第3話 逡巡


 語るうちにもフリーダの顔はどんどん青ざめていく。こらえようとしているようだが、茶器にかかった指先が明らかにかたかたと震えていた。

 周囲の女性がた、とりわけフレイヤとサンドラが目を見合わせて困った顔になっている。どうやら彼女たちには事態の詳細が飲み込めているらしい。なんとなく、あちらの士官らも同様の表情をしているようだった。


(なんなんだ……?)


 わからない。

 一体なにがまずいのだろう。

 フリーダは手元のカップを睨みつけたまま沈黙している。唇を引き結び、しばらく何かを躊躇ためらうように見えた。が、やがて頬をひきつらせたような奇妙な笑みを浮かべて片手を上げた。


「すまぬ。みな、席を外してくれぬか」

「……は」


 さすがに近衛騎士団の面々はよく訓練されているらしい。彼女がそう言っただけで意図をくみとったのか、素早く敬礼して動き出す。書記の兵士も手元の書類などをそそくさとを片付けて立ち上がり、フリーダに向かって腰を折ると部屋を出て行った。

 戸惑ったのはこちら側だった。


「殿下。……これは」

「そなただけは残ってくれ。あとの者はすべて、席をお外し願いたい」


 言葉そのものは丁重でも、そこには一抹の譲歩も許さぬ気迫があった。女性方をちらりと見やれば、みなこちらに頷き返し、黙って立ち上がる様子である。ライラとレティだけは「何がなんだかわからない」といった顔だったが、それでも周囲の女性がたに促されて、ちらちらとこちらを振り返りつつも外へ出て行く。


 マリアだけはやんわりと「けれど、フリーダ様。ヒュウガ様に──」と言いかけたのだったが、フリーダは苛立ったように「そなたを困らせるようなことはせん。信用しろ」と一蹴しただけだった。

 マリアもそれ以上は何も言わず、にっこり微笑んで一礼した。最後に意味深な一瞥いちべつをこちらに投げて、音もたてずに出て行く。


 ごく控えめな音で扉が閉まり、部屋には俺とフリーダだけが残された。俺はなんとも言えない居心地の悪さを覚えつつ彼女に向き直った。

 が、しばらく彼女は何も言わず、テーブルに両肘をついて何事かを物思う風情だった。何となく息苦しさを覚えるような沈黙だった。

 押し殺した声で次に彼女が口を開くまで、優に三分ほどはかかっただろうか。


「……確認したい。『赤の勇者』というのは、例の『ミサキ』とかいう女で間違いないか」

「はい。ご存知であらせられましたか」

「ああ、知っている。イヤと言うほどな」


 フリーダの声がたちまち皮肉にまみれた。それは明らかに「知らずに済むものならそうしたかった」と言っていた。察するに、部下の兵どもも何かしら彼女に気を使って、あの「赤の勇者ミサキ」の名をわざわざ報告しなかった、ということのようだった。なぜなら町の人たちの口からは、間違いなくその名が出たはずだからである。

 そこからまた、俺にとっては意味不明の重苦しい沈黙があった。フリーダの顔には、これまで見たこともないような苦悶の色が浮かんでいる。

 次に発せられた彼女の声は、さらにかすれたようになっていた。


「……その。赤のパーティーに、ハイエルフの青年が……いるだろうか。とても美しい御方おかたなのだが」

「ああ、はい。何名かいらっしゃいます」

 いや、そもそも基本的にあのパーティーには、様々な意味で「美しい」と形容すべき男子しかいないのだけれど。俺の表情を読み取ったように、フリーダがさらに重ねた。

「その……背が高くて、銀色の長い髪をした御方は」

「ああ……。デュカリス殿のことでありましょうか」

 ぴたりとフリーダが停止した。


 そのあたりで、そろそろ俺にも事態が飲み込めて来た。

 このひとは、恐らくあの青年を知っているのだ。それも多分、俺の見当はずれでなければ──。

 フリーダは誰が見てもすぐに分かるほどに動揺していた。そして一度、こくりと喉を鳴らした。


「……ご健勝で、あられるだろうか」

「…………」


 それは必死に揺らすまいとして、そうなしえなかった人の声だった。もちろんそう聞こえないようにと、懸命に努力したのだとは思う。だがそこには、どうしても隠しきれないすがるような色が混ざりこんでしまっていた。

