第11話 神の声


 俺は、雲に隠れてごく一部しか見ることのできない、鱗に覆われた巨体を呆然と見上げた。


 驚くべきことだった。

 あの古のドラゴンとその奥方が、俺たちの前に姿を現すとは──。


 しかし、この巨大さはもはや異常だった。こんな遠くから見ていても、腹部の一部分しか認識できないのだ。

 この世界が地球のような惑星の形をしているかどうかは定かでないが、もしもそうでも、彼らはその体で星全体を覆い隠してしまえるほどの大きさなのでは。

 かれらはそんな体で、この戦いに参戦しようというのだろうか。あれではマリアたちどころか、こちら魔族軍とヴァルーシャ軍まで瞬時に一掃されてしまいかねない。

 が、ガッシュは俺の懸念にすぐに気づいたようだった。


《大丈夫だってばよー。心配しなくても、この世界を踏みつぶしたりはしねえから。そんくらいのこと、おじいちゃんたちだって分かってるからなー? アホじゃねーんだから》

《ああ……うん。そうだな──》


 そう返した時だった。

 この場の空間いっぱいに、聞いたことのない声が轟き渡った。


《……サキ、コ……イ、コヨ──》


「うわっ……!」

「な、なんだ……!?」


 周囲の兵たちが驚いて、きょろきょろと辺りを見回す。急に鳴り響いた巨大な音に、みな自分の両耳を抑えるようにしている。レティのような聴覚の発達した種族たちの中には、悲鳴をあげて飛び上がっている者もいた。

 事実レティは「ひぎゃあ!」と叫んで両耳を覆い、ライラの胸元に頭を押し付けて丸まってしまっている。


 声は轟くようでありながら、それでいておおらかに優しく、非常に深いもののように思われた。

 こう言うと奇妙だったが、何かとても静かな落ち着いた思念なのだ。聞いていると心がなごみ、泣いていた赤ん坊でもすやすやと眠ってしまうのではないかと思えるような、そんな温かさと叡智、そして落ち着きがある。

 そう、たとえるなら、森閑とした森の奥で、千年も生きて来た巨木のそばに立ったときのような。まさにそんな感覚だった。


 だが、声には多量のノイズが含まれている。それで余計に、普通の人間には聞き取りづらいものになっていた。恐らくこれは、ある程度以上の魔力を持つ者でなければ聞くことのできない声なのだ。

 もしも俺が、いまだあの「青の勇者」のままであったのなら、これは空に響き渡る雷鳴のようにしか思えなかったのに違いない。


《んー。調節がうまくいってねえなあ》

 足元のガッシュがぼそりと言った。

《これでも最低限まで、魔力を落としてるんだろうけど。それでも威力が大きすぎる。おじいちゃん、ニンゲンと話すの久しぶりだかんなー》

 なにやらほとんど独り言のようだ。

《しょうがねえ。ちょっとオレも手伝ってやるかー》


 言うなり、ガッシュがコオオオオ、と喉を奇妙な音で鳴らし始めた。それとほぼ同時に、リールーたちほかの上級ドラゴンも似たように喉を鳴らしだした。それらが合わさり、周囲の空気を細かく振動させている。

 かれらの発した振動はすぐに、頭上で轟いている雷鳴のようないにしえのドラゴンの声と共鳴したようだった。

 すると、先ほどまでがなり立てるようにしか聞こえなかった雷鳴が、次第に柔らかく空気に馴染みはじめたのが分かった。


《……小さき。ちいさき、仔よ──》


 優しい、宇宙そのもののような声。

 それこそまさに、あの伝説の、いにしえのドラゴンの声だった。

 俺は最初、それが誰に語り掛けているものかをはかりかねた。かれらにとっての「小さき仔」は、この世界のあらゆる生き物に当てはまると思えたからだ。

 しかし、すぐにその相手は分かった。


《なんなのです? あなた様をお呼び立てした覚えはないのですけれど》


 凛とした声で、マリアが応えたのだ。

 見れば今、マリアは一人になっていた。あの光の環の中で、先ほどまでは数百名もいた「マリア」たちがいつのまにか一人に収束したらしい。


《今まで数百年もの間、ずっと傍観者でいらしたあなたに、今さら出番などありません。早々にお引き取りを》


 俺は正直、舌を巻いた。

 驚くべきことに、この古のドラゴンを相手にしてでさえ、マリアの態度は揺るがなかった。いったいどんな心理的な土台があって、この女はドラゴン相手に、ここまで強気な態度でいられるのだろう。

 いま、マリアは青く澄んだ瞳で空を見上げ、やや不快げな顔になっている。その表情のどこにも、後ろめたさや引け目のようなものはない。


(そうか……)


 俺はその時やっと、はじめて理解した。

 ただただ、純粋なのだ。

 この女は──というよりも、「赤ん坊たちは」と言うべきなのかもしれないが──どこまでも、自分の行動に疑問を抱かない。

 いや、だからこそ恐ろしいのだとも言えるのだろう。

 自分の行動に何の疑問も覚えない存在。一点の曇りもない、まっすぐで純度の高い感情。それが深い恨みと嗜虐心によって真っ黒に染まり、この世界で数百年も生き続けてきたというのだから。

 確かに、彼女たちにはもともと罪などなかった。それが、まだ理性も定まらないうち、何もできないうちに一方的に作られて、一方的に殺された。それも、相当に無残なやりかたでだ。


 俺の思考は、そこで袋小路に迷い込む。

 彼女たちを罰すること。または、滅ぼすこと。

 それは本当の問題の解決になるのだろうか、と。


 彼女たちの恨みを本当に晴らすすべも、またあがなう術も、恐らくこの世のどこにもない。

 目の前の快楽だけを優先して、無責任にも新たな命を宿すことになり、それを勝手な都合で殺した者たちに直接手を下したとしても。それは本当に、問題を解決したとは言えないだろう。なぜなら、マリアたちの心の傷はそんなことでは癒えないからだ。


(だったら、どうすればいいんだ。……どうすれば)


 俺に、何ができるだろう。

 生まれる前の記憶がない以上、今の俺にあるのは、あちら世界で生きたほんの十七年の経験だけだ。そんな俺が、マリアたちが積み上げて来た数百年にも及ぶ恨みつらみの全部を引き受けて、理解するなど不可能だろう。ましてや、それを贖うことなど。

 いやむしろ、それを敢えてやろうとすることのほうが問題だ。そんなものは、傲岸不遜ごうがんふそんのそしりを免れない。

 こんな青二才の俺に、何ができるか。

 これほど多くの、そして深い恨みと絶望を、一手に引き受け切れるわけがない。


 どうすればいいんだ。

 どうすれば──。


 俺は拳を握りしめ、片手で顔を覆ったまま、ガッシュの背で立ち尽くした。

 ギーナがそっとそばに寄り添い、心配げな目で俺を見ている。

 と、頭上からあのおおらかな思念の声がゆったりと降って来た。


《……小さき仔よ。そなたの弁、道理である》

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