしているのだろうが、女性は一般の平均身長よりも背が低く、ともすると中学生に見えるほどだった。

「おすわり」

「……え?」

「背ェ高くて不愉快ふゆかい、おすわり。正座でもいいわ」

 突然の命令に混乱しつつも、この場を穏便おんびんに済ませるには相手に従うしかないと思ったクリスは、とりあえず女性の言う通りにその場に座ることにした。さいわいにもリノリウムの床は表面が柔らかく、ひざを折って正座をしても痛みはない。

 正座するクリスに女性が近づく。上目うわめづかいで無抵抗のクリスを見てようやく安心したのか、女性の顔から緊張感は薄れ、嗜虐しぎゃく的な笑みに変わっていく。

 何プレイだよ、という言葉を飲み込んで、しばらく対峙たいじしていると、ドアを開けて新たにスタジオに入ってくる者があった。

「おーっす、こんちはー……って、何してんのアッコ?何プレイ?」

 クリスが思っていることそのままをツッコんだのは、髪の毛を七三にした大人の男性だった。大き目のカバンを持参してくたびれたジャージを着ている。

「不審者よ」

「いや、その不審者に対して何の拘束こうそくもせずに正座させてるお前は何だよ」

 ドアに対して背中を向けているクリスは、ふり向いただけで目の前の女性に怒られそうだと思ったために、男性を鏡越しに見るしかなかった。

 男性は回り込むようにしてクリスの前に立つ。アッコと呼んだ女性がにらみつけている若木のように細い不審者の顔を見た。

「あー、アッコちゃん。この子不審者じゃないから。ほら、ライジンさんが言ってた面白いって噂の子だよ」

「え、その話知らないんだけど」

「あれ?言ってなかったっけ?」

「聞いてない」

「あちゃー、忘れてたか!こりゃあうっかりだ」

 ハッハッハ、と演技のように笑う男性。どうやらこの男性が、クリスの事を知っているようだった。

「あの……」

 クリスが男性に向かって声をかけて立ち上がろうとすると、背の低い女性が一歩下がって身構えた。一方の男性は鷹揚おうような態度でニコニコと笑っている。

「アンタ、ライジンさんから紹介されてここにやってきたんだろう?」

「ライジンさん、っていうのは分かりませんが……女井おないとおるさんから紹介されてやってきました」

「オナイトール?」

 聞き慣れない、と言った様子で女性がいぶかしむ。

「合ってる合ってる。アッコちゃんは知らなかったっけ?ライジンさんの本名。あ、アンタも正座とかいいから楽な格好しなよ」

 二人の男女が情報のすり合わせをしているのをクリスが胡坐あぐらに座り直して聞いていると、背後のドアがまた開いた。

「ういーっす、こんにちはー。……ん、何ですかこの状況?」

「チィーッス!いやー、駅前で珍しくタニーとばったり会っちゃって、嫌だっつったんだけど一緒に来るって聞かねぇのコイツ、ホントきめぇ!」

「っせーな!シゲこそ駅前で初デートみたいにそわそわしやがって気持ち悪ぃ」

「いや、お前らもうちょっと空気読め、な?」

「空気読んでたらこんなトコロいませんって!」

「おい、どう意味だタニー」

 個性豊かな四人の男性が一気に入ってきて、スタジオ内はにわかににぎやかになった。目の前の男女二人だけでも色々と混乱していたというのに、さらに人数が増えたことで、クリスの脳は状況を整理しきれなくなっていた。

 各々、荷物を置いたり、シューズのひもを締め直したり、柔軟体操を始めようとしているのを、クリスを知っている男性がため息混じりでいさめる。

「おいお前ら、ちょっとはこの状況を見ろよ。どう見たって新入りだろォ?自己紹介させるとか挨拶させるとかないワケェ?」

 七三分けの男性は、時々みょうに芝居がかった話し方をする。

「はッ、別にしたいなら勝手にすりゃいいじゃないスか。誰かに言われないと自己紹介もできんようなヤツに構ってもしゃーないっスよ」

「シゲの言う通りですね、大体なんでフロアの真ん中で胡坐かいてんですか」

「あっ、わかっちゃったぁ……そこのナナフシっぽいヤツがアッコさんのことナンパしてたんじゃないスか?」

「マジ!?お前勇気あんなぁ」

「おいタニー、どういう意味だ?」

「ヒエッ……」

「まーてまて待て待て!お前らいいから一回クチ閉じろ、な?コイツもすっかりおびえっちゃってフツーのナナフシが借りてきたナナフシみたいになってっから」

「何スか、借りてきたナナフシって」

「コイツもうダンサーネームナナフシに決定じゃないですか」

可哀想かわいそうに、どっかのハゲが最初にナナフシとか言うから……」

「おう誰がハゲじゃコラ。こちとらハゲじゃのうてつるっパゲじゃ!て、誰がつるっパゲやねん!」

「シゲ、すべってっから」

「誰の頭がツルツルじゃコラ!」

「なんか、ゴメンなぁ。コイツら悪いヤツじゃあないんだけど、頭が悪いんだよ」

 何かを諦めたのか、七三分けの男性は、クリスに向かって片手を顔の前に立てて謝罪のポーズをとった。

「誰の頭の形が悪いんやっちゅーねん!」

「シゲ、おすわり」

「わん!」

 アッコと呼ばれる女性の言葉に応じるように、クリスの背後で誰かがその場に座る気配があった。

 この場の無軌道むきどうさに目を白黒させながら、ひょっとしたらとんでもないところに着てしまったのかも知れないという思いが、クリスの胸の内を嵐のようにかき回していた。


 ◇


 壁一面の鏡の前に座る六人と、自分の真っ赤に引きつった顔を見ながら、クリスは自己紹介をした。

「女井透さん……ライジンさんって言った方が良いんですかね?ライジンさんに紹介されてやってきました、二戸にとクリスと言います。よろしくおねがいします」

 深々とおじぎをして顔を上げると、クリスよりも年上ばかりの六人の様子はかんばしくなかった。七三分けの男性は口の端をニコニコと上げて微笑ましそうにし、その隣に座るこの場唯一ゆいいつの女性は無表情、スキンヘッドの男性は鼻くそをほじり、他三人も対して気にかけていない、と言った様子だ。

〇点れいてん

 鼻くそをはじいて飛ばしたスキンヘッドの男性が告げる。

ったな!鼻くそ飛ばすなアホ!」

 隣にいた眼鏡につば付きぼうの男性が非難するも、関係ないとばかりに立ち上がり、クリスの目の前に立つと鼻くそをはじいた人差し指でひたいをグリグリ押した。

「ライジンさんの紹介か何か知らんけど、面白くない。真面目クンか。全く、最近の若いモンはセンスがないんよな」

「お前も若者だろうが、シゲ。大体、初めての場所、初めて会う人、大人ばっかりの場所で自己紹介なんてする機会めったにないだろうよ」

「だからこそじゃないですか、ヨーヘイさん。そーゆーところで爪痕つめあと残していけない奴がダンスで爪痕残していけるはずないですやん。大体さっきナナフシって分っかりやすい名前もらっといてそれ使わんと自分が用意したような何やニトクリス?そんなカッコいい名前つけて、面白いと思っとんのか」