 俺は少し考えてから、ひとつ頷き返した。


「……はい。そのようにお見受けします。実は自分も、ただ今、かのお方から剣の指南を受けておりまして。素晴らしい剣技であられるので、非常に多くを学ばせていただいているところです」

「そうか。……うん、そうであろうな」

 フリーダの声がほんの少し柔らかくなる。満足げに頷いたその瞳は、今まで見たこともないほど嬉しそうで、柔らかな色をにじませていた。

「あのお方に習っているなら、それ以上のことはあるまいよ。安心してお任せするがよい。王族の中にあっても、あのお方の剣はまこと、比類なきものであったゆえ──」


(……王族? 王族なのか、あの男)


 驚いた。

 それは初めての情報だった。

 フリーダ自身は、自分がつい漏らした内容を意識した様子はなかった。


「それでは、お変わりなく……ご健勝であられるのだな」

「はい。ただ、ごくたまにお加減が悪くなられることもあるようですが」

「えっ……」


 フリーダはちょっと腰を浮かした。それはいかにも、思わずそうしてしまったという感じだった。先ほどまでの物柔らかな空気は消え去って、ひどく心配そうな焦眉の顔になっている。

 それは、ただの女の顔に見えた。と言うより、もっと幼い少女のような、か弱くはかないものに思われた。


「そうなのか……? お加減が悪いとは、どのように?」

「は。時おり、ひどい頭痛を催されるようなのです。しかし、おそばにはいつも優秀な<治癒者ヒーラー>であるマーロウ殿がおいでですので。魔法薬と魔法によって、すぐに快癒なさるようですが」

「そ、……そうか……」


 浮かした腰をまたとすとんと椅子に落として、フリーダは視線を下げた。その紅い瞳には、隠しようのない苦渋が見えた。


(……お気の毒に)


 こう言ってはなんだけれども、正直いって俺はこれまで、この女を不快に感じこそすれ好もしいと思ったことは一度もない。けれども事態を把握した今となっては、単純にそう思ってばかりもいられなかった。

 彼女は恐らく、あのデュカリスと親しくしていた人なのだろう。それが単なる同僚であるとか友人であるとかいったものより深いつながりであった可能性はかなり高い。先ほどの「王族」という発言も気になるところだ。

 デュカリスのほうで彼女をどう思っていたかは分からないが、フリーダとしては彼に対してかなり深い想いがあったと考えるのが自然ではないのだろうか。

 もしもそこから急にあのミサキの「奴隷」になることになり、彼女のそばから彼が離れざるを得なくなったとしたら。フリーダの勇者に対する悪感情のすべてについて、また厳しく見下げずにはいられないその態度について、理解できないことはないと思った。


 フリーダはそこからふたたび、次の言葉を逡巡している様子だった。白手袋をした両手をもみ合わせ、「ああでもない、こうでもない」と頭の中でさんざんに躊躇しているのがはっきり分かる。

 俺は少し考えてから言った。


「どうぞ、何なりとお訊ねください。この場で何をおっしゃったかは、今後いっさい、完全に秘匿いたしますので」

「え……」

 フリーダがぱっと目をあげた。その目の中に、微かな光明を見つけた色がありありと浮かぶ。実はなかなか素直な性格のお方なのかも知れないと、俺は密かに考えた。わずかに口もとをゆるめて頷き返す。

「その点はお約束いたしますので、どうかご安心を」

 要するに、この場でした話については「守秘義務」を発動させるということだ。別に今の俺は弁護士でもなんでもないのだけれども、この場合、そのぐらいの便宜は図ってしかるべきだと思った。


「そ、そうか……? いや──」


 それでもしばらく、彼女はあれこれと思いめぐらすようだった。

 だがとうとう、彼女はほんのりと頬を染めて小さな声でこう言ったのだ。


「あの方は……デュカリス様は、その……お幸せそう、なのだろうか……?」と。


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