第三章 屋根のない家へ

環がいなくなって三ヶ月ほど経った頃、僕は例の白い塀へ向かった。季節は秋にさしかかり、セミの声が薄くなっていた。塀の切れ目は、誰かが広げたのか、僕の肩幅でも通れるほどになっている。中に入ると、床の水は乾いていた。テーブルは相変わらず中央にあり、水を吸っていた本は、乾いて波打っていた。


ページをめくると、途中に一枚だけ、濡れても破けないように厚い紙が差し込まれていた。そこには、僕の知る字で、たった一文が書かれていた。


『屋根がないと、星の音が聞こえる。——たまき』


僕はゆっくりと周囲を見渡した。壁は東西南北の順に白い面を向け、四角は四角のまま僕を取り囲んでいるのに、空だけが果てしなく開いている。耳を澄ますと、遠い道路のタイヤの音、鳥のさえずり、重機の低い唸り。どれも星の音ではない。じゃあ星の音って、なに。僕が声にしない問いを、空は聞かないふりをした。


僕は『記憶のノート』に、あの一文を書き写した。書き写すことは、単なるコピーではない。僕の手つきや呼吸や、鉛筆の重さがそこに介入する。環の書いた文字は少し右上がりで、踵をあげる時の不安定さを思わせた。僕はその不安定さを、僕の紙に再現するふりをして、できなかった。


その日から僕は、月に一度は「屋根のない家」へ通った。季節が移り、匂いの配合は薄まり、濃くなり、また薄まった。僕は何かを待っていたのだと思う。何かが何かを変える瞬間が、空から降ってくるのを待つみたいに。

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