第22話 変貌


「ヒュウガっち!」

「ヒュウガさまああっ……!」

 轟音の向こうに微かに聞こえるのは、レティとライラの声だろう。

 俺は再び目を開けて歯を食いしばり、さらにまた前に進んだ。


 マリアまで、あと少し。

 もう少しで、手が届く。

 と、肩を覆っていた鎧の一部が、角と同様に割れ砕けた。その欠片かけらが、こめかみや頬のあたりを掠めていく。びしっと衝撃が走ったかと思うと、ぬるりとした液体が目に入り、顎まで滴っていった。視界の片側が、セロファンを貼り付けられたように赤く染まる。


「マリア。……頼む。どうか、聞いてくれ」

 俺は構わずさらに手をのばし、言い続けた。

「どうか、諦めないで。考えてくれ。……お願いだ」


──お前が……いや、お前も幸せになるために。


「…………」


 マリアが信じられないものを見るように俺を凝視している。その顔はすっかり蒼白になっていた。ゆっくりとかぶりを振りながら、俺が近づくにつれてじわじわと後退している。


「やめて。……来ないで」


 びきびき、バキバキと全身の鎧が音を立てる。肩や腕の一部はすでに飛び散って、無残なものになっている。


「……どうして。どうして、そこまで──」


 ここまでくれば、はっきりわかった。

 その唇が戦慄わなないているのも。開ききったその瞳が、呆然と俺を見つめているのも。


「わからない。……でも、見えるんだ」

「な、……なにが、ですか……?」


 いや、それは単なる幻だったのかもしれない。

 その時の俺に、その違いは分からなかった。

 だがその時、片目の見えなくなった俺の脳裏に、はっきりとその子たちの姿が見えたのだ。


「たくさんの赤ん坊。そして……小さな子供たち」

「…………」

「みんなが、身を寄せ合って……泣いているんだ。それぞれ、だれかを……たぶん親を、呼んでいる──」

「…………」


『愛してよ』

『愛してよ』

『どうして……? どうしてママはぼくをぶつの』

『どうして私を置いて、いなくなったの』

『どうしてパパは、ママとわたしにひどいことをするの』

『おなかがすいたよ』

『さむいよ、さむいよ』──。


──どうして、パパは。

──どうして、ママは。

──ぼくらを……愛してくれなかったの。


 子どもたちの声は、うわんうわんと俺の脳裏に響き渡った。しかし、虚ろでぼんやりとしたその顔には、悲しみや寂しさといったようなものはどこにも見えない。

 あるのはただ、何かを諦めたように表情を消した、ひどく静かな顔、顔、顔だった。


「……来ないで。寄らないで」


 切れぎれにマリアがつぶやく。

 うっすらと首を横に振りながら、俺が一歩近づくと一歩あとずさるというようにして、じわじわと離れようとする。


「向こうへ行って。ほっといて……!」

 次第しだいに、マリアの口調が変わり始める。

「あんたなんかに、パパとママの代わりはできない。なにを偉そうに言ってるの? あんただって、まだそんな子供じゃないのっ……!」


 声も次第に、幼いものに変わっていく。

 どうにか片目を開けて見れば、マリアの姿も変貌を始めていた。

 背が低く、体が小さくなっている。

 着ていたはずの修道服が、すとんとした白いワンピースのようなものになっている。

 長い金髪と碧眼はそのままだが、それは男の子とも女の子とも言えるような、性別のはっきりしない子供の姿だった。


「マリア──」

「うるさい! あっちへ行って。お前なんか、大っ嫌い……!」


 それはまるっきり、子どもが暴れて両腕を振り回すのと同じだった。小さな拳が無造作にぶんぶんと動くと同時に、発光する湾曲した鋭い刃がいくつも出現した。魔撃だ。

 魔撃の群れは、ちょうどブーメランが飛ぶようにしてきゅるきゅると回転し、そのまま俺に襲い掛かった。

 俺は反射的に顔の前で腕を交差させた。


「ぐっ……!」


 腕や腰、肩や太腿に激痛が走る。ひび割れていた鎧の手甲や胴当てなどが砕け、遂に盛大に肉を裂かれたのだ。

 持ちこたえられず、俺は無様に、空中で片膝をつく形になった。

 魔撃は二度、三度と同様にして俺を襲った。そのたびに、ざくりざくりと肉を抉られる。致命傷だけはどうにか避けていたが、さすがに無傷でいるというのは無理な相談だった。肩に、腰に、太腿に、次第に傷が増えていく。


「いやああっ! ヒュウガ!」

 背後でギーナの悲鳴が上がった。

「やめて、マリア! もうやめてえっ!」

「ヒュウガっち! ダメにゃ、死んじゃうにゃああ! もう無理しにゃいで!」

「戻ってください! お願いです、ヒュウガ様っ!」


 レティもライラも、すでに泣き叫んでいるようだ。

 が、子供はそんな声などまったく聞こえないようだった。ただ俯いて、ぶつぶつと何かを言い続けている。

 じっと耳をすますと、どうにかこうにか、こんな声が聞こえてきた。


「キボウ、なんて……ない。どこにも、ない」

「もう、だれもしんじないの」

「もう、なくのはいや」

「くるしいのも、いや」

「たたかれるのも、けられるのも……こわい声でどなられるのもいや」

「いや、いや。……もう、いやなのっ……!」


 見れば子供は、両手で顔をごしごしやりながら、ただぽろぽろと泣いている。それはもう、単なる小さな幼児の態度でしかなかった。


「そんな、ことは……しない」


 言った途端、ごぼっと胸の奥から熱いものがあふれ出した。魔撃のひとつが、どうやら脇腹のあたりを切り裂いたようだ。なにか熱いものがそこから噴き出し、太腿まで衣服を濡らして、さらに滴っているのがわかる。

 少しずつ、体が冷えていく。

 それと同時に、次第に視界が暗くなり始めた。

 俺は口元をどうにか拭うと、もはや這うようにして子供のほうへ近づいた。


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