第17話

 エンデレと父親が、家に二人きりでいた日のことだった。


 エルは街に一人で稼ぎに行っていて、父が家にいるのはいつもの通りだった。


 「街で泊まってくるから。帰りは明日になるかも」


 「……気をつけろよ」


 「にーちゃんもね」


 玄関で、エンデレがエルを見送る。父は、部屋で飲んだくれている。


 「この機会に、お父さんと打ち解けあえればいいね」


 「はあ? 何? 何、言ってんだよ……」


 「まずは、話しかけることからだよ」


 「……」


 エルは調子良さそうに笑って、出かけて行った。


 エンデレと父が、同じ部屋にいる。


 エンデレは気まずそうに父と同じの空間を過ごし、それに対して父はどうするでもなく、椅子に座って酒ばかり飲んでいた。


 父は、しばらく黙って酒を飲んでいたが、唐突に、誰にともなく、ぽつりぽつりと酒のつまみに対して文句を垂れ流し出した。


 「……いい加減、これにも飽きたな……飽きた……」


 エンデレはその誰に向けられたか分からない言葉に対して、どう答えていいかわからなかったので、聞こえないふりをしてぼんやりと時間を潰していた。


 しばらくそうした気まずい空気が流れた。


 「おいしいきのこがあるんだ……昔……それがあれば、いいんだけどな……おい。ないか、きのこ。おい!」


 父は突然エンデレに声をかけた。エンデレは驚いて父を見返したが、父はエンデレを見ないまま、酒を飲んでいた。


 エンデレは、おずおずと父に答えた。


 「無いと思うけど……」


 「何で無いんだよ……本当に、おいしいんだぞ……あのきのこ……つまみなんてもう飽きたんだよなあ……俺はもう飽きたんだよ……」


 父はあらぬ方向を見ながら、ずっとぶつぶつと「おいしいんだよ……あのきのこ……」と呟き続けて、「しょうがない……しょうがないんだよなあ……」と言い残して、森の奥にある珍味を採取しにふらふらと出かけていった。


 「あ、森の奥は……」


 「しょうがないんだよなあ……」


 父はふらふらとエンデレのいる部屋から外へ歩きだした。


 エンデレは心配で、父に声をかけようとしたが踏ん切りがつかず、結局、左右に揺れながら森の奥へと歩いていく父を見送って、誰もいなくなった家の中、しばらくエンデレは一人で家で過ごしていた。そうしているうちに、心細くなって、そわそわしだした。


 あれこれ考えているうちに、いてもたってもいられなくなって、エンデレは森にでかけることにした。


 普段行かないところまで、森のかなり深いところをうろうろと歩きまわった。なんとなく意識しないようにしているが、父親がなんだか心配で、少し呼吸がぎこちなかった。視界の悪い場所をひいひいと息をつきながら、身の丈以上の草木を掻きわけて父親を捜した。


