第13話 薫香
その日、シャオトゥの部屋には不思議な香りのする薫香が焚き込まれていた。
なんとなく、仏間や仏閣でよく嗅ぐことのあるような香りである。たしか
そんなことを考えながら、俺は部屋の隅に準備された俺のための椅子に座り、目の前で展開されようとしていることを観察していた。
部屋の中央に、大きめの四角いテーブル。その上に、ちょうどテーブルセンターのような細長い
白檀のような香りは、そこから漂っているようだった。
照明は全体に暗い。部屋の隅にある灯火台と、テーブルの端にある蝋燭の明かり以外はなにもなかった。
いま、フェイロンはその香炉の正面に座り、対面するように座ったシャオトゥに向かって軽く両手をかざすようにしている。その口からは先ほどから、ずっと静かな呪文が流れ出ていた。
『我、
なんとなく、その呪文の文言も、いかにも古めかしくて黒魔法らしい感じがした。
同席しているのは、ほぼいつもの面々である。シャオトゥ付きの女官たちと、マルコ、ピックル、そしてヒエン。監視のための高級文官の青年が一人。みな、フェイロンの術が誤って自分にかかることのないように、それぞれに自分に魔力のシールドを施している。それは、俺もギーナも同様だった。
ぼんやりと椅子に腰かけているシャオトゥの両脇に、女官が二人立っている。シャオトゥが椅子から転げ落ちないための用心のためだった。
やがて、次第しだいにフェイロンの呪文をつむぐ声が大きくなっていくと、シャオトゥは目を閉じて、上体をぐらぐらと揺らし始めた。
『魂の
途端、周囲の空気がぱちんと弾けた。
一瞬だけ、灯火や蝋燭の火がぱっと激しく燃え上がり、しゅっと消えた。
部屋の中は真っ暗になり、しんと静まりかえる。
やがて、ぽつぽつとそれらの火が灯りだし、部屋はもと通りの明るさになった。
(シャオトゥは──)
みなの視線が、当然のように彼女に集中した。
シャオトゥは目を閉じて、隣にいた女官の腕に体をもたれさせ、気を失っているように見えた。
やがて深い眠りから覚めたように、その目がぱちりと開かれた。赤い赤い、兎の目である。
少女はきょとんと周囲を見回し、女性の手で上体を起こされると、しばらく不思議そうに周りの人々を黙って見つめていた。やがてその目が自分の着ている美麗な錦の衣の袖に気付いて、はっと見開かれる。
その目が上がって、俺の瞳と目が合った。
恐るおそるといった風に、か細い声が聞こえる。
「あ……あの。あたしは……?」
その表情も声も、不安そのものだ。
それはそうだろう。フェイロンの説明が本当ならば、今の彼女はトロルやオーガに村を襲われる直前の状態に戻っているのと同じであるはずだからだ。
と、さも「どうしますか」とでも言いたげにこちらを見ているフェイロンと目が合って、俺は椅子からなるべく静かに立ち上がった。それでも少女は驚いて、びくりと体を固くしたのが分かった。
「……驚くのも無理はない。説明したいが、ここよりは明るい部屋がいいだろう。ちょっと場所を変えたいが、いいだろうか?」
◇
そのまま皆を連れて、俺は空に向かって大きく窓の開いたホールのような部屋へ移動した。ここは上級貴族たちを招いては、そうした会の好きな魔王が舞踏会や演奏会などを行ってきた部屋らしい。
ひときわ大きく開いた窓の向こうはやっぱり広いバルコニーになっている。なんと、今はそこに、とぼけた顔をしたガッシュがうずくまって、半分寝たふりを決め込んでいた。
こいつ、どうやら見物に来たらしい。相当、物見高いドラゴンである。
俺とギーナ、シャオトゥとフェイロンは、部屋の真ん中に
シャオトゥの傍らには女官たちが三名ばかり、彼女を守るように立っている。
俺は改めてシャオトゥにざっと自分とギーナたちの紹介をすると、これまでのことをかいつまんで語って聞かせた。ときどき、フェイロンやヒエン、ギーナが話を補填するため言葉を挟んだ。
