第3話 闇落ち


 緑の勇者が汗だくになり、ウンウン言いながら剣を持ち上げようと奮闘するのを、俺たちはしばらく黙って見つめていた。

 男の奴隷である女たちは、それぞれが地面に転がったままの姿で、申し訳なさそうに男から目をそらしている。


 ざあ、と一陣の風が吹いた。

 マリアが後ろから進み出てきた。


「緑の勇者様。もうそのあたりになさいませんか」

「っく、くそ……! 何を言う! どきやがれ。てめえの出る幕じゃねえんだよ!」


 緑の勇者はもはや汗まみれ、土気色の奇怪な形相でマリアを睨みつけた。その目は血走り、ぎらぎらと無駄に白っぽく見えた。それは何となく、もといた世界のあのいじめっ子どもの目にも似ていた。

 愚かで惰弱で、他人を虐げることでしか己の矜持きょうじを守れぬ目。

 それはそういう者の目だった。


「そうでしょうか。今こそわたくしの出番だと思うのですが」


 マリアは相手の威嚇など意にも介さぬ様子でにっこりと微笑んだ。相変わらずの異様な女だ。こんな場面で、これほど似つかわしくない表情もないだろう。

 マリアはほとんど足音もさせずに転がった女たちの間をぬってこちらへやってくると、無造作に俺の隣に立った。それはいかにも、一緒に美しい庭でも眺めるような自然な風情にしか見えなかった。


「お訊ねしてもよろしいですか? 緑の勇者様」

「ぬ……ぐっ。う、うるせえ! 俺はてめえなんかと話なんてしたくねえ!」

「それはそうでしょうけれども。ですがそろそろ、お時間もないことですし?」

「な、……なんだと?」


 一瞬あっけにとられた勇者の顔を、マリアは変わらぬ表情のままにこにこと見つめ返している。

 俺とレティはとりあえず、警戒を解かないままにも事のなりゆきを静観する体勢になった。レティは拳を、俺は剣をすこし下げ、構えは解かないままにも動きを止める。


「時間が、ないだと……? 嘘をつけ。あと半年は余裕であるは……ず?」


 と、男は一瞬だけ自分の胸の緑色をした宝玉に触れて目を閉じたが。

「なっ……?」

 途端、愕然とした顔になった。

「こ、これは……?」

「思っておられたほど、お時間は残っておりませんでしょう? まあそれも、当然のなりゆきではあるのですけれど」

「ど、どういうことだっ! このクソシスター、俺をだまくらかせると思ったら──」

「だましてなどおりません。あなた様が、こちらへ来てから早々に『シスター・マリア』を追い払ったのではありませんか。なんでしたらその時のあなた様のお言葉を、ここで再現しましょうか? 『うるせえ、消えろ。俺は好きに生きるんだ。てめえの顔なんぞ見たくねえ』。覚えていらっしゃいませんか。もっと続けてもようございますよ」


 その薄汚い台詞せりふの一部始終を、マリアは淡々とどこかのアナウンサーのような調子で語ってみせた。

 ここでそれは再現しない。

 要するに、これまで「リアルの世界」で虐げられ、鬱屈してきた分を取り戻すのだと。そのため、この世界で好き放題、いろいろな人間を<テイム>してかしずかせ、面白おかしく生きるのだと。まあ大体はそんなような話だった。

 最終的には俺もレティも、背後のギーナやライラまでもが眉間に皺を立て、嫌悪の表情を隠すのが難しい状態になった。そう言えば十分だろう。

 一通りそれを再現し終わって、マリアは嫣然と微笑んだ。


「さて。ここで、もとの『シスター・マリア』があなた様にお伝えできなかった事実をお知らせします」

「な、なに……?」

「このほど、とうとうあなた様は『勇者』としての認定を取り消されました。つまり『闇落ち』と認定されたわけですわね。今、そのお目の内に見えている数字。それが、あなた様が『勇者』でいられる残りの時間です。あと何分、何秒残っておりますでしょうね」

「う、……え? そ、そんな──」

「一年の期限つきというのは、もちろん条件が満たされた場合のお話なのです。要するに、あなた様がなんのかのと言いながらも一応は『魔王を倒す』という目的を忘れていないと考えられる限りにおいては、ということです。……まあ、魔王を倒す気もない者に、いつまでもこの地の者たちを蹂躙させておくわけには参りませんしね」

「…………」

「あなた様は残念ながら、その条件を満たしてはくださらなかった。よってここに『シスター・マリア』は、あなた様の『勇者』としての資格を剥奪することを決定し、タイマーのリセットを行いました。数分の猶予は、わたくしたちからのせめてもの慈悲だとお思いください」

「じ、慈悲……だと?」

「おわかりになりませんか」


 マリアの微笑に、うっすらと凶悪な毒素が混ざりこむ。

 それは俺自身をもぞっとさせるような、うすら寒い笑みだった。


「思い出してくださいませ。あなた様がこれまでになさってきた蛮行の数々。この女性たちになさった暴行、強要した『お勤め』のあれこれ。他の幼い少女たちを<テイム>しておこなってきたこと……。この者たちは、正気にかえったときにそれをどう思うのでしょうか。そして、あなた様をどうしたいと思うでしょうか」

「ぬ、……ぐうっ」


 勇者はぎょろつく目で、周りに転がっている女たちをちらりと見た。その顔はどんどん青ざめ、土気色を通り越して灰色になっている。もはや死人の顔だった。


「そちらのドラゴンも同様です。そちらの女性に<テイム>されたものでしょうが、これまでどんな扱いをしましたか? たとえ年老いた個体でも、ドラゴンはドラゴンです。決して侮ってはならない生き物なのです。本気で牙を剥かれたら、一般のヒューマンなどひと噛みで八つ裂きですよ」

「ひ、……ひいいっ……!」


 それを聞いて、男は背後の茶色いドラゴンをバッと見返った。ドラゴンの方では特に何も考えていないのか、ただやれやれと草の上で疲れた翼を休めているだけだ。完全に目を閉じて、ほとんど眠っているようにしか見えない。

 しかし男は、もうそこにじっとしてはいられない様子だった。今まで必死に握りこんでいた大剣のつかからも手を離し、女の誰かの持ち物だったらしい荷物をひっつかむと、慌てて丘を駆け下りはじめる。ところどころで石くれなどにつまずき、転び、「どわっ」という情けない悲鳴が聞こえた。

 俺はマリアに向き直った。


「シスター・マリア。あの男の残り時間はどれほどなのです」

 マリアは形容もできぬほどに清純な、例の笑顔であっさり言った。

「そうですね。今ですと、もう三分ぐらいでしょうかしら」


 ──三分。


 あの男に残された時間は、たったそれだけか。

 ひょっとするとこの女は、その残った時間を少しでも削るためにゆっくりと先ほどの説明をしてやったのかもしれない。そう考えるとぞっとした。

 俺は自分の大剣を鞘に戻すと、転がっている女たちと老いたドラゴンに目を向けた。危険があってはいけないので、マリアとレティは彼らから距離をとり、ライラたちの元に戻る。

 そうこうするうち、デッドラインは来たようだった。女たちがもぞもぞと動き出したのだ。


「あ、う……」


 彼女たちはまず、自分の状態を見て驚いたようだった。ギーナが小声で呪文を唱えると、下草が幻のようにしゅるしゅると元に戻り、彼女たちを解放した。

 女たちはふらふらと立ち上がる。そして少し不思議そうな顔をして、俺たちと互いを見比べていたようだったが。


「……あ、いつッ……!」


 やがてその目に凄まじい怒りの炎が燃え上がった。互いにうなずき合い、急いで勇者──いや、今や勇者だ──のあとを追い始めた。


「逃がさないっ!」

「これまで、よくも、よくも……あたしたちをッ!」

「あんな小さな子たちに、あんなことまで……!」


 女の一人が「<空中浮遊レビテーション>」と唱えると、女たちは三人とも、二メートルばかり空中に浮き上がった。そのまま風のように男の方へと飛んでいく。地面を走るよりも数段早い。あれではあっというまに追いつかれることだろう。

 ……気の毒な気もするが、仕方がない。

 それは奴が、自ら身に招いた結末だからだ。

 

 俺は胸中に苦い何かが広がるのを覚えつつ、残ったドラゴンに目をやった。


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