「いや、あの……二戸クリスは本名です」

「え」

 気まずい沈黙。

 シゲと呼ばれた男性のグリグリとクリスの額を押す仕草しぐさすら止まり、LEDライトに照らされたスキンヘッドはじんわりと汗がにじみ始める。

「はーい、シゲくんお手付きでーす」

 もじゃもじゃ頭の男性の言葉で、シゲがすごすごとクリスから離れた。

「調子こいてっから気まずくなるようなこと言うんだろ」

 七三分けの男性の言葉に呼応するようにシゲの両隣りょうどなりの男性がシゲのスキンヘッドを小突こづいた。

「いえ、何ていうか……すいません」

 自分が原因で起きたことに恐縮しっぱなしのクリスは謝ることしかできない。

「いーのいーの、元はシゲが調子乗ったのが悪いだけですから。それにしても、クリスって珍しい名前ですね。ハーフ?」

 もじゃもじゃ頭の男性が問う。

「いえ、クオーターです。母親がハーフで」

「クオーターでも外国人っぽい名前にするんですね」

「外国人っぽい、っていうか苗字と繋げたらそのまんまだけどな」

「いや、マジスよヨーヘイさん。キャスターっスよキャスター」

「タニー、それは多分クリスには分からないわ」

「あ、えっと……少しだけなら分かります」

「マジ!?あれ元ネタエロゲーじゃん!」

「はーい、シゲくんお手付き二回目入りまーす」

 スキンヘッドに左右から拳骨げんこつが振り下ろされる。おおお、とうめきながら頭をおさえるシゲを差し置いて、七三分けの男性が立ち上がった。

「まあ、クリスくんに関して分からないことはこれから聞いていけばいいし、とりあえずこっちも名前だけでも教えておかないと、クリスくんも困っちまうだろ」

「うっしゃ!自己紹介しますよ!」

 シゲに拳骨を振り下ろしたつば付き帽に眼鏡の男性が、腕をわきわきさせて立ち上がろうとする。

「お前らにさせると面倒そうだから無し。俺から名前だけ紹介していくぞ」

「ええー、ヨーヘイさんそんなご無体むたいなー」

「えー、じゃない」

「びいー」

「ほらそーゆーところだっつってんの」

 自己紹介をしていると練習の時間がなくなるということで、七三分けの男性がその場の全員をクリスに紹介することになった。

 全員に向かい合うようにして床に座ると、クリスはまるで自分が面接されているかのような気分になる。おまけに自分の顔は、六人の奥にある鏡で逐一確認出来てしまうので、自分がどんな表情を相手に見せているのかが自分に丸見えだ。居心地の悪さを覚えながら、クリスは自然と体育座りの膝をギュッと強く抱えた。

「まず俺からな。俺はヨーヘイ。この中では唯一普通の髪型だから分かりやすいな。実力も普通、真面目だけがの普通のおっさんだ」

「確かに普通のヘンタイっスね」

「そうそう、ヘンタイが取り柄のロックダンスお化けですね」

「そういうボケは全部無視するからなー。クリスが一番最初に出会ったこの子は、アッコちゃん。今日の練習会では紅一点」

「ヘンタイなヨーヘイさんの彼女」

「早く結婚しちまえよヘンタイ」

「タニー、シゲ、あとでケツバット」

 冷ややかな口調でアッコが言う。

「そこの分かりやすいハゲはシゲ。分かりにくい眼鏡とつば付き帽がタニーだ」

「どーもー、分かりやすいハゲでーす」

「どーもー、分かりにくい眼鏡とつば付き帽でーす」

 おどける二人の声がスタジオ内に響いて、すみまで行き届いて、消えていった。

「ヨーヘイさーん、コイツマジでノリ悪いんですけどー」

「お前らのノリがクドいんだよ、背脂たっぷりラーメンみたいなノリしやがって。で、唯一ゆいいつ俺についでマトモそうなもじゃもじゃ頭がバジルな」

「こんばんは、クリスくん。よろしくお願いしますね」

「あッ、テメエ!自分だけ心象しんしょう良くして若者に取り入ろうとしてやがんな!?」

「キミ達の個性がドリアン並にくっさいんだから、僕だけでも清涼剤になってあげないと可哀想でしょう?」

「何が清涼剤じゃ!ジェノベーゼみたいな名前しやがって!」

「食材から連想した料理名を言ってどうする」

「うるさい奴らだろ?」

 苦笑いするヨーヘイに対して、クリスがおずおずと言う。

「いや、あの……一人だけずっと一言もしゃべらずにこっちをジッとみている人が……」

 言うと、全員の目がその無言の男に向けられた。

 無言の男は、正座をして背中をまるめてもなお隠し切れない筋骨きんこつ隆々りゅうりゅう体躯たいくをしていた。四角張った肩を閉じ込めるようにぴっちりと張り付いたシャツが悲鳴をあげているかのよう。

「あー、ソイツは体がもううるさいだろ?とんとん、って言うんだ。この中で一番のヘンタイだ」

「おうクリス、気をつけろよ。ソイツがぶっちぎりのヘンタイだ」

「ヘンタイオブザイヤーですね」

「ヘンタイマックスハートだ」

「スーパーミラクルエキセントリックアルティメットヘンタイよ」

 ぼーっとした顔からは、とんとんがそこまでヘンタイと言われる理由がクリスには見つからなかった。ヨーヘイから何か一言、とんとん何か言えと言われて出た言葉を聞くまでは。

「君は今期アニメのどの幼女の乳歯にゅうしを食べたい?」

「マジですか……」

「分かっただろ?とんとんはマジモンなんだよ」

「アッハハハ!とんとんマジキモいなー!最ッ高!」

 全員がドン引きするなかで、シゲとタニーが腹を抱えて笑っていた。

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