ともかくも、なるべく嘘やごまかしのないように。俺が注意したのは、何よりもそのことだった。
こちらには、彼女をだまそうという意図はまったくない。今回のことは、本人の意思を確認できなかったのでこちらで勝手に決めてしまったけれども、もしもそう望むなら、記憶をもとに戻すことも可能である。大体は、そんなことだった。
シャオトゥは少し震えながら、ずっと話を聞いていた。
しかし話が進むにつれてだんだんと俯いて、やがて肩を震わせ始めた。
「そう、……ですか……。じゃあ、みんな──」
あとは続かず、ただ嗚咽にまぎれてしまう。
そうなることは予想済みだったけれども、それでも胸が痛まないはずもなかった。場に居合わせた一同は、みなそれぞれに瞳の色を暗くした。
「いつか、こんなことになるんじゃないかって……。北のダーホアン様が、またトロルたちの『限界』をお緩めになったら大変だって」
唇を噛みしめながら、こらえた泣き声の間から絞り出すように、シャオトゥがつぶやいている。
「少し離れているけれど、あたしたちも危ないかもしれない、だからそろそろ逃げたほうがいいかもしれないって……。でも、あたしたちが勝手に農地を離れることは許されていませんから……なんとかルーハン様にお許しを頂こうって、ついこの間も、父さんと話していたのに──」
あとはもう、両手で顔を覆って泣きじゃくるばかりだ。
俺たちは何も言えず、しばらくは彼女を見ることもできずにしんとしていた。
ヒエンの後ろに隠れるようにして立っているマルコなどは、とっくにもらい泣きをして目を真っ赤にしている。彼にも少なからず、身に覚えがあるからだろうと思われた。
やがて、嗚咽を堪えるようにしてシャオトゥが俺を見た。
「ありがとう、ございました……魔王陛下」
「な……。やめてくれ、シャオトゥ」
「そんなわけには参りません」
シャオトゥは女たちに手を貸されて椅子からおり、今や床に両手をついて平伏している。白くふわふわとした耳が、へたりと垂れて床についていた。赤い両目からは次々と熱い雫がこぼれおちるままだ。
「ほんとうに、こんな卑しい身分のあたしなんかにお目を掛けていただいて……。お礼の申しようもありません……」
「……いや、本当に。いいから、手を上げてくれ」
「いいえ。とんでもありません……!」
なんと答えたらよいか分からず、俺は視線を彷徨わせた。困った微笑を浮かべたギーナと目が合う。なんとなくそれに励まされたような気がして、俺は再びシャオトゥに目を戻した。そうして驚かさないようにゆっくりと前に出ると、彼女のそばに膝をつき、頭を下げた。
「むしろ、済まない。事前にみんなを救うこともできなかった、このボンクラ魔王をどうか許して貰いたい」
「そんな! とんでもないことでございます……!」
シャオトゥがびっくりして飛び上がった。
「お、お手をおあげくださいませ! 村が襲撃に遭ったのは、ヒュウガ魔王さまがご即位なさるよりもずっと前だったのではありませんか。それは、陛下のせいなどではありませんもの──」
まだ涙を落としながらも、それでも必死に俺を庇おうとしてくれている。きっと、心優しい少女なのだろう。
「あの、……ですが」
ふと何かを思い立ったらしく、シャオトゥはそこで言葉を切った。
そして一度、改めて周囲の人々を見回した。
「その上、こんなずうずうしいことをお願いするのは申し訳ないのですが……。あの、陛下……もしお許しいただけるなら──」
そうして、少女は訥々と自分の望みを語り始めた。
と、俺がそれに対して何かを答える前に、こんな声が頭に響いた。
《いいぜー。そんなの、あっという間だし。そこらへんまで、ちょちょいっと飛んでくだけだしなー?》
誰の声かなど、明らかだった。
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