2018.8.20ユーラシアの端っことしての中原
さて。
『続三国志』に絡めて漢文読みに関する
雑文をいささか上げさせて頂きました。
興味がある向きにはよいのですが、
ネタとしてはまあマニアック極北、
あんまりニーズがある話ではない。
そこで、今回は古代中国史についての
暴論を開陳しておきたいと思います。
学術的なハナシじゃなくて妄想です。
そのハナシ、さらにニーズなくない?
※
中国ってーと現代中国風味になるので、
ここはまあ「中原」としておきますね。
ナカハラじゃなくてチュウゲン、です。
中国は文化を含めた話ですが、
中原ならエリア名扱いですね。
なんとなく、山東、山西、陝西のライン、
陝西から武関を出て荊州まで到るライン、
荊州からは淮水に沿って海に出るライン、
3線に囲まれたエリアが中原のイメージ。
要するに、黄土地帯です。
学術的な根拠はなくてイメージです。
だから、淮水南岸はともかくとして、
水郷の性質が強い江南はなんか違う。
違うの。
あくまで先秦からの文明地帯縛り。
だから漢中や蜀も落としてしまう。
反論がたくさんあるのは承知の上。
※
んじゃーなんでそんなんで縛るか、
ですが。
殷から春秋って戦車戦ですよねえ?
戦車のイメージは、『ジョジョ』の
第2部、ジョセフとワムウの決戦を
ご参照下さい。
要するに、馬が引く大八車ですよ。
※
この戦車、中原発祥ではたぶんなく
遠く中東に発したものみたいです。
ウィットフォーゲル『世界史』には
まあそう書いてある。
無論、同書が白人目線でユーラシア
西側重視、西側から文明が東漸した
という主張を採っていることもあり、
アジアは辺境という意識は抜き難く、
それが下地になってはおりますなあ。
※
しかして、
有翼獅子とか表象の分布研究を見ると、
やっぱり遊牧民の文化的要素の多くは、
・大陸を西から東に向かった
可能性は高いかなあと妄想しております。
戦車を引くのは馬です。
馬は遊牧民の財産です。
そして、彼らは定住しない。
いくつかの営地を定めて巡回するのが基本、
でも、干ばつや渇水があれば営地を変える。
だから、徐々に動いていくことは確かです。
寒冷化の時期にはかなり大きく動いたはず。
※
動く方向は先住民がいない方向になります。
先住民がいる方向に動くと争いが起こって、
連合政権ができたりしそうな感じですよね。
争い嫌いの民族は先住民が少ない方に行く。
争い好きな民族は先住民が集まる方に行く?
中東を真ん中に据えてみれば、
南や西はバリバリのレッドオーシャンです。
切れ痔の人のお手洗い、
ではなく、血で血を洗う争いの爆心地的な。
北は気候的に暮らすのが厳しくなる。
だったら、東しかないじゃないのよ。
※
なので、
中東近辺から争うのイヤな方々は東に流れ、
天山南北の麓を抜けて黄河源流地域に到達、
おっ、アッチの牧地はよさげじゃね?
という感じでウッカリ隴西から関中に入るか
地道に黄河の湾曲に沿ってぐるりっと回り、
中原に入ったかもしれない。
そんで、
先住民を征服した連合政権が殷かも知れない。
※
『中国歴史地図集』第一冊の夏時全図をみると、
夏の諸族は華山にぶつかって東に流れる黄河の
沿岸に集中しているのが一目瞭然であります。
関中には長安のあたりに扈氏が暮らすだけ、
その北の黄河湾曲部の内側に
コヤツは異民族ですね。
黄河の流域に育ったシンプルな世界です。
ちなみに、淮水とかは超辺境だったはず。
※
殷になると中原が広がります。
先ほどの中原がほぼ完成する。
ただ、関中はまだ開発中なのか、
長安の北を東西に走る渭水上流は
邢方や犬戎の異民族がウロウロし、
その手前の岐山に周がありますね。
北西から渭水に注ぐ涇水沿いには
かなり上流まで封国があります。
涇水をさらに遡って高平まで行き、
さらに北西に進んで黄河を渡ると、
蘭州に到り、その先は河西回廊。
この高平から涇水に沿って進む経路は
西域からの人や物が流れる幹線の一つ、
先ほどの隴西から関中に入る道筋です。
涇水沿岸の開発は、ここが殷にとって
何らかの意味がある場所だったから、
かも知れませんねー。
この道を通って殷は中原に来た、とか?
