第5話 湯殿


 例によって大食らいのレティを横目で見ながらのにぎやかな食事が終わり、俺は少し休憩してから、一人、部屋の外の庭に出て鍛錬をした。隅には衛兵らしい者たちが控えめに立っていたけれども、事情を説明して使わせてもらうことにする。

 これは特に、今日に限ったことではない。もとの世界でもずっと続けていたことで、この世界に来てからも、朝晩におこなっている。

 まずは腹筋と、柔軟運動からだ。


 合気道には、自由組手がない。つまり相手があって、自由に技をかけあうというような練習形式がないわけだ。まあ約束組手はあるし、相手なしですべてできるというものでは決してないけれども、それでもある程度の稽古が一人でもできるというのは、この世界へ来てから本当に助かっている。

 もちろん、相手がいてくれればそれ以上のことはないけれども。


 二人で組んで行う稽古にも大きな利点が当然あるが、それはコツコツと積み重ねる一人稽古があってこそ意味をなすものだ。そしてなにより、合気道は精神性を重視する。そこに筋トレ、柔軟運動、普段から自分の体幹バランスを意識することなどなど、かなり地味な日頃からの努力が求められる武道でもある。

 空手とは違って、突きや蹴りなどの派手な技で相手を倒すものではなく、相手の呼吸を見切ってその力を利用し、最小限の動作で相手の動きを封じる、そういうものだ。だから若者にあまり人気があるとは言えない武道だとも言える。

 あの良介が言った通りなのだ。まあそれでも、「ダッセえ」はひどすぎると思うけれども。


 一通りの基礎訓練が終わり、俺はイメージトレーニングに入った。

 呼吸投げ、四方投げ。

 相手に片手首をとられた場合、両手首をとられた場合。

 さらに肩をとられたり、突きを繰り出された場合の投げ方。後ろから首を絞められた場合の投げ技、等々。

 そのほか、たった二年でさほど多くの技が習得できたとは言えないが、それでも出来る限り師の教えを思い出しつつ何度も繰り返す。


 俺がこの世界に落ちてから、何を最も危ぶんだか。

 それは、この武道を修める上で最も重要な、この精神性を侵されることだった。

 この世界は、有無を言わさず「勇者」に堕落への道を歩ませようとしているように思えてならない。周囲を取り巻く女たちに何をしようが、一般の人々から金品を巻き上げようが、最小限の罪悪感で済むようにできている。

 好き放題にやろうと思えば、いくらでもそれが可能。こんな環境に甘んじていたのでは、たとえ一年と期限が切られているとは言っても、己が精神が恐るべき堕落の沼に沈むは必至だ。


 合気道とは、精神的な境地が技にそのまま表れるとまで言われる武道だ。

 「和」と「愛」、そして「平和」。それこそが身上である。

 まさか自分がこんな事態に放り込まれるとまでは思っていなかったけれども、これはまさしく精神的な試練だとも言えるだろう。

 「緑の勇者」に囚われていた子らへの処遇のことで、ライラたちや街の人々は感銘を受けてくれたようだったが、あんなものは当然だった。いい年をした大人があのような年端のいかない子供を食い物にすることと、合気道の精神とは決して相容れるものではない。


 稽古の最後に例の大剣をとりだして素振りを百回ほど行い、俺はその日の稽古を終えた。その場に蹲踞そんきょし、呼吸を整える。場に対して、感謝の一礼。

 周囲の衛兵たちが何となく、不思議なものを見たような目で黙ってこちらを見つめている。が、あまり気にしても仕方がない。俺はそのまま彼らにも黙礼してから、もとの居室に戻った。





 部屋に戻ると、またしても早速に、精神的な試練が待ち受けていた。


「いーやーにゃー!! レティ、お風呂キライ、大っ嫌い~!」

「ちょっと! レティ、待ちなさーい!」

 

 猫族としての能力を最大限に発揮して、レティが跳びはね、クローゼットの上やらテーブル、ソファの上をぴょんぴょんと移動しながらライラの手から逃げ回っている。


「これから長い旅になるんだから! ここでちゃんと綺麗にしておいた方がいいじゃない! あんまり不潔だと、ヒュウガ様にも嫌われるわよ?」

「そっ……そそ、それは、イヤにゃ。イヤにゃけどおっ……」

 レティが涙目になりながら、ちらっと俺の顔を見た。

 しかし。

「いーやーにゃー! お水キライ! レティ、自分で顔洗うもん! 毛づくろいだってするにゃもん! だからちゃんとキレイにゃもーん! お風呂なんて、一生入らなくても死なないのにゃあ!」

