ⅩⅩⅩⅥ 夜明けの光
隣室から聞こえた微かな物音に、浅い
ベッドに横になった姿勢のままで周囲の気配を探り、それから起き上がる。ここは伯爵家の屋敷の中で彼女が自由に使うようにと与えられている部屋。壁の向こうからはもう何の音もないが、彼女の敏感な聴覚と第六感は、誰かがこっそりと動いている気配をはっきりと感じ取っていた。
(この隣は……イリスの部屋だわ。)
ガーネットは自分も音を立てぬように素早く服装を整える。やがて隣の部屋の扉が音を立てた。廊下に出ると、少し先の角を足早に曲がる後姿が見えた。夜明け前の淡い光の中の、奇妙な追跡が始まる。
イリスは迷いのない足取りで何処かへ向かっていた。途中でその行先に気付いたガーネットは、思わず声を掛けた。
「イリス、何処へ行くの?」
「ガーネット!?」
驚いて振り返った友人に、女騎士は畳み掛けるように尋ねる。
「どうしてこんな時間に
「ええ、まあ……。」
イリスは曖昧に言い、彼女を避けるようにまた歩き出す。ガーネットはそれについて歩きながら、なおも言った。
「私やお兄様に何も言わずに行くなんて。その調子じゃ、ミカエル様にも何も言っていないのでしょう。ねえイリス、最近あなた変よ。どうしたの? 一体、何があったの?」
「……。」
イリスは何も答えず厩に入り、愛馬へと歩み寄る。主人に気付き軽く鼻を鳴らす愛馬のたてがみを軽く撫でた。暫しの間の後、思い詰めたように呟く。
「昔聞いた話を思い出したんだけど、僕を育てた叔母はバダンテールの血縁なんだ。もしかしたら、何か知っているかもしれない。」
「それを聞きに? でも、イリス確か田舎育ちだって、」
「ここからなら馬をとばして三日……。出来る限り急いで戻るよ。どんな小さな手がかりでも、無いよりはマシだから。」
「駄目よ、時間が掛かりすぎる。反対されると分かっていたから何も言わずに行こうとしたのね。」
無言で俯くイリス。と、ガーネットはもう一つのことに気付いた。
「叔母上が血縁で……ってまさか、あの男が自分の血縁でもあって、それを重荷のように感じているというの?」
イリスはやはり何とも答えない。が、それが肯定のしるしであるようにガーネットには思えた。彼女はイリスに掴みかかるように叫ぶ。
「あなたバカじゃないの!? たとえ血縁だってイリスには何の関係もないわ。そんな苦しみを感じる必要なんか全く無い!」
「でも何かせずにはいられないんだ! 僕は、僕は……!」
叫んだイリスの目に光る雫が見えて、ガーネットは言葉を失った。
その時。
「そんな大声で騒いでいては、屋敷中の人間が目を覚ましてしまうよ。」
穏やかな声に、二人は厩の入口を見た。
「オニキス。」
姿を現した美しい騎士は歩み寄り、イリスの肩を優しく叩く。
「話は聞かせてもらった。私達に何の相談も説明もなくというのは、やはり感心しないよ。」
「すみません。」
「それに君の叔母上の件だが……、伯爵の嫡子たるミカエル様も、奥方様すら詳しくはご存知なかった事だ。離れて暮らしている遠縁が知っているとは思えない。無駄足になる可能性の方が大きいよ。」
イリスは俯く。苦しそうに唇を噛むイリスの肩を、オニキスは片手でぐいと引き寄せた。抱き締めるようにして、耳元で囁く。
「この一件で、君はかなり参っている。一番辛そうだ。一人で背負いこまないで、私やガーネットにも頼ってくれ。」
「オニキス……。」
呟いたイリスの声は、何だか泣いているようだった。
「……僕、部屋に戻ります。」
イリスはふっとオニキスの手を振り払い、かすれた声で言って逃げるようにその場を立ち去った。それを見送るオニキスを見ていたガーネットは、兄の服装に眉を顰めた。
「ところで、お兄様はどうしてここに? その格好……出掛けるんでしょう。だったらイリスと同じじゃないの。」
乗馬服の上に分厚いマントを着たオニキスは、軽く肩を竦めながら自分の愛馬に荷物を積んだ。
「まあ同じだが、違うよ。私が話を聞きに行くのは、当事者だ。」
「当事者? まさか……」
「父上を問い
低い声で言ったオニキスの瞳は、いつになく暗く鋭かった。
「シメオン=バダンテールの親友であり、今となっては事情を知りうる唯一の人物。ミカエル様にもお話しして了承を得てある。今から発てば、昼までには父が隠居している
「お兄様……。」
オニキスはひらりと愛馬に跨ると、不安そうに彼を見上げる妹に言った。
「ガーネット、イリスを頼む。」
「え?」
思いがけぬ言葉に驚いた女騎士に、オニキスは少し寂しそうに笑いかける。
「彼は、私と初めて会った時から、あの細い肩に何か重いものを抱えていた。今もそうだ。そうして一人で強がるくせに、本当はすごく脆い……。私はイリスの事、本当に弟のように思っているんだ。だから、な、頼む。」
「……分かりましたわ。お兄様こそ、道中お気を付けて。」
「ありがとう。」
みるみるうちに小さくなってゆく馬上の騎士の後姿を見送って、彼女はひとり小さな溜息を吐いた。
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