※
殷を滅ぼした周は、先ほどの触れた通り、
長安の西の岐山に発すると言われますな。
その前はどこにいたのかなあ。
関中には羌方という異民族もございます。
後の羌族と考えていいのかなあ。
その羌と周はなんか近しい。
姜子牙はつまり太公望呂尚ですよねー。
周と姻戚だったとゆー説もあるらしい。
この辺はあまり詳しくないのですけど。
で、
後世を引き合いに出して考えますと、
匈奴など五胡を例に出すまでもなく、
征服者は軍事力により征服しますな。
モンゴルは草原での戦を繰り返して
鍛え抜いた力によってユーラシアに
覇を唱えたわけです。
犬戎や羌方、邢方が跋扈する関中では、
周がそれらとの戦いに明け暮れていた。
そうすると、
儒家が唱える文王や武王とは違うお姿、
ムキムキマッスルな周が見えませんか?
※
そして、その周が中原から関中に入った、
というのは考えにくいのかなあ、とかね。
だって、
楽に生きられる世界から『北斗の拳』の
弱肉強食ヒャッハーの世界に移住って。
無理強いされても行きたくないし、
無理強いされて行くとたぶん死ぬ。
周はさらに西から現れた新参だったかな、
という気もしなくはないのですよねえー。
それなら、修羅の国の人ですから、
なんか大丈夫そうじゃないですか。
知らんけど。
そうなると、
黄河流域に発生した文明から見れば、
殷が西からのファーストインパクト、
周はそれに続くセカンドインパクト。
という仮説もなくはないかも知れないし、
妄想の産物かも知れないし、どうかなあ。
※
そう考える理由は、
有史以降の中原は北や西からの異民族の
流入と同化というか多様化を繰り返し、
ユーラシアの西の果てにある坩堝として
さまざまな文化を統合して参りました。
漢や唐なんかはその完成形の一つかなあ、
という感じを受けてしまうのですよねえ。
漢は中原に漢文化を確立して民族よりも
文化による漢の民族意識を作り上げた。
それは五胡により突き崩されながらも、
河北に成立した鮮卑文化すらも包摂し、
隋唐が全土に広げて漢文化を更新した。
なんかそんなイメージを持つのですね。
その流れが常態だとすると、殷や周は
そうじゃないとは言えないかな、と。
むしろ、漢のように中華が強勢で夷狄と
文化を截然と分かれている方が例外的。
戦国趙の武霊王の胡服騎射、拓跋魏の
孝文帝の胡俗禁止令あたりは文化的な
動的交流の一例ではありますまいか。
とか。
※
そう考えてくると、
現在、欧州を中心に問題となっている
イスラム移民問題をウン千年にも渡って
継続的に繰り返してきたのが中原という
地域の特性なのではなかろうか、という
妄想につながっていくわけであります。
そのベースには異文化への寛容というか、
隔離とゆるやかな交流の継続による同化、
という長い時間をかけた、西洋的ではない
問題解決があったのじゃないかなあ。。。
そういう目で見直すと、
中国史は単なる過去のヨタ話ではなくて、
東洋的問題解決手法の宝庫かも知れない。
そんな風にも思うのですよね。
※
それは置いても、見える景色がかなり変わる。
同じ事実でも位置づけが変わってきますよね。
これは、実にオモシロイことだと思うのです。
※
長々書きましたが要約すると、
・異民族の中原侵入は常態と見た方がいい
・殷や周もその文脈に置けるかも知れない
・結果、史実を違う感じに捉え直せるかも
そんな興味がありまして、一般に暗黒時代と
言われがちな五胡時代や南北朝時代に興味が
あるわけなんですね。
なんとなく、杉山正明センセイちっく。
外部からの視座でひっくり返して見る、
あの発想は素晴らしいと感動しますね。
モンゴルは史料があっていいなあ。。。
匈奴、鮮卑、高車、羌族、柔然は。。。
全然文字史料がないから分かりません。
マジメに研究する気はサラサラないですが、
そーゆー妄想が広がるのが楽しいわけです。
たぶん、珍種のヘンタイです。
今日はこれまでとします。
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