第十章 帰還

第1話 覚醒


 遠くで人の声がする。

 すぐそばで、小さな機械音がする。

 嗅ぎ慣れない薬のにおい。このにおいには、覚えがある。


「ん……」


 無造作に目を開けようとして、あまりのまぶたの重さに閉口した。接着剤で固められているのかと思うほど、なかなか開くことができなかったのだ。

 それでもどうにかこうにかうっすらとこじ開けてみると、まずは白くて四角い天井が目に入った。

 ひどくまぶしい。目が痛いほどのまぶしさだ。周囲をぐるりとクリーム色のカーテンで覆われている上に、電灯もついていないというのに。このまぶしさは尋常ではない。一体どうしたことか。

 ベッド脇には、ドラマなどでもよく見るような生命維持装置らしきものやら、バイタルをチェックする機器などが置かれている。


(戻って……きたのか)


 腕に刺さっている点滴そのほか、全身を様々な管につながれた惨めな姿。口には酸素マスクらしいものがあてがわれている。ひとしきりそれらの状態を観察してから、俺は体を動かそうとした。けれども、それは瞼以上に大ごとだった。とても動かせたものではない。筋力が衰えすぎているのだ。

 それはそうだろう。たとえ時間の進行があちら世界の十分の一だったとしても、俺はこの場所でぴくりとも動けずに、一か月あまりを寝て過ごしてしまったはずだからだ。

 戻って来られたのはいい。それが目的だったのだから、これは一応のハッピーエンドだ。だが、これから俺には相当に大変なリハビリが待っていることだろう。ある程度は予想していたことだったが、それを考えるとうんざりせずにはいられなかった。


(しかし──)


 あちら世界は、あれからどうなったのだろう。

 俺が戻れたということは、すべて解決したということなのだろうか。そうだったらいいのだが。

 「分限」からあふれ出したはずのオーガやトロルの処理はどうなったか。「魔王」がいなくなったことで、魔族側の政治が混乱してはいないか。教育のこと、各地域の整備のこと。残してきた仕事は山ほどある。それに。

 レティは……ライラは。

 また、ほかの仲間たちは──。


(それから……ギーナ)


 彼女は一体、どうなった。

 もしもあのとき俺が死んだのなら、ギーナはどうなってしまっただろう。

 石のように動かない首を、どうにか少しだけ傾ける。そうするだけでも首筋がぴりぴりとひきつって悲鳴をあげた。ぎぎぎ、と本当に音を立てそうなほどだ。

 カーテンの隙間から、こちら世界の太陽の光がほんの少しだけ紛れ込んできている。と、外でぱたぱたと軽い足音がして、布地の上に人影が浮かんだ。そこにそうっと隙間が作られる。

 顔をのぞかせたのは、女性の看護師だった。


「あら……日向さん? まあっ! 目が覚めて……!?」

「…………」


 返事がしたいのは山々だった。だが思った通り、俺の舌も喉もぴくりとも動きはしない。それでもどうにかこうにか、ほんのわずかに顎を上下させる。女性はびっくりしたように目を瞬かせた。