 結局父親とは会わなかったが、暗くなりそうな頃合いになって、そろそろエンデレは帰ることにした。もう父親も家に帰っているかもしれないと思った。


 すると、よろよろと歩いていたせいか、木の根に躓いて、転んだ。


 泣きそうになりながら、エンデレが立ち上がろうとして、右足に力を入れると、ひどく痛んだ。どうやら、右足首をひねったようだった。


 エンデレはなんとか歩こうとするが、捻ったところが痛くて歩けそうもなかった。


 エンデレはなんとか立ち上がって、片足を庇いながら、木に寄りかかって途方に暮れた。


 ふと上を見上げると、向かいの大きな木の枝に人間が括りつけられていた。


 見たことの無い人間の顔で、腕と脚が背中にくっつくほどに曲げられて、それぞれが枝に括られて、腹が地面に向かってぶら下がっていた。


 エンデレが呆然として、しばらく時間が経ってから、別の方向から、慌ただしく草木を掻きわける音がした。


 「はあっ……はあっ……ぐっ……」


 息も絶え絶えに走ってきたのは、エンデレの父だった。


 「ひいっ……ああっ……はあっ……」


 多くのきのこを手に抱えて、恐怖を顔に張り付けて、後ろを気にしながら、エンデレのいるすぐ側まで走ってきた。


 「……と、父さん? どうしたの?」


 「……あ!? なんで、お前、ここに……」


 エンデレを見つけると、表情を驚きに歪ませて、荒く息を吐いていた。


 「早く、逃げるぞ! 変な奴に追われてるんだ!」


 後ろを気にしながら、小さく叫んだ。


 「変な奴?」


 「気狂いだ! ひ、人が無残に殺されてて、早く、早く逃げないと……街に、早く……」


 父の目玉は、恐怖と困惑で忙しなく動いている。


 「ちょ、ちょっと、待って、父さん」


 「何をぼさぼさと……」


 エンデレの父は、焦りながらエンデレを見て、エンデレが右足を引きずっている様子を見て取ると、思わず真顔になった。


 「何だ、それ」


 「……ちょっと、そこでひねっちゃって」


 「……はあ!? なんで!!」


 「木の根に躓いたんだ」


 「馬鹿かお前は!! こんなときに……」


 きのこを一斉に地面に叩きつけながらそう叫んで、狂ったように頭を掻きむしると、エンデレの父は、エンデレの手を乱暴に引っ張った。


 「少しくらい痛くても我慢しろ!! 無理して走れ!! 後に残ってもいい!!」


 「痛い! 痛いよ、父さん!」


 「ああ!! くそっ!!」


 走ろうとしないエンデレを無理矢理に引張ってから、エンデレの手を乱暴に放した。


 「何でここにいるんだよ!! このグズが!!」


 「……」


 泣きそうになっているエンデレを、エンデレの父はしばらく神経質に睨んだ。


 「……くそ」


 そう苛立たしげに呟くと、乱暴にエンデレを背に担いだ。


 「とろとろするな!! 早く乗れ馬鹿!!」


 「……」


 「……早く、早く逃げないと……」


 エンデレの父は、後ろを気にしながら、エンデレを背負って逃げた。




 「ぜえっ……ああっ……はあっ……」


 汗を大量に流して、息をあわただしく出し入れして、息子を背負いながら、懸命に走っていた。


 長時間走り続けて、今にも転びそうなくらいによろけていた。


 「……くそ、普段、もっと外に出とけばよかった……」


 「……父さん。何から逃げてるの? もしかして」


 「黙ってろ!!」


 エンデレの父は苛ついて息子に怒鳴りつけた。エンデレは、黙った。


 辺りは薄暗くなっていた。足もともおぼつかないまま、エンデレの父はしばらく走り続けた。


 エンデレはふと気付いた。


 「……父さん」


 「だから、黙ってろって……」


 「後ろに人影が」


 父は息をのんだ。


 辺りは不気味なほど静かで、空気がしんと張りつめていた。


 微かに後ろから、気のせいのような、草木を掻きわけて地面を踏みつぶすような音が、断続的に聞こえた。足音は一つのようだった。


 「嘘だろ……まだ追ってきて……くそ、くそくそ」


 息をとてつもなく荒くして、悲痛な声を混ぜた。


 父が後ろを一瞬だけ確認すると、小さな人影が見えた。静まり返る森の中で、足音のような微かな音がそこから聞こえていた。


 「なんで……なんで……ああ! くそ……もっと早く逃げられれば……」


 声には涙が混じっていた。


 「……こいつのせいだよ……どこかに置いとけばよかったんだ……畜生」


 父がそうつぶやくと、エンデレはビクリと震えた。


 エンデレの父は、左右に方向を変えながら、慎重に、限界まで走り続けた。


 しかし、速く走ると後ろの足音は速くなり、遅くなると後ろの足音も遅くなった。


 父はもの凄い形相で、涎を垂らしながら延々と走っていた。


 そこで、父は足を滑らせて、転落した。地形の起伏があり、崖のようになっている場所で、そうと気付かずに父は踏み外したのだった。


 運よく二人に痛み以外の大きな怪我はないようで、父はすぐに立ち上がった。


 よろよろとエンデレは立ち上がり、踏み外した場所を見上げようとして、ふと、荒く息をつきながらじっとしている父に気付いた。


 「……父さん?」


 父はゆっくりと、崖の上を見てから、エンデレの方へ顔を向けた。


 そして、エンデレの肩に手をかけ、エンデレの顔をじっと見た。


 父の顔は、ちぎれんばかりに歪んで、ぐちゃぐちゃになっていた。


 「いいか……見られない内に、そこの、茂みに隠れろ」


 父の声は、震えて、時折裏返っていた。息も荒く、実の息子を不快そうに睨んでいる。握られたエンデレの肩が、痛んだ。


 「……」


 エンデレは父の顔を見返した。


 「俺が囮になってやる……俺が、お前の、父親としてだ……」


 「……」


 「はやく……隠れろ……いいか……絶対に出てくるな……声も上げるな……朝までずっとそこにいろ……俺も、お前がいることを、黙っててやる……黙っててやるんだからな……ここが、わからないように、ちゃんと、ここから離れた場所まで、ひきつけてやる……」


 そう喋る父の顔は嫌そうで、怒っているようにも見えて、泣きそうにも見えた。


 エンデレは言われるがままに、茂みの下に進もうとした。


 「エルを守れよ」


 父の言葉が聞こえた。


 「兄貴としての、役目を果たせ。お前は、エルの、兄貴なんだぞ……」


 父のそんな言葉が聞こえた。




 エンデレの目に、大きな化物が映った。


 その化物は、立ち止まって、辺りを少し見回した。やがて、興味を失くしたように、ゆっくりとどこかへ歩き始めた。


 化物の片手には父の頭が握られていた。父の表情は、薄暗くてエンデレの目には判別できなかった。


 化物は去っていった。


 エンデレは、茂みの下にずっと隠れた。朝になるまで、微動だにしなかった。


 日が登り切ると、エンデレは茂みから這い出た。


 そして、足を引きずりながらエルのいる家へと帰って行った。

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