第二章 環(たまき)

中学に上がると、環という同級生ができた。苗字は山名。彼女は人の話を聞く時、いつも少し顔を傾けた。傾ける角度が、香りの漂ってくる方向と一致しているかどうか確かめているように見えた。理科の授業で、彼女は空気の成分にやたらと詳しかった。


「匂いって、混ざりものよね」と言って、図書室で借りた本を机に置いた。「その混ざり方が、個人の記憶にこすれて、別の名前になるんだと思う」


僕は『記憶のノート』のことを話した。環は面白がって、ある日、僕のノートに彼女の文字で一行を書いた。『校庭の砂が焼ける匂い——太陽は透明な黒板消し』。透明なのに黒板消しだなんて、と僕が笑うと、環は笑わずに「見えないのに消されることはある」と言った。彼女の笑わないやり方を、僕は真似できなかった。


夏祭りの夜、僕らは屋台の明かりの端っこに立って、人の流れを眺めた。環は紙コップのラムネを持ち、飲まずに指で汗を拭った。「夏って、冷たいものを温かい手で持つでしょ」と彼女が言う。「その感じが、好き」


花火が上がる頃、空がほんの少し近づいた。僕は言おうとして、言わなかった。言わなかったことは、言ったことよりも長く残る。環が帰る方向へ歩き出したとき、僕は呼び止めなかった。呼び止めるための一歩が、体のどこにも見つからなかった。翌日、環は学校を欠席した。次の日も、その次の日も。


一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。山名環は、あっけないほど静かに、学校からいなくなった。家庭の事情だと噂が広がった。何が事情なのかを、誰も言わなかった。僕は『記憶のノート』の同じページに、同じ匂いの名前ばかりを書いた。『雨上がりの風』『雨上がりの風』『雨上がりの風』。書けば書くほど、空白が広がった。

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