「ま、待っててくださいね。すぐにドクターを……!」


 そう言うなり、枕元の呼び出しボタンを押し、相手に事態を伝えると、看護師は慌てて外へ走り出て行った。





「バカ。ツグ兄の、バカ野郎……!」


 その後、医者がやってきて様々な検査を終え、一連の説明が行われてから、やっと懐かしい顔がやってきた。

 しらせを聞いて駆けつけた家族の面々は、それぞれに大喜びをしてくれている。両親はもちろんのこと、兄の孝信も、弟の良介も。

 どうやら俺は、医者から「もう目を覚まさない可能性もある」と言われていたようなのだ。喜びが一入ひとしおなのも無理はなかった。すでに、俺の酸素マスクは外されている。


「ほんっと……心配させやがって。ばっきゃろう。ツグ兄の大バカ野郎っ……」

 良介はもうずっと、俺の寝間着にかじりつくようにしてべそをかいている。それにしても、バカバカうるさい。

「ほら、泣くなリョウ。別にあの事故だって、ツグのせいじゃないんだからな」

 弟の背中を叩いてそう言ったのは兄の孝信。兄は俺よりも長身だ。博覧強記の上に空手も有段者という、まさに文武両道を絵に描いたような大学生である。

「寝ている間、みんなでずっと交代で、あんたの手足の曲げ伸ばしとかやってたのよ。そうしといたほうが、あとの治りが早いからって」

 基本的に楽天的で気丈な人である母は、涙を浮かべつつもごく明るい声でそう言った。

「だからきっと、リハビリは早くて済むわ。つらいでしょうけど、頑張るのよ、継道つぐみち

 俺は黙ってわずかに頷きかえす。

「ともかく、目が覚めて本当に良かった。もちろん、みんな信じていたけどな」

 いつも穏やかで控えめな父も、静かな声ながら喜びを隠せない様子だった。大きな手でぽんぽんと俺の肩を叩いてくれている。


「ま……の、は」

 ろくに動かせない唇と声帯で、俺はどうにかそう訊ねた。だが、やっと出せた声はがさがさで、ひどく聞き取りにくいものだった。

「あ、真野ちん? あいつならもう、退院してるぜ」

 良介の目はまだ真っ赤だ。ぐすっと洟をすすりあげて、にかりと笑う。やや声が大きいのは照れ隠しか。

 しかし、何が「真野ちん」だ。どうやらこいつら、勝手に仲良くなってしまっているらしい。

「今じゃもうぴんぴんしてるよ。たまにこっちにも見舞いに来るぜ。連絡はしといたから、また来ると思うけどな」

「そ……か」


 聞けば真野も、事故後、この病院に入院していたのだそうだ。その後、体力が回復してから、親と一緒に菓子折りを持って、今回の件で俺を巻き込んでしまったことを謝りに来たらしい。

 ちなみに、一連の原因になった真野のいじめっ子連中は、その後退学や停学処分になったという。つまり、真野の周囲はどうやら平和になったというわけだ。そのことも併せてあいつは「みんな、日向くんのお陰です」などと殊勝なことまで言ったらしい。

 まあ、あちら世界での態度からして、真意はわかったものじゃないが。


「幸い、夏休みを挟んだからな。うまくいけば、なんとか留年はしなくて済むだろう。事情が事情だし、そこは父さんも学校に話をしにいくつもりだから」

「……よろ、しく」

 頭を下げたいところだったが、俺はやっぱり、わずかに首を動かすことしかできなかった。

「そうよ。『どうしても授業に出ろ』って言うんなら、母さん、車いす押してでもあんたを学校に連れてってあげるからね!」

 母の鼻息は荒い。隣で孝信が苦笑した。

「母さん、無理すんな。また腰を痛めるぞ? 力仕事なら俺に任せろ。試験が終わってしばらくは講義がないからな」

「お、おお、オレもっ! オレも手伝うっ! いいだろ、タカ兄!」

 良介も噛みつくように割り込んできた。

「あり、……がとう」


 まったく、家族というのは有難い。

 が、そんなに迷惑は掛けられない。なるべく早く復帰できるように、とにかく必死でリハビリせねば。

 そんな風にひとしきり、この一か月の苦労話を聞かされたあと、みんなは一旦引き上げた。俺の状態は安定しているらしく、みな安心した様子で「また明日くるから」と言ってくれた。明日はナースセンターに近いこの部屋ではなく、一般の大部屋へ移されるらしい。

 カーテン外の陽が暗くなりかかったところを見ると、どうやら夕刻が近づいているようだ。


(さて、リハビリか。……気合いを入れんとな)


 ベッドの上で、そんなことを考えていた時だった。

 静かに部屋に入って来た人の気配を感じて、俺は閉じていた目を開いた。何度かやっているうちに、少しずつ動かしやすくなっている。俺はまた看護師が来たのだろうと思って、何の気なしに音のするほうへ目をやった。

 だが。

 カーテンの隙間から覗いた顔を見て驚いた。


「……ヒュウガ。大丈夫?」


 ギーナだった。


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