ⅩLⅥ ふたつの約束
「……あの頃がいちばん平和だったわね。」
呟くように言い、サーヤはそっと目を伏せた。ノエルもずきっと胸の痛みのようなものを感じて表情を強張らせる。母の口調から、この先の話の流れは察しがついたからだ。この暗い話題を聞くのは、何故かちょっと怖い。
(いつの間に、俺はこんな怖がりになってしまったんだろう。)
そっと唇を噛むノエル。しかしそんな娘の内心を知ってか知らずか、サーヤは重い空気を打ち消すように首を横に振る。
「あの日の話は、もうやめましょうね。長くなるもの。」
そして、ノエルに優しく尋ねた。
「ねえノエル。マーヤと出会った時の事、覚えている?」
「え?」
急な話題の転換に、ノエルはきょとんとして頷く。
「う、うん。」
「ね、教えて。どんなことがあったのか。」
サーヤは微笑む。ノエルが戸惑っていると、彼女は拗ねたような口調になって言った。
「だって、あなたは私の娘なのに、私の知らない長い
その口調に、ノエルは思わずぷっと吹き出した。サーヤも笑いだした。二人はひとしきり笑い合うと、ノエルはゆっくりと穏やかに微笑んで話し始めた。
「いつの事だかもう忘れたけど、俺……あたしがねぐらにしていた細い路地のすぐ側にある小さな家に、母子が引っ越してきたの。それが、マーヤとエディだった。出会ったばかりの頃からマーヤは何かとあたしを気にかけて、あたしはとても不思議に思ってた。お節介な人だ、って。」
「あの二人があの家に引っ越した時のことまでは、少し知っているわ。今でも覚えている程、唐突でびっくりするような報せだったもの。」
ノエルは驚いて母の顔を見つめた。サーヤは少しだけ寂しそうだった。
「五年前……ちょうどあなたが姉様に出会った頃ね、姉様から手紙が来たの。『買い付けの途中に通りかかった町で見かけた子が、どうも気になる。私の勘が正しいか確かめてみる。もしあの子がノエルなら、あなたの娘は私が守る。』って。そして姉様は店を父たちに任せ、誰にも多くの事情を告げずに、エディと二人だけであの家に移り住んだ。」
サーヤの言葉に、ノエルは絶句した。
「うそ、そんな……見掛けただけで、あたしに気付いていたなんて。信じられない。」
「そうよね。私も初めは悪い冗談だと思ったわ。でも姉様が家を出てまでそこに行ったと聞いて、本気なんだと悟った。やがて姉様が、本物のノエルに間違いないからとりあえず引き取ると知らせて来たわ。いてもたってもいられなくなって、二度だけこっそり見に行ったのよ。そして確信した。あなたが、私の娘に間違いないと。」
「母様……。」
ノエルは呆然とその顔を見つめた。不思議な人だ――マーヤも、サーヤも。同じ顔で、彼女たちは『娘』に優しく微笑みかける。
そこでノエルは大事なことに気付いた。
「じゃあ、あたしが男のフリをしていたのは意味が無かったってこと?」
「いいえ、そんな事ないわ。私は最初にあなたを見た時、全く分からなかった。姉様に言われて、そうかも知れないと思って見て、やっと……何となくそんな気がしたって程度よ。母親なのにね。もっとも、私が確信した後も男性陣はしばらく半信半疑だったけどね。」
サーヤはくすくすと笑った。
「姉様は、自分が勝手にやっていることだからと援助もお礼も受取ろうとしなかった。昔から頑固なのよね。それにとっても優しくて強い人。我が姉ながら、すごい人だわ。頭もいいし、勘もいいし。父に店のことを殆ど任されるほど、商売の才もあって。かなりの目利きでもあるのよ。それなのに……。」
声が不意にかすれ、途切れた。目を伏せ、そっと自身の肩を抱く。ほんの一瞬、ノエルには母が泣いているように思えた。姉の事を考えるのは、まだ辛いのかもしれない。
「母様、」
「……少し、冷え込んで来たわね。もう中へお入りなさい。お話の続きは、また明日ね。」
気丈な笑顔が痛々しい。『先代伯爵夫人』であり『優しく強い母』であろうとするサーヤは、人の前では哀しい顔を見せる事が出来ないのだろう。ノエルは素直に頷いて母に背を向け、屋敷の方へと小走りで去って行った。
娘の背中を見送ったサーヤは、ふっと顔を曇らせて俯いた。その目に映る墓標がぼやける。
「本当に、私は姉様に何も出来なかったわ……。」
その頬をしずくがひとつ伝うのを感じて、彼女は苦笑した。
「やだ、こんな……泣いたりなんかしたらまた姉様に笑われちゃうわね。」
照れ隠しのように笑ってみると、顔がくしゃくしゃになって余計に涙があふれた。いつかの姉の声が耳に甦る。
(泣かないで、サーヤ。父様に叱られたのね? 大丈夫。私はいつだってサーヤの味方よ。)
(うん。マーヤ姉様、ありがとう。私、姉様のこと大好き。)
(私もよ、サーヤ。大好きなサーヤ。ずっと一緒にいましょうね。)
「姉様……、大好きよ。」
思わず口に出して呟いていた。
「小さい頃から、今までずっと、これからも大好きよ。でも私、ずっと甘えてたね。ごめんね、姉様。私からも姉様にもっと何かしてあげられなかったのかしら……。」
(泣かないで、サーヤ。)
微かな囁きが、夜風に乗って聞こえた気がした。幼い日と変わらない、包み込むようにあたたかい声。
(その想いだけで充分よ。いいえ、もっと甘えてくれたって良かったのよ? だから、ね、そんなに気にしないでいいの。私は幸せ者だわ。)
マーヤが微笑む。――見えなくてもサーヤには分かった。感じた。
「姉様……。」
(ノエルを守るって約束は破らなかったけど、もう一つの約束は破っちゃった。先にいなくなってごめんね。……エディの事、頼むわね。)
「うん……うん、もちろん。だから、安心して。」
サーヤは笑って見せた。子供のように、涙で顔をくしゃくしゃにして。しずくはとめどなく頬を伝って流れ落ち、彼女は暫くその場に立ち尽くしていた。
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