第5話 毒杯


 キリアカイがユウジンを私室に呼んだのは、それから三日後のことだった。

 「心細くてたまらないので、いつでもいいから訪ねて欲しい」「一緒にお茶でも」と、侍女のひとりに言づけたのだ。


 お茶は、ユウジンの好きな桃の香りのするものを選んだ。

 夜更けになってユウジンがやってくると、キリアカイは人払いをし、手ずから茶を点て、小さな杯に注いで彼に勧めた。小さな杯はいくつもある。これを客人に何度も勧めて、ともに茶菓なども楽しむのがこの地域での作法だった。

 明らかにやつれた妻を見て、ユウジンは心を痛めている様子だった。そしてもちろん、いまだ見つからない息子のことを心配していた。彼とてキリアカイに負けないほどに頬がそげ、顎の線が尖り、さらに憔悴して見えた。

 それでもキリアカイに向かっては、優しく力強い態度を崩さない。この男はそういう人なのだと、改めて彼女は思い知った。


「疲れているだろうに。私のために、こんな」

「いいえ。あなたも、何か気晴らしをなさいませんと。あなたがお倒れになっては一大事」


 卓の向かい側に座った夫を前にして、キリアカイは自分の声が震えないようにするのが精いっぱいだった。茶を注ごうとする手元がどうかするとぶるぶる揺れて、つい盆の上を濡らしてしまう。

 ユウジンの目が気遣わしげになった。


「……大丈夫か、キリアカイ」

「は、はい。申し訳ありません。不躾なことを」


 一杯目。

 二杯目。

 何事もなく、「茶会」は進んだ。

 キリアカイ自身も数杯飲んで、しばらくはごくなごやかな時間が流れた。


 その時に至っても、迷っていた。

 本当に、こんなことをしてしまってもいいのか。

 いくら我が子を救うためとは言え、この人を亡き者にしようとする奸計に易々と乗ってしまって、本当に……?


 だが、そうしなければ確実に息子はこの世を去ってしまう。

 奴らの汚い手に掛かって、冷たいむくろになってしまうのだ。

 それは、それだけはどうしても阻止しなくてはならなかった。


 やがてとうとう、キリアカイは夫の隙を見て、もう何杯目かになる彼の茶器の中に、手の中にしのばせていた小さな袋の中身を注ぎ込んだ。

 それを彼に勧める。

 ユウジンは何の疑いもない眼差しでそれに手を伸ばし、無造作に口に近づけた。

 キリアカイにはそれが、まるで夢の中の出来事のように、ひどくゆっくりしたものに見えた。

 だが。


「だめっ……!」


 気が付いた時にはもう、その茶器は彼の手から弾き飛ばされていた。弾いたのは彼女の手である。

 小さな器は簡単にはね飛んで、軽い音をたて、部屋の隅まで転がっていった。

 かん、ころころと乾いた音が部屋に響いた。


(あっ……)


 「しまった」と思うのと、「よかった」と思ったのは、いったいどちらが多かっただろう。キリアカイには分からなかった。

 ユウジンは驚いた眼をしたが、しかし思っていたほど驚愕した風でもなかった。特に「どうしたのか」と訊ねる様子もない。

 不思議に思って、キリアカイは夫を見つめた。

 やがて彼の口から、驚くべき言葉が流れ出た。


「……別に、良かったのだよ」

「え……」

 キリアカイの時間が止まった。

「こうしなければ、あの子の命が危ないのだろう? ……だったら、それでも良かったのだと言ったんだ」

「ま、……まさか」


 絶句するキリアカイを、ユウジンは変わらぬ優しい目で見やって微笑んだ。


「知っていた。あれ以来、城の魔法障壁と見張りを強化していたからね。どうやら数日前に、また城内へおかしな接触があったことが分かったんだ。……それも、どうやら君の部屋に」

「…………」

「兵らは、君を疑っている。君がどこぞの何某なにがしかから唆されて、私の命を狙っているのに違いない、とね。実は今回、私がここへ来ることも、皆は必死に止め立てをした。……だが、私は一蹴した」

「ユウジン、様……」


 へなへなと、体から力が抜けた。

 キリアカイはそのまま、崩れるようにして床にへたりこんだ。両手で顔を覆う。

 うわっと涙がこみあげた。


「ごめんなさい……。ごめんなさいっ……! お許しください、ユウジン様。わ、わたくし……わたくしは──」


 喉がひきつって、ろくに言葉にならなかった。

 あとはただもう、キリアカイは泣きじゃくった。まるで子供のように。


「わかっている。子を思う母の気持ちに、いったい誰が抗えようか」

 ユウジンの声は静かだった。


「いいえ。いいえ……! 愚かなのです。バカなのですっ……! あの子ひとりが救われるより、ユウジン様こそが今、ここに生きておいででなければならないのに。それがこの国のためでもありましょうに……。わ、わたくし一人の浅はかな考えで……ハオランを助けたいばかりに、こんな真似を──」

 泣き崩れるキリアカイを、ユウジンは片膝をついて抱きしめてくれた。

「いや。……ありがとう。でも君は、私を殺そうとはしたが、殺しはしなかったじゃないか。それだけで、十分嬉しい」


 キリアカイは何も言えず、彼の胸にしがみついてさらに泣きじゃくった。ユウジンは彼女を抱く手に力を込めた。


「私が君の手にかかれば、少なくとも君とあの子は助かるのだろう? 恐らくこれは、君の父君の臣下たちが企んだことなのだと思われる。だとすれば、今後は君が中心になり、あの子とともにこの国を御していくことになるだろう」

「…………」

「もちろん、私をここの四天王にと推して下さったバクリョウ閣下には申し訳が立たないことだが……。しかし、事態は切迫している。もはや瀬戸際と言っていい。私はこの際、それでもいいと思ったのだよ──」


(ああ。……愛してる)


 あまりはっきりと伝えたことのない言葉が、キリアカイの胸に湧きあがった。

 自分はこの男を、愛している。もとが敵同士だろうと、親の仇の一味だろうと。

 それがどんなに愚かなことかは分かっていても、それでも愛さずにはいられない。


 ……それがたとえ、我が子の命と引き換えになるような想いでも。


「ただ、まあ……どうか我が弟、ハオユウだけは見逃してやって頂きたかったがね。それを伝える前に、こういうことになってしまったけれども」


 ほんの少し照れ臭そうに笑った彼の顔は、もう涙でぼやけて霞んで見えた。





 フェイロンが、拳を握りしめてこちらから顔を背けている。

 その気持ちは想像するに余りあった。

 その向こうでは兎の少女シャオトゥが、なぜかギーナと同じように悲痛な表情を浮かべて俯いている。そう言えば彼女も、故郷で小さな妹を亡くしたばかりだったことを思い出した。

 俺は少し間を置いて、あらためて扉の中のキリアカイに訊ねた。


《それで……? その後、どうなったのでしょう》


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