ⅩLⅡ   癒えぬ傷

「ねえ、エディ兄。ノエルのこと、まだ赦してない?」

 ロビンに尋ねられ、エディは渋い顔で黙り込んだ。少し言い難そうに、でもはっきりと答える。

「……うん。」

「どうして? 何もかも全部、ノエルの所為じゃないってこと、ほんとはエディ兄にだって分かっているんでしょう?」

「そりゃ分かってるよ。でも……」

 エディは苦しそうに俯いた。あの日を思い出すたび、そのことを考えるたびに、彼の癒えない傷が疼く。

「僕は、母さんを失った。父さんを殆ど憶えてない僕にとって、唯一の存在だった母さんを……。それなのに、ノエルには母さんがいる。それだけじゃない、兄さんもいる。ノエルの事を想って、守ってくれる人がたくさんいる。僕がなくしたものを、ノエルは僕がなくすと同時に手に入れた。……もちろんノエルの所為でも何でもない事は分かってるよ。けど、こんなの不公平じゃないか。」

「不公平、ね……。」

「ノエルに対して怒るのはおかしいって、僕だって思ってる。でも、どうにもできないんだ。僕にはどうしたらいいのか分からない。」

 エディは顔を上げ、ノエルをじっと睨む。しかしその眼にある色は怒りでも恨みでも、まして憎しみでもない。言葉では何とも言い表せない感情がにじむ。

「僕だって、ずっとノエルを憎んでいたくなんかない。ずっと憎んでいることなんかできない……。それなのに、ノエルが笑ってるのを見ると、どうしようもなく苦しくなるんだ。」

 今まで心に溜め込んでいたものを吐き出すようにエディは話した。目が潤む。

「ほら、今も……ノエル、あんなに楽しそうに、幸せそうに笑ってる。あの時は辛そうだったけど、もうすっかり明るくなって、あの出来事なんて忘れてしまったみたいだ。僕は、まだ笑えないのに。」

 癒えぬ哀しみ、理不尽な怒り、妬み、そしてそんな自分に対する嫌悪。それらの感情が少年をがんじがらめにしているのだ。まるで出口の見えぬ闇の中にいるようだった。

 ロビンはエディの言葉にしばらく考え込んでいた。やがて、呟くように言う。

「エディ兄、間違ってるよ。」

「だから分かってるって言ってるだろ。」

「違う。僕が言いたいのは、その事じゃない。」

 ロビンの強い口調に、エディは少し驚いて彼を見た。ロビンはその目をまっすぐ見据える。

「本当に、ノエルが笑ってるように見えるの。」

「えっ……?」

「もっとよく見て。ノエル、本当はすごくなんだよ。」

 エディはぽかんとして少年を見つめた。珍しく、ロビンは怒りを露にしている。すっかり驚いてしまって、エディは素直にノエルに視線を向けた。

 ノエルは、先刻よりやや近くにいた。イリスに付き添われて、笑顔で何やら喋っている。やっぱり笑ってるじゃないか――そう思った瞬間、エディは、ノエルが化粧している事に気付いた。

(あれ? いつの間に、化粧なんかするようになったんだろう?)

 彼が初めてノエルのドレス姿を見た時、彼女は化粧などしていなかった。それでもすごく綺麗だったのを憶えている。もともとノエルは色白で、白粉おしろいすら必要なさそうななめらかな肌をしている。彼女の性格からしても、必要もないのに慣れない化粧をするとは思えなかった。

 その時、ノエルがすっと立ち上がった。少しだけ前髪の陰になっていた顔に陽が当たり、エディはハッとする。

「目元が赤い……。」

 目の下や鼻の頭が赤くなっているのが、白粉で隠しきれていない。そういえば瞼はなんとなく腫れぼったいし、ふとした瞬間に笑顔が翳る。

「近くで見るとね、目が充血してるんだ。人には絶対見せないけど、独りで泣いてるんだよ。」

 どうして気付かなかったんだろう。エディは、いつもノエルを見ていた。いつ見ても笑っているノエルが赦せなかった。だけど。

「あれで本当にノエルが笑っていると思うの? あんなに傷付いて、苦しんでいるのに?」

 ノエルも苦しんでいる。今まで気付かなかったのが不思議なくらい、はっきり分かる。傷付いて、苦しんで、泣いて、涙が渇れてもまだ傷は癒えず、そしてその傷を笑顔の仮面で隠して明るく振る舞っている。

「マーヤのこと、ノエルが辛くない訳ないじゃないか。忘れられる訳ないじゃないか。優しいノエル……素直になれなかったけど、マーヤが大好きだったんだよ。」

「どうして?」

 エディは呆然として呟いた。

「どうして隠すんだ? どうして堪えられる? 辛いなら辛いって言えばいいのに。ずっと我慢してるなんて、苦しすぎるよ。」

「僕にも分からない。」

 ロビンは悲しそうに首を横に振る。

「さっき『ノエルは変わった』って言ったけど、ちっとも変わっちゃいないんだよ。まだ強がってばかり、〈ノエル兄〉のままだ。全部抱え込んで、自分を責めて……。僕たちや周りに心配かけまいとしてるんだろうけど、余計心配だよ。」

「うん……。」

 エディは唇を噛む。今更ながら、あの時ノエルにぶつけた言葉を悔やんだ。

(ノエルの所為だ!)

 感情に任せて放った言葉の剣が、今なおノエルを苛んでいるのではないか?

(ノエル……。)

 エディは俯いた。ロビンももう何も言わなかった。これ以上の言葉はエディには必要ない。本当は全部分かっていたのだから。ただ、目を背けていただけなのだ。

 エディは立ち上がった。

「ノエルのとこ、行くの?」

「……いや。今はまだ、何て言っていいか分からない。ちょっと考えさせて。」

 エディは明るい陽射しから逃げるように、館の中へと姿を消した。

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