ⅩⅢ 伯爵家の娘
執務室の扉が叩かれる音に、青年は書類から顔を上げた。穏やかな声で尋ねる。
「誰だい?」
「オニキスでございます、伯爵様。」
重々しい音を立てて開いた扉の向こうに立っていた、長い髪の美しい騎士。青年は少し驚いた様子で、書き物を中断して立ち上がった。
「オニキス! 話し相手が出来て嬉しいよ。少し退屈していたんだ。」
青年……伯爵は子供のように顔を輝かせた。彼は貴族として社交界での振る舞いを幼い頃から叩き込まれている所為もあって、実年齢より年上に見られがちだが、実際は二十歳を少し越えたばかりの若者に過ぎない。冗談まじりにため息を吐いた。
「それと、その呼び方はやめろといつも言っているだろう。年寄りになったような気分になる。」
「仰せのままに、ミカエル様。」
オニキスも笑顔で言う。身分は違うが、二人は幼馴染。先代の伯爵、つまりミカエルの父に、騎士であったオニキスの父が仕えていた頃からの旧知の仲だった。ミカエルが爵位を継ぐ前もその後もその傍らには必ず彼を支えるオニキスの姿があり、ミカエルはオニキスを誰よりも信頼している。
そんな友人の訪れに、若き伯爵は年相応の笑顔を見せて部屋に迎え入れた。
「今日は来る予定はなかったじゃないか。……何かあったのか?」
ふと相手の顔が冴えないのに気付いたらしい。心配そうに問いかける主に、オニキスは笑いかけた。
「いえ、貴方様がご心配なさるような事は何もございませんよ。」
そこで一旦言葉を切り、努めて軽い口調で言った。
「近々パーティーが催される予定も多くありますし、素敵な〈ご令嬢〉の話など如何かと思ったのです。お忙しくなければよろしいのですが。」
「全く構わないよ、どうしても今やらなければならない事ではないんだ。」
伯爵はオニキスのちょっとした目配せにすぐに気付いた。飲み物を運んで来た使用人を下がらせると、扉を自らの手でしっかりと閉め、やや声を落として尋ねる。
「もしかして、ノエルか?」
「はい。訳あって私どもの館にお越し頂きました。今はガーネットとイリスが付いております。」
真剣な表情で頷くオニキス。ミカエルの顔が強張った。
「しばらく様子を見ると話していたではないか。何があったか、すべて話せ。」
「御意。」
オニキスは順を追って、出来事をすべて細大漏らさず報告した。ノエルを連れ出した少女を見失った事も、ノエルの命を守るのに間一髪であったことも。ミカエルはやや蒼褪めて、それでも大きく安堵の息を吐いた。
「そうか、そんな事が……。しかし無事でよかった。」
一気に疲れ切ったように椅子に沈み込むと、独り言のように呟く。
「また、辛い思いをさせてしまったな。あの子はもう二度と傷つけてはならないのに。」
重い沈黙が二人を包む。やがてその沈黙を破ったのはミカエルだった。
「ノエル……私の記憶が正しければ、あの
打って変わって明るい口調でそう言った若き伯爵は、口元に嬉しそうな微笑を浮かべつつもどこか寂しそうな目で窓を凝視していた。オニキスはそっと微笑む。
「お嬢様はとても素敵な、そしてお強い方です。あんなに活き活きとして綺麗な瞳の女性には久々にお会いしましたよ。母上によく似ていらっしゃいます。」
「……そうか。」
「お会いになりますか?」
問いかけたオニキスに、意外にもミカエルは首を横に振った。
「いや、ノエル自身の意思に任せよう。無理に連れてこなくていいし、彼女が望まないなら素性を教える必要もない。だって……」
ミカエルの声が震え、彼は一度言葉を切った。窓の外を眺めるその目は、やはりとても寂しげだった。
「何も憶えていないのだろう? この家のことも、母や私のことも、あの〈忌まわしい日〉の前のことは、全て。」
「はい。」
オニキスも少し顔を曇らせて頷く。目に痛いほど青い空を見つめながら、ミカエルは小さく呟いた。
「あの日も……ノエルと過ごした最後の日も、こんな綺麗な青空だったな。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます