明治幻想奇譚 不死篇
藤巻舎人
第1話 不死者たちの午後
その男は言った。
「もし、お主が本当に、心の底から死を欲した時、あるいは生への執着がこと切れた時、この実を割って中身を飲むが良い」
そして俺は、劫火に囲まれ、いよいよ死を覚悟した時、もはやこれまでと生を諦めた時、不意にいつも首から下げていたその実のことを思い出し、最後の戯れとして、切腹の前に硬い殻に覆われた実をかち割り、中身を飲み干した。
***
寝室のドアが苛立たし気に開け放たれ、床板を踏み鳴らしながら誰かが這入ってきた。
「
俺はまだぼんやりした頭のまま、ベッドの上で上半身を起こした。
「あ、ちょっと、もうお酒臭い。また朝まで飲んでたんですか?」
声の主は酒気に我慢ならないといった感じで、窓を開けにかかった。
「おい、寒いだろう」
毛布にくるまりながら、俺は思わず不平を漏らした。
「はぁ? 空気入れ換えないと、とてもいられませんよ」
ああ、思い出した。こいつは居候のガキだ。
頭はまだ半分夢の中。
「え? 今何か言いました?」
「いや、何も」
いちいち勘の鋭い奴だ。
「まったく、おれにばっかり仕事させて。忙しいんですよ? 下の骨董屋の店番から、商品の整理、帳簿付け、仕入れに買い付け、炊事洗濯掃除に、銃の手入れに、弾薬やその他もろもろ武器の管理、それに武器商人からの・・・」
「あーうるさい。おまえは小姑か」
「はぁ? ちょっ、言っていいことと悪いこと・・・」
「黙れ! 俺は夜中まで仕事してそのまま付き合いで朝まで飲んっでたつーのに、起き抜けからぐだぐだうるせぇっつーの」
「ただ飲み歩いてただけじゃないですか⁉」
「あーもーうるせえガキだなぁ」
「ガキじゃないです! ちゃんと
俺は無言で春日の襟首を掴み、思いっきりベッドの上に引き倒して馬乗りになった。
「いい加減黙んねーと、襲っちまうぞ?」
春日は俺の下で顔を真っ赤にしながら意味のわからない言葉をもごもご呟いた。
俺はニヤリと笑って、ベッドから飛び起きた。
「ちょっと出かけてくらぁ。夕方には戻る」
こいつにはこれが一番効く。かわいい奴だぜ。
オッス、おらトキジク。よろしくな!
え、明治時代らしくない言動? 時代設定おかしい?
はぁ、何言ってんの? らしくないってなんだよ。そもそも時代設定ってなんだよ意味わかんねーよ。
てなことは置いといて、俺は寝室に春日を放置して、階下へと階段で下りた。
ここは神田の神保町にある俺の店舗兼住居だ。一階はやる気のない骨董屋で、二階が住居。ついでに居候兼下働きの児屋根春日も住んでいる。さっきのぎゃーぎゃーうるさいガキのことだな。
洗面台の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗い、うがいをして、コップ一杯飲んだ。
俺は西洋に長く住んでいたから、建物は和風だが、内装や家具はかなり洋風だ。だからベッドに寝るし、靴は脱がない。明治の皇国とはだいぶ生活習慣が違う。
鏡を覗き込むと、無精髭が伸びていたがまぁ気にせず外に出た。
十一月の空っ風が吹きすさぶ曇天の午後。俺は着古したツイードのジャケットを羽織り、帽子を目深にかぶって、歩き出した。
さて、パブでサンドイッチをビールでやっつけたい気分だったので、この国で唯一それらが手に入る店に向かった。
外国語学校の近くにある英国人がやっている店に這入って、カウンターでハムとチーズのサンドイッチとエールをパイントグラスで注文した。
新聞を読みながら二杯目のエールを飲み干そうとする頃、一人の白人男性が店に這入ってきた。
ウールの黒の帽子に黒のインヴァネスに真黒の革靴。襟を立て、スラリと背の高い男の姿は、まるで鉛筆の芯だ。あるいは飛び切りの闇を纏った十字架。
暗黒の男は隣のスツールに座り、キュウリのサンドイッチと紅茶を注文した。
「マスター。ここは紅茶なんて置いてたんだな」
俺はエールのおかわりを頼んだ。
「ああ。スコーンだってあるよ」
マスターはにこやかに答えた。
知らなかった。
「調子はどうだい? トキジク君」
帽子を脱いだ闇の男の髪もまた漆黒。瞳も同様。そして肌は恐ろしく白い。もはや青白い。そして顔は鋭利な刃物のような美丈夫。もはや人の形をした何かだ。
まぁそれは遠からず・・・。
「さぁね。何の調子かにもよるけど」
「そろそろ君の店に寄ろうと思っていた頃なんだ」
「何かお眼鏡にかなう物が出回ってるんですかい?」
この二十代後半に見える紳士は、骨董に目がない。特に日本の古い器や刀剣類に熱を上げていた。
「うむ、その辺りもそうなんだが、ちょっと気になる噂を耳にしてね」
「相変わらず遠回しだな。夜になっちまうぜ。だいたいあんたがこんな昼間から出歩いてるなんて、驚きなんだが」
「そうかね? 私くらいになると、この程度曇っていたら厚着すれば十分」
それは余り嬉しくない情報だ。
「話が逸れかかってる」
「君の軽口よりはましだと思っているよ」
暗黒の男は氷のように透き通った笑みを浮かべた。
「マグナス卿、あんたの前で軽口を叩ける奴なんてそうはいないと思うぜ?」
今度はクックッと珍しく声を出して笑った。
この人もこんな風に笑うんだ。
「そんな死神を見たような目で見ないでくれ。今日はちょっと浮かれているのかもしれない。原因は噂話なんだが・・・」
俺は黙って先を促した。
「最近聞いたことないかい? 不死狩りのことを・・・」
ヴァンパイアであるマグナス卿は、実に楽し気な様子だった。
背筋が寒くなるぜ、まったく。
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