「こらあああ! そんなの絶対ダメー!」


 ギーナはと言えば、大騒ぎしている二人から随分離れ、窓辺に座って気だるげに煙管をふかしている。マリアは不在のようだった。

 部屋の隅には、下働きの者らしい女官たちが立ちつくしておろおろしている。やがてそのうちの一人が、おずおずとこちらに近づいてきた。


「あ……あの、勇者さま。でしたら、お先にいかがでしょうか」

「入浴でしょうか」

「は、はい。支度は調えてございますので」

「わかりました。では、お言葉に甘えさせていただきます」


 そのまま俺は一人だけで、女たちに湯殿へと案内された。

 脱衣所らしい小部屋に入ると、後ろから女たちもしずしずと当然のような顔で入ってくる。俺はしばし黙ってそちらを見た。恐らく、相当変な顔をしていただろう。


「……すみませんが。一人にしていただけませんか」

「え、ですが……」


 女たちが明らかに戸惑う顔になった。

 聞けば、彼女たちはこうした客用の湯殿づきの女官なのだそうだ。彼女たちの仕事は、ここで客人の世話をすること。衣服の脱ぎ着はもちろんのこと、湯殿の中でのさまざまな勤めもあるのだと。

 女たちはそう言うと、着ていた上衣をするりと脱いだ。


(……!)


 ひと目見て、俺は即座に目をそらした。彼女たちはあとはもう、非常に薄い袖なしの浴衣のようなものを着ているだけだったのだ。体の線は露わなもので、目のやり場に困るほどだ。


(……勘弁してくれ)


 それはつまり、彼女たちはをも仕事の一環としている、ということなのだろう。一体この世界は、どこまで人を堕落させようと付け狙っていることか。


「自分のことは、自分ですべて致します。どうか一人にしてください」


 俺が何度か唸るようにそう言って、頭を下げて頼み込んでからやっと、女たちは頷いた。そうして困った顔のまま、ためらいがちに外へ出て行った。


(まったく……)


 俺はひとつため息をつき、ようやく自分の服に手を掛けた。

 湯殿の中は、けっこうな広さがあった。天井は高く、ゆったりと曲線をえがいた湯舟は、ちょっとした子供用のプールのような形をしている。面積はたっぷり十畳分はあるだろうか。

 湯殿全体にタイルが敷かれ、壁には南国風の植物の絵が描かれている。部屋の隅には見慣れない形をした観葉植物が置かれ、どこかで香でも焚いているのか、柑橘系の香りが漂っていた。

 タオルなどというものは無いらしく、俺は脱衣所にあった手ぬぐいのようなものを使ってまず体を洗い、汗を落とした。木製の手桶やなにかは、さっきの女たちが「お使いください」と置いて行ってくれたものだ。

 はじめのうち、石鹸に相当するものがどれだかよく分からなかったけれども、大理石のような粗材の器に入った、やはり香草のにおいのする緑色をした固形のものがどうやらそれらしいと踏んで泡立て、体を洗う。それは海藻の匂いがした。


 風呂は久しぶりだった。

 ライラの村からここに来るまで、あちらこちらの川や池などで水浴びはしたけれども、湯に入ったことは一度もない。季節がいいのでよかったが、これで寒い時期であったら恐らく、ほとんど体も洗えない旅ということになるのだろう。

 マリアが言うには、山ならあちこちに温泉も湧き出ているという話ではあったけれども。

 湯舟に身を沈めると、ようやくほっと息がつけた。


(……まったく。散々だな)


 魔王を倒す。

 それが当面の目標ではあるけれども。

 いまだそれがどんな相手で、どのような戦いになるのかもわからない。

 それにまた、それに勝てばもとの世界に戻れるという保証があるわけでもない。逆にもしも魔王に負ければ、その後自分はどうなるのか。ただ死んで、存在そのものが消滅するだけなのか……。

 なにもかも、皆目わからないままにこの帝都までやってきてしまったわけだが。


(ともかく。あいつのようになるわけには行かないのだし)


 思い出すのは、あの下卑た顔をした緑の勇者だ。

 あれもまた、俺と同じ世界からこちらへ落とされた男だったのだろうか? そういう話をする暇もなく姿を消されてしまったので、いまさら確かめようもないけれども。

 と、いきなり背後から声がした。


「お邪魔してもいい?」


 ぎょっとして振り向くと、そこには先ほどの女たちと同様の格好をしたギーナが一人で立っていた。


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